茶封筒をよけて置かれたコーヒーから、美味しそうな香りが漂っているのに、話し合う内容があんまりすぎて、誰も手を伸ばさない。
湿気を吸ったように重たい空気を肌に感じつつ、それをなきものにしようと口を開いた。
「斎藤さん、職場ではどんな感じで、夫は仕事をこなしているのでしょうか?」
私は知りたかったことを訊ねた。
「えっと部長は本社に転勤して半年ほど経っていますが、仕事ぶりは可もなく不可もなくという感じの印象です。ですが部署のメンバーの所属と名前を短期間で覚えて、積極的にコミュニケーションをとっているので、前の部長よりも話しかけやすくなった分だけ、報連相がしっかりできてます」
「そうなんですね。結婚前は彼の会社の取引先に私が勤めていたので、どんな感じで仕事をしているのか、想像ができなかったんです」
「ウチの取引先の会社ですか?」
「〇×コーポレーションの受付嬢をしていました」
岡本さんは驚いた表情で「うっ」と小さく呻き、斎藤さんは納得した顔で顎に手を当てる。私の元勤め先はそれなりに有名なところなので、岡本さんはビックリしたのだろう。
考え込んだ顔つきをしている斎藤さんは、なにか思うことがあるらしく、丁寧に言葉を選びながら話しかける。
「受付嬢なら取引先の仕事の関係で、顔見知りになるキッカケになりますもんね」
「ええ。誰にでも人当りよく接している彼に安心感を覚えて、1年間の交際を経て結婚したんですよ。今年で結婚3年目なの……」
自嘲的に笑って輝明さんとの馴れ初めを告げたら、岡本さんはムッとした面持ちで呟く。
「本当に最低だ……」
怒気が混じったセリフを耳にしたとき、岡本さんはテーブルに置かれたままの茶封筒を手にする。そして中身を取り出し、それを私に見せながら、演説のような熱のこもった口調で語りかける。
「私の同僚が不倫された末に離婚して、悲しい結末を目にしたからこそ、ハナの恋愛の行く末を考えました。奥様からご主人を奪い、略奪婚をしたとしても、彼が同じようにまた不倫をすることによって、ハナがしあわせになれないんじゃないかって」
「そうね……」
岡本さんから直視される視線に耐えられず、少しだけ瞼を伏せて返事をした。
「それを確かめるために、探偵事務所でご主人について調べてもらいました。その調査結果が、この書類にプリントされてます。そしてプリントされたあとに知らされた事実を、口頭で教えてもらいました」
「…………」
「こちらを、ご覧になるかどうか決めてください。もし必要であれば、この件を調査した探偵事務所の所員さんをご紹介します」
計画的に私に近づき、すべてのお膳立てを完璧に揃えた、冷静な立ち位置でいる岡本さんの存在に、正直なところとても助けられた。もしこれが愛人の斎藤さんとふたりきりなら私は狼狽えて、泣き出してしまっていたかもしれない。
「斎藤さんに直接、こうして謝ってもらった時点で、かなりの痛手を食らっているというのに、追い打ちをかけるようなことを言うんですね」
今の状況を自分なりに分析したあと、ため息まじりにやっと口にした。
「ハナが言ったんです。なにも知らないことのほうが不幸だって。それを知らずに現状維持したって、しあわせになんかなれないと言って、泣き崩れました」
「それは調査した書類に、私の知らないことが載っているということなのかしら?」
さりげなく書類の内容を指摘した途端に、斎藤さんが椅子から立ち上がった。私の視線に映った彼女の口が、なにかを言いかけて動いたけれど、声にならなくて唇が細かく震える。
「斎藤さん?」
岡本さんが心配そうに斎藤さんの手を掴み、静かに揺らしつつ話しかけた。
「ハナ、落ち着いて。どうしたの?」
「私は部長の知らない部分を知って、ものすごく傷つきました。だけどそれは、私にとっての罰だと思ってます。だって不倫という、悪いことをしたんですから」
涙目になりながらも、斎藤さんの口調に熱が籠もっていくのを感じていたら、目の前でつながれたふたりの手が、強く握りしめ合ったのがわかった。私もなにか言葉にしたかったものの、大きく空いてしまった胸の痛みに耐えることに、いっぱいいっぱいだった。
「だけど奥様は、なにも悪いことをしていないのに、私以上に傷つくかもしれない事実を、目の前に突きつけられたらどうなってしまうのか。それを思うと、見るのを勧めることができません」
