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徒歩渡し
徒歩かち渡し
藤沢宿に一夜の宿を取った志麻とお紺は、翌日他の旅人より早く宿を出た。
平塚までは三里半、大磯までは二十七町、そこから小田原までは四里の距離だ。
男の足なら余裕だが、お紺の足では早目に出立した方が無難だと判断した。
馬入ばにゅう川を舟で渡ると平塚宿だ。大磯までは目と鼻の先だが大磯の間先には徒歩かち渡しで有名な酒匂さかわ川がある。ここで腹ごしらえをして行こうとお紺が言い出し、食べ物屋を探す事にした。
江戸見附の門を潜ると街道沿いに酒屋や蕎麦屋が立ち並び、正面にはお椀を伏せたような形の高麗山こまやまが聳そびえている。
旅籠の前では昼前だと言うのに留女が言葉巧みに客を誘っていた。
「小田原へはあの高麗山を超えなければなりません、ここで足を休めて明日ゆっくり小田原へ向かわれてはいかがです?」
しかし、まだこの時間に客引きの声に耳を貸す者はいない。皆急ぎ足で町屋の続く街道を通り過ぎて行く。実際は山の周りの平坦な道を行くだけだからだ。
「客を小田原に取られて、必死なのね」
そう言いながらお紺は食べ物屋を物色するのに必死だ。
その内どこからか、コクのある香ばしい匂いが漂って来た。
「あ、あそこが良い!」
お紺はいそいそと縄暖簾なわのれんを潜る。
「いらっしゃい!」手拭いを姉さん被りにした女が、大きな団扇うちわで炭の入った焼き台を扇ぎながら声をかけて来た。
後ろで鉢巻をして鰻を割いているのは亭主であろう。煙に燻された顔がテラテラと飴色に光っている。
「蒲焼き二つ、それから熱燗もね!」お紺は志麻に聞きもせず早々と注文をした。
遅れて入って来た志麻が、お紺の座った床几に腰掛けた。
「お紺さん、ここ鰻屋じゃない」
「そうだけど・・・鰻嫌い?」
「嫌いじゃないけど、蕎麦なら十杯は食べれるわよ。道中長いんだから無駄遣いは・・・」
「心配ないって、いざとなったらこれがある」
お紺が帯に挿した柄杓を手に取った。
「それに今夜は木賃宿を探さなくちゃならないでしょ?きっとろくな物は食べられないわ」
「そう言えば木賃宿って基本食べ物は持ち込みだよね、お米はどうするの?」
「後で二合ほど分けてもらいましょう、それから香の物も。今夜は粗食だから今のうちに精をつけとかなくちゃ」
「それもそうか・・・」
志麻も納得して鰻を食べる事にした。
「お待ちどうさま。鰻は焼き上がりに時間がかかるからこれで一杯やっててね」
二合徳利が盆に載せられて二人の間に置かれた。付き出しに分葱わけぎの饅ぬたが付いている。
「ありがとう、女将さん。後でお米二合と漬物を分けてもらいたいんだけど、お勘定一緒で良いかな?」
「あいよ、帰りまでに準備しとくよ」
「お願いね!」
女将が去るとお紺が小声で囁いた。
「また変な奴が襲って来やしないかねぇ?」
「分からない、私の首に五百両を掛けた男が一体何者なのかも分からないから」
「少し呑む?」
お紺が徳利を持ち上げて言った。
「そうね、じゃあ一杯だけ」
志麻はお紺から盃を受け取ると一気に酒を呑み干した。
*******
鰻を食べ終えて外に出ると、なんだか躰がポカポカする。
「とてもあったまった」
「寒い時期の鰻の方が脂が乗って美味しいのよ・・・それに、お酒もたまにはいいものでしょ?」
「うん」志麻は素直に頷く。
酒匂川の広い河原に人足たちの姿が見える。冬になったら仮橋が架かるのだが、この時期はまだ人足渡しが行われているようだ。
「姐さん方お上りかい?」人足が声を掛けてきた。「どうだい、安くしとくよ」
「いくらだい?」お紺が胡散うさん臭そうに訊いた。
「そうだな、今日は水が乳の下だから七十八文(2,340円)て言うところかな?」
「高いね、もうちっと安くはならないのかい?」
「姐さん、この川を良く見ておくんねぇ、夜中に降った雨で結構な流れだ。もうちっと水嵩が増しゃ川留めになる、今のうちに渡った方が得なんじゃねぇかい?」
「お紺さん、そのおじさんの言う通りだ。空模様が怪しいから今のうちに渡ろう」
「お、嬢ちゃんは話が分かるねぇ。姐さんはどうするね?」
「だけど肩車で渡るんだろ?途中で落っこちやしないかねぇ?」お紺はあくまで懐疑的だ。
「大丈夫だ、客を死なせりゃ俺たちだっておまんまの食い上げだ、ヘマはしねぇよ」
「じゃあ、料金は後払いだよ。無事向こうに着いたら払ってあげる」
「よし、決まりだ!」人足がもう一人の仲間を呼んだ。
「俺ぁこっちの嬢ちゃんを渡す、お前ぇはその姐さんを頼む」
「兄ぃ、俺に重い方ばっかり・・・」
「失礼ね、そりゃその娘こよりゃちっとは重いかも知んないけど!」
「文句言うねぇ、その代わり姐さんの股ぐらに頭突っ込めるんだ、役得じゃねぇか」
