長者の剣
翌朝、志麻は波の音で目を覚ました。
手摺窓の障子を開けると、松原越しに海が見える。
風があるのか、三角の白波が立っていた。
「ヘ〜、今日は兎が跳ねてるね」
いつの間にかお紺が後ろに立って海を眺めている。
「兎って?」海を見たまま志麻が訊く。
「いつだったかお座敷で西国のお侍が教えてくれたんだ。風が出ると波頭なみがしらの水が飛ばされて、兎が跳ねてるように見えるんだって」
志麻が振り返ってお紺を見た。
「機嫌きげん治ったのかい?」お紺が訊いた。
「別に怒ってなんかないわよ」
「そう?」
「それより朝ご飯まだかな?お腹すいちゃった」
「ちょっと待てて、つるさんに聞いてくるから」
お紺は身軽に襖を開けて出て行った。
暫くすると、お紺とつるが箱膳を一つずつ抱えて戻って来た。
「他の客達と食べるのも気ぶっせいだから持って来ちゃった」
「後でお櫃ひつ持って来るから、いくらでもおかわりしてね」つるが志麻の前に箱膳を据えながら言った。
「ありがとう、ところで箱根まではあとどのくらいかな?」志麻が訊いた。
「さぁてね、十二、三里ってとこかな?男でも一日じゃ無理だよ」
「あのね、箱根の関所を越える前の日は必ず小田原で一泊しなきゃなんないの」お紺が決め付けるように言った。
「なんで?」
「小田原で案内人探して、翌朝関所が開く前に裏道を通って関所を抜けるんだよ」
「あら、あんたら関所抜けする気かい?」つるが訊いた。
「何しろ『抜け』参りだからねぇ」お紺がニヤリと笑う。
「だったら小田原で木賃宿を探すといいよ、安い宿ほど道中稼ぎが盛んだから」
「分かった、そうする・・・とすると今夜は藤沢宿あたりでのんびりして、明日小田原まで着ければいいと言う事だね」
「私は手形持ってんだけど」志麻が不服そうに言った。
「固いこと言いっこなしだよ、『ここまで来りゃ一蓮托生いちれんたくしょう、粋なお紺姐さんとの道行を楽しめばい〜でありんす』」
芝居がかった言い回しでお紺が言った。
「仕方ないなぁ・・・」
「あはははは、気をつけてお行き」つるは立ち上がるとお櫃を取りに出て行った。
*******
湊屋の前でつるに別れを告げて、とりあえず次の宿場の保土ヶ谷に向かうことにした。
保土ヶ谷までは一里九町、目と鼻の先だ。
お紺は硬い草履ぞうりを草鞋わらじに履き替えて、歩くのが楽になったようだ。
「最初から草鞋わらじにすれば良かったのに」志麻が言うと「だってみんなが見てる前じゃ、少しでも綺麗にしていたいじゃない」と、返して来た。
「見栄っ張り!」
「お生憎様、辰巳芸者は見栄と気風きっぷで売ってんのさ」
「減らず口ばっかり・・・」
無駄口を叩き合いながら行くと、前方に橋が見えて来た。
「帷子かたびら橋だ、あの先が保土ヶ谷宿ね」志麻が額に手を翳かざす。
「本陣がある宿場だからきっと美味しい食べ物屋もあるね」
昨日仕入れた長柄杓を振り回しながらお紺が言った。
いくつかの町並みを過ぎて保土ヶ谷に入ると、お紺が早速さっそく飯屋を見付けて来た。
縄暖簾なわのれんを潜ると土間に床几しょうぎ(木の台)が三つばかり並べて置いてある。奥には小上がりの座敷もあったが、お紺は迷わず床几に腰掛けた。草鞋を脱ぐのが面倒だから、と言うのがその理由だった。
さっそく小女が注文を取りに来た。
「えっと、ねぎま汁とあんかけ湯豆腐、煮豆、鯵あじの塩焼き、ゆで蛸に芋の煮ころばし!」
お紺が一気に注文した。
「え、そんなに食べるの?」志麻が呆れて訊いた。
「腹が減っては戦はできぬ、でしょ?・・・あ、それからお酒を熱燗で二本持ってきてね」
小女が奥に注文を伝えに小走りで駆けて行く。
「お姐さん方、どこまで行きなさる?」
小上がりに腰掛けていた品の良い商人風の男が声を掛けて来た。旅の途中らしく護身用の長脇差を膝元に置いている。
「ちょいとお伊勢さんまで」
営業用の笑顔を作ってお紺がにこやかに答える。
「道理で柄杓を持っておいでだ」
「ああ、これはほんのお印。別にタダで伊勢まで行こうってんじゃありませんよ」
「分かってますよ、いずれ名のある姐さんの道楽旅でございましょう?」
「ほほほ、バレましたぁ!」
「お紺さん・・・」志麻が小声でお紺の袖を引く。
「大丈夫よ、悪い人じゃなさそうだもん」
「そちらの娘さんは剣の修行か何かで?」
男が志麻に話を振ってきた。
「いいえ、国へ帰る途中です」
「へぇ、御国へ?で、どちらです?」
「津まで」
「それは伊勢に近い、それでご一緒に旅をしておられるわけですな?」
「そう言うわけではありませんが・・・」
色々と根掘り葉掘り訊いてくる。
「どうです、お近づきの印に一献?」
男が燗徳利かんとっくりと盃を持って立ち上がった。
「まずはお姐さん、ささ、遠慮無く」
「さいですか、ならお言葉に甘えて一杯だけ・・・」
お紺は男が差し出す徳利から盃に酒を受けた。
「ああ美味しい、五臓六腑に染み渡るわぁ!」
「さすが良い呑みっぷりですねぇ・・・さ、そちらの娘さんも」
男が志麻に徳利を向けてきた。
「私は呑めません!」志麻はキッパリ断った。
「さあ、それは残念、剣のお腕前は相当なものとお見受け致しますが?」
なんなのだこの男、いきなり何を言い出す?
