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翌週の水曜日、先週おこなった検査結果を聞きに、クリニックに足を運ぶ。
『一度ご主人にお越しいただいて、僕と直接顔を突き合わせて話し合いをし、入念に治療方針を立てたほうが、今後の見通しが明るいと思いますよ』
以前通院していた病院より、いろんな不妊治療の方法があることや、それにかかる金銭面についてなど、私から伝えるよりも、お医者さんから話を聞いたほうが、ご主人を含めて積極的に治療することができるのではと提案された。
(検査結果がよかったおかげで、輝明さんにお医者さんの話をしやすいのは幸いだった)
ちょっとだけ弾んだ足取りで自宅に帰る。あと少しで到着する間際だった。
目の前から歩いてくる人物に驚いていると、向こうから私に目線を合わせて、小さく会釈されたので、思わず声をかける。
「あれ? アナタは――」
「病院ではいろいろ教えてくださり、ありがとうございました」
病院で軽くお話ししたショートカットの女性は、もうひとり女性を引き連れ、下げていた頭をしっかりとあげて、にっこりほほ笑む。
「私は岡本といいます。彼女は親友の斎藤華代で、ご主人と同じ会社に勤めています」
身振り手振りで岡本さんに紹介された女性は、みずから前に出てきて、深く頭を下げた。
「斎藤です、津久野部長には日ごろからお世話になってます」
「ご丁寧にどうも、こちらこそ夫がお世話になっているようで。あの人、会社で迷惑をかけていないかしら。家ではなにもできなくて、困っているんですよ」
自宅で輝明さんの世話を焼いている私は、会社で忙しなく働いている彼がどうにも想像できず、クスクス笑ってしまった。岡本さんは私の笑みに合わせるように、優しくほほ笑みながら、静かに語りかける。
「ご主人のことで、奥様にお知らせしたいことがあります。このまま立ち話で話す内容じゃないですから、大通りにある喫茶店に一緒に来ていただけますか?」
(わざわざ私を呼び止めて、喫茶店に誘うということは、話が長くなるからでしょうね。まさか輝明さんが、会社で不正を働いているとか!? 不妊治療費に当てようとして、会社のお金を横領しているなんてことをしていたら――)
「夫のことでというのは、会社でなにかよくないことをしているのでしょうか。パワハラとか……」
あえてお金のことを伏せて、岡本さんから話を聞き出そうとしてみた。
「詳しい話は喫茶店でします。行きましょう!」
突然の急展開に、思わず体が竦んでしまう。そんな私の背中に岡本さんは手を添えて、前に歩き出すように促す。喫茶店に到着しないと話がわからないので、仕方なく足を動かした。
「岡本さん、聞いてもいいかしら?」
私は隣を見ずに、前を向いたまま問いかけた。
「なんでしょうか?」
岡本さんは、明るい口調で訊ね返してくれた。彼女の気遣いのおかげで、すんなりと口を開くことができる。
「病院で私に逢ったのは、偶然じゃなかったということ?」
私たちの会話に斎藤さんはなぜか加わらず、少しだけ後ろを歩いている気配を感じた。
「すみません、詳しくは喫茶店でお話します。そのほうがきちんと順序だてて、私としても話せると思いますので」
「……わかりました」
心のうちにモヤモヤを抱えた状態で喫茶店に到着し、窓際の席に座ると、テーブル越しにふたりは着席した。やって来たウェイトレスに、コーヒーを3つ注文する。
場が静寂に包まれたタイミングで、岡本さんが口火を切った。
「親友のハナから、津久野さんのことを聞いたときに激しく反対すれば、こんなことにはならなかったんです」
岡本さんから告げられたセリフの『反対』という言葉に、嫌な予感が胸を支配した。
「夫のなにを聞いたのでしょうか?」
震える口調で訊ねた私に、岡本さんは背筋を伸ばし、真顔で言い放つ。
「ご主人とハナが不倫している話です」