「まっ、いやらしい!」
「冗談だよ、俺たちゃそんな事には慣れっこだ、いちいち勃起してたんじゃ仕事になんねぇよ」
「志麻ちゃんは良いわね、野袴のばかまだもの」
『お紺さん、我慢して・・・』志麻が心の中で呟いた。
「さあ、あっち向きねぇ!」
人足二人は志麻とお紺を軽々と肩に乗せた。
「行くぜ!」ザブザブと川へ入って行く。
「嬢ちゃん、俺の頭にしっかりとつかまってるんだぜ」
志麻はギュッと人足の頭にしがみついた。
「おいおい、それじゃ前が見えねぇ!」
「あ、おじさんごめん」
「あはははははは・・・」
川の中程まで来ると、水が足の下を流れて行くように見える。
「濡れたくなかったら足先を上げてな」
言われるままに足先を上げると上体がグラリと揺れた。
「きゃっ!」
「大丈夫、落としゃしねぇよ」
川の一番深い部分に来た時、対岸に不審な人影が湧わいた。
「なんだあいつ、弓を持ってるじゃねぇか!」
見ると竹槍や長脇差を持った五人のヤクザ者が岸に立ってこちらを睨んでいる。その傍で一人の侍が半弓を構えていた。
「ヤベェ!射うつ気だ!」
川に入っていた川越人足達が我先に引き返し始めた。
「志麻ちゃんも逃げて!」お紺が叫んでいる。
志麻の下で人足が方向を変えようとした。
「おじさんダメ!あの弓はこっちを狙っている、背中を向けたらやられる!」
「じゃあ、どうすりゃ良いんだ!」
「前に進んで!」
「ええっ!」
「大丈夫、私が矢を斬り落とすから!」
志麻が鬼神丸を抜いて頭上に構えた。
「斬れんのか!」
「私を信じて!」
人足は一瞬躊躇していたが、すぐに腹を括ったようだ。
「分かった、弓矢が怖くって川越人足がやってられるかってんだ!」
「それどう言う意味?」
「参勤交代じゃ弓矢担いだ侍ぇも渡す事がある」
「なるほど・・・」
人足は対岸に向かってズンズン足を進めて行く。
最初の矢が飛んで来た。
志麻は鬼神丸を一閃して矢を真っ二つに斬った。
「やるねぇ、嬢ちゃん」
二本目が唸りを上げて飛んで来るのも難なく打ち払う。
「お前ぇさんひょっとして名のある剣の達人かい?」
人足が上目遣いに志麻を見上げる。
浅瀬に差し掛かり、水が人足の腰下になった時、声が上がった。
「人足を狙え!」
「ひっ!」
さすがの人足も足が固まった。
「おじさん、私を思いっきり投げて!」
「いいのか!」
「早く!」
人足は両手の掌で志麻の尻を持ち上げると、渾身の力で岸に放り投げた。
飛んできた矢を、志麻は空中で斬り落とす。
着地したら左へ飛んで・・・
鬼神丸の声がする。
足が岸に着くと同時に左へ飛ぶ。竹槍の穂先が志麻の右頬を掠めて行った。
左(相手からは右)方向は軌道修正が一調子遅れる槍の死角だ。
目標を失ってタタラを踏んだ敵が川の中に飛び込んで行った。
「嬢ちゃん、こいつは俺に任せろ!」
人足が敵の竹槍を掴んで叫んだ。
「おじちゃんありがとう!」
正面から敵が斬り込んで来た。
身を沈めて片膝を突きながら横様に剣を振るう。
脛を断ち斬られた敵が、絶叫を上げて顔から河原の砂利に突っ込んだ。
志麻・・・
鬼神丸が動いた。弾かれたように後方に跳ね上がる。引かれるようにして振り向くと、顎を割られた敵が仰け反って倒れる所だった。
「危ない、いつの間に後ろに回り込まれていたんだろう?」
油断しないで・・・
「あと三人・・・」志麻が残りの敵を数えた。
「兄ぃ!」
その時、人足達が大勢川を渡って押し寄せて来た。
「退け!」
弓を持った侍が命じる。
「仲間は!」
「置いて行く、まだ捕まる訳には参らぬ!」
「ちくしょう!」
敵は仲間を置き去りにして散々(ちりぢり)に逃げて行った。
「志麻ちゃん大丈夫!」
お紺が血相を変えて走って来た。
「大丈夫、おじさんのお陰で助かった」
志麻が人足を振り返る。
「なぁに、俺の出る幕なんぞ無かったよ。しかし凄ぇな、あの後ろの奴どうやって斬ったんだ?」
「兄ぃ、俺こいつ知ってる。地回りの三下だ!」
弟分の人足が、捕まった男を見て叫ぶ。
「そうかい、こいつにはじっくり話を聞かせて貰おうか」
*******
「結局あいつら、金に目が眩んで雇われただけだったんだね?」お紺が嘆息して言った。
あれから捕まえた奴を締め上げたのだが、侍に金で雇われた事しか分からなかった。
「あの弓を持った侍の正体は分からずじまいだった」
「なんだか剣呑けんのんな旅になりそうだね」
「もうなってる」志麻が笑ってお紺を見た。「それでも一緒に行く?」
「こうなったら最後まで付き合ってやるさ」
「そう言うと思ってた・・・」
「とんだ時間を喰っちまった。今日中に小田原には行けないね」
「今日はこの辺で泊めてくれる農家を探しますか?」
「ここまでくれば小田原は目と鼻の先、明日は遅い出立でいいね」
二人は降り出した雨の中を、人家を探して足を早めた。