「旦那様・・・」
その時、下男風の男が店に入って来た。
「なんだ伊助、駕籠かごは見つかったのかい?」
「へい、居酒屋の前で屯しておりました駕籠屋を雇いました」
店の間口は開け放してあったので、駕籠が停まっているのが見える。背中に立派な彫り物をした駕籠舁きが二人傍に立っていた。
「そうか・・・」
男が二人に向き直る。
「お名残なごり惜しくはございますが、お聞きの通り駕籠が参ったようで御座います。私も今日中に平塚まで行く用事がございまして、ご縁があったらまたお会いする機会も御座いましょう」
「あら、残念。お酒ご馳走様でした。どちら様か存じませぬが道中お気を付けてくださいまし」
「私は紀伊國屋八兵衛と申すしがない呉服屋でございます、どうぞお見知り置きを」
「私は柳橋で芸者をやっておりますお紺と申します。この娘は志麻ちゃん」
「ほう、志麻さんとおっしゃる・・・」
「何か?」
「い、いえ、なんでもでもございません・・・ 」
男は下男の伊助に何やら言い含めると、懐から財布を取り出して渡した。
「ではこれにて失礼いたします」
お辞儀をして踵を返し、悠然と店から出ていった。
伊助は小女に払いを済ませると、こちらをチラッと鋭い目で睨んで主人の後を追う。
「なんだか嫌な奴」志麻が呟いた。
「そお、良い人っぽかったわよ」
「そうかしら?」
「良いじゃない、もう二度と会うこともないんだから」
「だと良いんだけど」
小女が注文の物を盆に載せて持って来た。
「あ、来た来た、志麻ちゃん食べましょ!」
「うん、食べよ!」
「このねぎま汁美味しい!」
「この煮豆も絶品!」
二人はさっきの事などすっかり忘れて、忙せわしなく喋りながら箸を動かした。
*******
「やっぱり良い人だったじゃない」
「なんで?」
「だって、私たちの分まで支払い済ませてくれてたのよ」
「払ってくれって頼んだ訳じゃないわ」
「志麻ちゃん、人の親切は素直に受けるものよ」
「下心があってのことかも知れないから」
「もう、そんなんじゃお嫁に行けないわよ」
「そんな事関係ない!」
「じゃあ、知らない!」
お紺はプイと前を向いて足を早めた。
「先に行くから!」
「どうぞお先に!」
志麻は足を止めて、プンプン怒って先へ行くお紺の背中を見送った。
「どうせそのうち追いつくわ。暫くは一人の方が気楽でいい!」
大声で独り言を言っていた。
*******
「もうそろそろ草臥くたびれて音ねを上げてる筈なんだけど・・・」
街道はいつの間にか保土ヶ谷を抜けて戸塚宿に向かっている。
「本当なら昨日ここまで来ていた筈だったのに・・・」ブツブツ言いながら権太坂に差し掛かる。
「あれ?」
前方から、保土ヶ谷の飯屋で見かけた駕籠舁きが二人、空の駕籠を担いでやって来る。
「ちょっと駕籠屋さん、もうお帰り?」志麻が声を掛けた。
「あんた飯屋に居た人だね?」
「そうだけど、平塚まで行くんじゃなかったの?」
「その予定だったんだけどよぅ・・・そうだ、あんたの連れの粋な姐さんとバッタリ会っちまって、一緒に歩くからって帰された。酒代たんまり弾んでくれたんで文句はねぇけどよ、あんまり良い気持ちはしねぇな」
「それどの辺り?」
「この坂を登り切ったところに茶店があるんだが、そこで一息入れていたら姐さんが登ってきたんだ」
「そこで帰されたってわけね・・・」
何か変だ、志麻の心にひっかかるものがあった。
「ありがとう」
「嬢ちゃん、あの辺は昼でも暗いところが多いから、一人で行くんなら気をつけな」
「分かった!」
一気に坂を駆け上る、額から汗が滴り落ちるが構ってはいられない。
「なんだか悪い予感がする・・・」
峠の茶屋が見えてきた。藁屋根の掘っ立て小屋の前に床几しょうぎを二つ並べただけの簡素なものだが、櫛くしや細工物などの土産品も台に並べて売っている。
声を掛けると奥から老婆が一人出て来た。
「いらっしゃい、今日は客がよく来るねぇ」