斎藤さんは音をたてて立ち上がり、最初に逢ったよりも深く頭を下げた。
目の前で頭を下げる斎藤さんの姿を見ているのに、まるで人形を眺めているような錯覚に陥る。頭を上げてくださいと、こちらから声をかけてあげたいのに、思うように言葉が出なかった。
「部長から、妻とは家庭内別居状態だと聞いたから付き合ったなんて、いいわけが通用しないことはわかっています。本当に申しわけございませんっ!」
斎藤さんは頭を深く下げたまま、事の経緯をまじえて謝罪する。彼女の隣にいる岡本さんは、神妙な表情で斎藤さんを見上げていた。
「夫は……輝明さんは、そんなことを言ったなんて」
家庭内別居なんて、実際になっていない。絵にかいたようなしあわせがあるわけじゃないけれど、どこにでも存在する、ありふれた家庭を築いているのに――。
現実を受け入れたくなくて、ショックを隠しきれない私と、頭を下げたままの斎藤さん。そんな私たちの仲を取り持つように、岡本さんは話し出した。
「私の職場に、不貞行為をおこなってた同僚がいたんです。同僚とは仲が良かったこともあって話を聞いてみると、同僚の不倫相手がご主人と同じようなことを言って、嘘をついていたのを耳にしました。それで津久野さんの家庭内別居が本当かどうかを確かめるために、病院で奥様に近づいたんです」
言いながら、テーブルの上に大きな茶封筒を置く。中身の見えないそれを、私は漫然と眺めた。
すると斎藤さんは少しだけ頭を上げ、小さな声を発した。
「部長は私との結婚を視野に入れて、式場をわざわざ探して一緒に行くことを促したり、本当に優しかったんです。でも半年付き合っていても、名前で呼ぶことを禁じられました」
「そうですか。あの人に禁じられたから、斎藤さんは夫を役職で呼んでいたんですね」
私とは一切視線を合わせないように項垂れる斎藤さんは、居心地悪そうに体を小さくした。
「私の口から、部長の名前がなにかの拍子で出たりしたら、部署にいる皆に付き合ってることがバレるかもしれない。そうなったら、彼の立場は危うくなるので」
深い仲になったというのに、名前を呼ばせないなど、徹底的に不倫を隠そうとする輝明さんの行動に呆れ果ててしまい、大きなため息をついた。スマホで浮気の証拠が見つからなかったのも、きっと裏技を使ったに違いない。
「輝明さんってば、変なところにしっかりしてるのね。家では、電子レンジすら使えない人だというのに」
「電子レンジが使えない?」
岡本さんは不思議そうにオウム返しする。私は眉をしかめて説明をしてあげた。
「不妊治療の薬の副作用で、体調が悪い日があったの。それでも頑張って夕飯を作り、テーブルの上に並べておいたわ。仕事から帰ってきた夫は、それを温めろって言ったんですけど、それすらできないくらいに具合が悪くて、自分でやってって頼んだのに……」
ここで一旦言葉を切り、顔を俯かせる。立ったままでいる斎藤さんは頭をしっかり上げて、困った様相で私に話しかける。
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさいね。思い出したら、つらくなってしまって。あの、座ってください。そのほうが、お互い話がしやすいでしょうから」
私からのお願いを聞き入れた斎藤さんは、岡本さんとアイコンタクトして、静かに腰掛ける。
「部長はきっと、奥様を頼りにしてるんでしょうね」
「頼りなんて、そんなことないわ。便利なお手伝いさんくらいにしか、思っていないんじゃないかしら。電子レンジで夕飯を温める簡単な作業すら『レンジの使い方がわからないし、今は忙しくてできない』のひとことを言いながら、スマホをいじって、私の体調をいたわることをしない、冷たい人なんです。そのくせ、自分とのこどもを欲しがったりして、わけがわからない……」
口元を押さえてこみ上げるものを我慢したタイミングで、注文したコーヒーがテーブルに置かれた。