「なにも知らないことのほうが、不幸なんじゃなかったのかしら?」
「そうですけど――」
一旦目を閉じて深呼吸をし、心の中を落ち着ける。そして背筋を伸ばしながら目を開けて、斎藤さんに視線を飛ばした。
「夫の不倫相手に心配されてしまうくらい、私は弱く見えるのかしらね」
「けして、そんなつもりじゃ……」
首を横に振って否定した斎藤さんに、私は愛想笑いを浮かべる。ここで暗い顔を見せたら、愛人に心配されてしまうことくらいわかっていたから、無理やり笑ってみせた。本妻の意地と言ってもいいだろう。
「奥様、どうしましょうか?」
岡本さんから訊ねられたタイミングで迷いを断ち切り、決心がついた。
「私だって、しあわせになりたいもの。このまま、夫の不貞行為を見過ごすことはできません。岡本さん、書類を見せてください」
こうして岡本さんが持っていた書類を手渡してもらい、ゆっくり目を通す。書類を読むことに集中していたため、目の前のふたりがなにをしていたのか、まったくわからなかった。
A4コピー用紙5枚の中に、びっちり印刷された長文を黙って読み込む。私の知らない輝明さんの行動履歴や女性関係を知り、心の中が一気に冷めていくのを感じた。
(私と1年交際しながら、その影で会社の女子社員と付き合っていたのね。だから私に手を出さなくても、平気でいられたんだ。納得!)
時系列を頭の中で整理すべく、何度も書類を行き来させた。そしてすべてを読み終え、岡本さんに書類を返す。
「岡本さんが聞いたというお話は、なんだったのでしょうか?」
書類に記載されている内容自体、かなり衝撃的なものばかりだったゆえに、口頭で聞いたという話に、嫌でも興味を抱いた。
「支店にいる、もうひとりのお相手のことなんですが、ご主人が転勤後に彼氏を作ったそうです」
岡本さんから知らされた事実に顎を引き、テーブルに置かれた手のつけていないコーヒーを見つめる。
「彼氏がいるというのに、夫が支店へ出張したときに逢っていた……ということなんですね」
寂しげな自分の顔が映る冷めたコーヒーカップに手を伸ばして、乾いた口内を潤した。
「はい。ですので関係は今も続いているかと思います」
「そうですか、斎藤さん以外にも愛人がいたんですね」
輝明さんが日頃から三股をこなしていることに呆れ果て、額に手を当てながら深いため息をついた。
「彼女の連絡先を知ってます。ちょうどお昼休みの時間で、連絡がとれやすいと思いますが、電話しますか?」
「絵里、いきなりそれはちょっと……」
私よりも先に斎藤さんが反応し、話に割り込む。
「すべて知ったからこそ、なにもしないより、なにか手を打ったほうがいいんだよ。放置することが一番いけない。今回それをハナの入院で、嫌というくらいにわかったんだ」
岡本さんの話で、斎藤さんが入院していたことがわかり、納得するように相槌を打った。
「岡本さんの言うとおりね。これ以上、彼女には夫と逢ってほしくはないし。だけどごめんなさい。今は気持ちが整理できなくて、変なことを言いそうなの」
胸の前に両手を組んで、体を縮こませながら俯く。斎藤さんと対峙しているだけでもかなり苦痛なのに、もうひとりの愛人と会話することを考えるだけでもつらかった。
(――だけど人任せにするにしても、これだけは言っておかなければいけないわね)
「岡本さん、彼女に夫と逢わないように言ってくれないかしら?」
「いいですよ。ほかになにか、伝えることはありませんか?」
「今はこれしか思いつかなくて。ごめんなさいね……」
俯いた状態で伝えたというのに、岡本さんは優しい口調で返事をしてくれる。
「大丈夫です。じゃあスピーカーでお話しますね。なにかあったら、遠慮なく割り込んでください」
俯く視線の先に、岡本さんは書類と一緒に手帳を広げ、私に見えるようにスマホを目の前に置いた。そして支店にいる愛人の携帯番号を打ち込む。スピーカーにしているスマホからコール音がしばし流れたあとに、よそよそしさを感じる声が辺りに響く。
「もしもし?」
「もしもし、遠藤さんの携帯でお間違えないでしょうか?」
「あ、はい。そうですが」
「私、津久野さんの奥様の代理で、お電話しております」
岡本さんが輝明さんの名字を告げた途端に、スマホの向う側で小さく息を飲むのが伝わった。
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