「お婆ちゃん、私客じゃないの、少し聞きたいことがあるんだけど・・・」
「ほう、なんだい?」
老婆が目を細めて志麻を見る。
「少し前なんだけど、ここに商人風の男と、粋なお姐さんが来なかった?」
「ああ、来たよ。四半時ほど前だったかったかねぇ」
「どんな様子だった?」
「お茶とお団子を注文して楽しげに話してたけど、食べ終わったら出て行ったよ」
「どっち行った?」
「この道は一本道さね、途中に林道があるけどそっちは地元の人間しか使わないんで滅多に人は行かないよ」
「ありがとお婆ちゃん、お客じゃなくてごめんね!」
志麻は店の前の道を森に向かって歩き出す。
「気をつけて行くんだよ」老婆の声が追って来た。
森に入ると心なしか道幅が狭くなった。
両脇から広葉樹の枝が覆い被さるように伸びて、夕方のように薄暗い。
足元を確かめながら慎重に歩を進めた。
「あっ!」
左前方の木の枝に、見たことのある物がひっかっている。
「柄杓・・・」
手にとって眺めるとまだ新しい。
「お紺さんのだ・・・」
柄杓のひっかかっていた木の後ろに白い筋のようなものが見える。
「お婆さんの言っていた林道ね」
迷わず熊笹の密生する中に足を踏み入れた。一人がやっと通れるような細い道が、杉林の中を谷の下まで続いている。
「お紺さん、今行くから待ってて!」
志麻は足を早めて林道を下って行く。
時々木の根に足を取られて転びそうになるが、構わず突き進む。
とうとう川の畔ほとりの砂地まで降りて来た。
「早うございましたね」
後ろから声がして振り返ると、八兵衛が立っていた。
「お紺さんがお待ちかねでしたよ」
指差す方を見ると、お紺が猿轡さるぐつわを咬まされて荒縄で縛りつけられてれていた。
その縄尻を下男の伊助が握って、刃物を突き付けている。
「ん〜ん〜!!」お紺が必死に抗あらがった。
「なんて酷い事を、絶対に許さない!」
志麻が八兵衛を睨みつけた。
「あなたが勝ったら助ければ良い。でも、私が勝ったら悪いけれど二人とも二度と娑婆には戻れない」
「なんの恨みがあってこんな事をする!」
「恨みなんてありません、私はただ腕試しがしたいだけ」
「腕試し?」
「志麻さん、あなた草壁監物に勝ったそうですね?」
「それがどうしたの?」
「私は道楽で剣術を習っています、金にあかせて一流の先生を雇ってね。ところが私には剣術の才があったと見えて、みるみる強くなったのですよ。その先生は、この江戸であなたに敵かなう者はいないだろう、と言うのです。勿論私はそこまで自惚うぬぼれちゃいません、先生の言う事も忖度そんたく半分で聞いています。でも、本当の所を知りたかったのですよ、私の腕が本物にどこまで通用するのかを、ね。そんな時ひょんなところであなたの噂を耳にしました。その時得た情報をもとに、私も昨日江戸を発ったのです。そこで、あなたの腕前を見たのですよ、益々あなたとやってみたくなりましてねぇ」
鈴ヶ森の斬り合いを見たんだ・・・
「そんな事の為に関係の無いお紺さんを拉致したの!」
「仕方がありませんでした、あの店でバッタリ会ってしまいましたから。お紺さんを一人にしたあなたの責任ですよ」
「・・・」
「さあ、私と勝負してください」八兵衛は長脇差の柄を叩いた。
「分かった・・・」
*******
志麻は下段で八兵衛と対峙した。
対する八兵衛は左上段、対照的な構えだ。
対峙してすぐに志麻は気が付いた、八兵衛の腕は金持ちの道楽程度の腕では無いと。
金にあかせてどんなに良い先生を雇ったとしても、本人の努力と才がなければこうはならない。
そんな人間が道場剣術に飽き足らなければ、このような愚挙に出るのも頷ける。
だからと言って許せるものでは無い。
志麻は下段の剣をゆっくりと左へ回して行った。
志麻の右側にできた隙にも八兵衛は全く反応しなかった、並みの相手なら機と見て斬り込んで来る筈である。
さらに剣尖が上がって天を指したが八兵衛は動かない。志麻の剣は等速度を保ったまま下り始めた。
左が空いたら心臓を狙ってくる・・・
「分かってるわ」
ならもう何も言わない・・・
「鬼神丸・・・終わったら聞きたい事がある」
何・・・
「あなたの名前」
いいわ・・・
志麻の剣が右足の爪先に達しようとした時、八兵衛が動いた。
右足を踏み込んで真っ直ぐに斬って来た、尋常の打ち込みに見えた。
『いや、踏み込みが浅い!』志麻は咄嗟に飛び退いた。
八兵衛は志麻の胸の高さで剣尖を止めると二度目の踏み込みを敢行した。
『最初からこれが狙いだったのね!』
一度の踏み込みを刻む事で『斬・突』二つの技を行ったのだ。
だが、その間も志麻の剣は動きを止めてはいなかった。
八兵衛の剣を巻き込むように刎はね上げると、そのまま袈裟懸けに斬りおろした。
*******
「あれは町年寄りの寄合の後、吉原の大楼に繰り出した時の事でした・・・」
八兵衛は寄合いの仲間と剣の自慢話に花が咲き、つい酒を過ごしてしまった。
厠かわやへ立とうとして足がもつれる。
「主ぬしさん、お供いたしんす」太夫が傍わきを支えるようにして言った。
「私はまだ酔っちゃいませんよ」
太夫の気遣いを断り廊下に出た。フラフラしながら厠へ行き、用を足して手水鉢ちょうずばちで手を洗っていると禿かむろが手拭いを差し出した。
「太夫が行ってこいって・・・」
「そうかい、ありがとうよ」
禿に礼を言って手拭いを受け取った。
「そうだ・・・空いている座敷は有るかい?」
禿は不思議そうな顔をして八兵衛を見上げたが素直に教えてくれた。
「あい、二階の小座敷が二つ空いておりんす」
「おじさん少し呑み過ぎたようなんだ、ちょっとの間休ませて貰いたいのだが?」
「太夫に聞いてまいりす」
「いや、太夫には酔いを冷まして帰ってくると伝えてくれれば良い、あとは太夫が上手くやってくれる」
「でも・・・」
小銭を懐紙に包んで禿の手に持たせた。
「分かりんした、太夫にそうお伝えしておきんす」
禿は両手で包みを握ると、コクンとお辞儀をして戻って行った。
八兵衛は二階に上がると灯りの消えている二部屋を探す。
「あった、ここだここだ」
襖を開けて一部屋に滑り込んだ。
「ふぅ、呑み過ぎたわい」
畳に大の字になると天井がぐるぐる回る。
ギュッと目を瞑るといつの間にか寝入ってしまった。
どのくらい経っただろう、襖の隙間から射し込む細い灯りで目が覚めた。
『隣の座敷に客が入ったか』
そろそろ戻らねば、と、躰を起こしかけた時、男の声が耳に飛び込んで来た。
「その娘むすめを斬れば、五百両はあんたの物だ」
「たかが小娘一人に五百両とは恐れ入ったな」
「ただの娘と侮るな、あの草壁監物を倒した娘だ」
「草壁監物も落ちたものだな」
「できるか?」
「当たり前だ、そんな楽な仕事で五百両なんて滅多に有るもんじゃない」
「よし決まりだ、その娘は明日江戸を発つらしい」
「名前は?」
「黒霧志麻・・・」
*******
「あの時なぜ八兵衛を斬らなかったの?」街道を歩きながらお紺が訊いた。
「八兵衛を斬れば、伊助がお紺さんを殺す、それに・・・」
「それに?」
「お紺さんの言う通り、八兵衛はそんなに悪い人じゃなかった」
「志麻ちゃん人が良すぎ、下手したら命取られてたのよ!」
「お金目当てでもなさそうだし、これに懲りて腕試しなんかしなければ良い事だから」
「そうね、金で剣術の先生雇えるような金持ちが、五百両ぽっちの端はした金で危ない橋は渡らないもんね」
二人は互いを見てウンウンと頷き合った。
「あっ、また名前聞くの忘れた!」
「え、誰の?」
「ううん、なんでも無い」
「ケチ、教えてくれたって良いじゃ無い!」
「また今度、それより今夜の宿を探さなくちゃ」
「そうか、ゆっくり湯に浸かって美味しいもの食べましょ!」
仲直りした二人の影が街道に長く伸びていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!