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こと-koto
402
Side 健治
|栢浜《かやはま》市の担当になって半月が経ったと言うのに、営業の手ごたえがまったくと言っていい程掴めず、俺は酷く疲れていた。
異動の挨拶周りには、その地区の班の担当者と一緒に2人1組で回る。
今までの経験だと挨拶に行けば、小さな取引であっても今後の付き合いを兼ねて成立することがある。
だが、ここ|栢浜《かやはま》市においては、なかなかどうして思うように事が運ばなかった。
やはり、|栢浜《かやはま》市に本社・工場を置いている三栄製薬の影響が大きいようだ。
連日、遅くまで動いているのに結果に繋がらながらない。
寝に帰るだけの毎日では、美緒と会話する時間も取れない。
美緒に別れを切り出されないように言った自分の言葉が重く圧し掛かる。
「直ぐに結論を出さずに美緒は俺の更生期間だと思って暫く過ごす、その間、もしも俺が美緒を裏切るような真似をしたら、その時は美緒から俺に三下り半を突き付けていいんだ。俺は、美緒の事を大切にする」
大事にしようと決めたそばから社畜のように働き続けている。
午後6時頃、病院診察終了時間帯を狙って、先生に挨拶と顔つなぎの訪問。特に異動になったばかりの今は、マメに動かないと仕事に繋がらない。
その後、会社のデスクに戻り、積み重なっている未処理の書類の山にため息を漏らす。
買ってきたコンビニ飯をかきこみ、「さあ、もうひと仕事」と伸びをした。
不意に社用携帯が鳴り出した。画面は、見覚えのない番号が表示される。
おそらく、挨拶させてもらった病院からだと、予測して画面をタップした。
「㈱アルゴファーマ 医薬情報担当 統括 菅生健治です」
耳に当てた電話からクスクス笑いが聞こえて来る。いたずら電話かと思い、訝し気に画面を睨みつける。
それでも、社用携帯だ。念のため声を掛けた。
「失礼、どちら様でしょうか」
「お久しぶり、健治。ねえ、良い話があるの。これから会えない?」
聞き覚えのある声、喋り方。
頭の中に警告音が鳴り響く。
短く息を吐き呼吸を整えてから名前を呼ぶ。
「野々宮様、お世話になっております」
スマホから漏れるクスクス笑いが、耳につく。
”どうして社用携帯の電話番号を知っているんだ” という言葉が喉から出かかったが、直ぐに緑原総合病院へ挨拶をした事に思い当たる。
野々宮果歩の夫・成明から何らかの形で手に入れたのは容易に想像できた。
「実はまだ、立て込んでおりまして、ご希望に添えず申し訳ございません」
「あら、そんな事を言っていいのかしら? 私、良い物持っているの。あなたが絶対に欲しがるような素敵な情報……知りたくない?」
野々宮は、今、《《情報》》と言った、その言葉にピクリと反応する。
今までの不倫関係がバレるようなバカな話の内容ではなさそうだ。
「どのようなものでしょうか」
「あら電話じゃ言えないわ。でも、絶対に良い物よ。フフ、知りたいでしょう?」
狡猾な落とし穴が用意されている。
どうすればいい?
今、この状況で野々宮と会えば、美緒の疑惑の念を大きくする事態になり兼ねない。
しかし、野々宮は、取引に有益な情報を持っている可能性が高い。
すっかり暗くなり夜景を映す窓を見つめた。
室内灯に反射して、自分の姿が写し出される。
そこには、追い詰められた顔をした男がいた。
視線をはずせば、壁に貼られた今月の出来高グラフが目にはいる。
伸び悩む自分の担当地区のライン。
ため息と共に言葉を吐き出す。
「どちらに伺えば宜しいでしょうか?」
午後9時、アルタイルホテルのラウンジバーに足を踏み入れた。
左手に木目カウンター、止まり木にカップルが寄り添うように座っている。
視線を走らせ、俺を呼びだした女の姿を探す。右手のBOX席には、目当ての人物は見つからなかった。
店内中央にグランドピアノ、その奥の窓際にカップルシートを見ると一番奥に体のラインを強調したような黒いワンピースを着た女を見つけた。
重たい足を進め、隣の席に腰を下ろす。
「お久しぶりです。野々宮さん」
「フフッ、久しぶりね健治。ちょっとお疲れかしら?」
「ああ、早く家に帰りたいよ」
嫌味を込めて野々宮に言うと、野々宮はクスリと笑い、艶のある視線を向けた。そして、紅く色付く唇を動かす。
「でも、来ちゃったのよね」
「で、情報って?」
「あら、せっかちね。まだ、何も頼んでいないじゃない」
野々宮は、手を上げ店員を呼びつけ、ジントニックとブラッティマリーを注文した。
ゆっくりと向き直った野々宮は、獲物を狙う肉食獣のようにジッと見つめて来る。
そして、紅い唇を動かす。
「情報をあげるにはメリットがないとね。取引ってそう言う物でしょう?」
「メリット……」
「そう、メリット。ねぇ、わかるでしょう?」
キレイにネイルを施された指先が俺の膝に伸び、太股の上を滑る。
「私たち、相性は悪くなかったと思うの。別れる必要は無いと思うのよね」
「イヤ、お互い既婚者だし……もう潮時だよ。今は色々とうるさいだろう?」
そこまで、言うと注文していたジントニックとブラッティマリーが運ばれて来た。
緊張して乾いた喉を潤すように一気にジントニックを飲み干すと、横から野々宮のクスクスと笑う声が聞こえて来る。
「ホント、せっかちね。そんなんじゃ、まとまる取引を不意にするわよ」
ブラッティマリーが、野々宮の赤い唇の間に飲み込まれていく。
そして、濡れた唇を舌先で舐め上げ、ネットリとした視線を送られる。
「ねぇ、部屋を取ってあるの。二人で楽しみましょうよ」
「よせよ。俺たちは別れたんだ。それに、お互い家庭があるんだし」
「あなたの欲しい情報をあげるわ。いいでしょう?」
予想していた事とはいえ、戸惑いを隠せなかった。
「イヤ、ダメだよ。物事には、引き際があるんだよ」
「じゃあ、このUSBメモリは、いらないのね。うちの病院の薬価の取引価格が入っているのに」
野々宮は、手品のように手の平からUSBメモリを出し、クルクルと見せびらかし気味にかざした。
薬価の取引価格。
平たく言えば、薬の仕入れ価格。
販売価格(公定価格)は国(厚労省)が価格を決めている。
診療報酬にもとづく保険医療においては、医師はその中から薬を選んで処方しなければならない。現在、薬価基準に載っている薬は、内用薬と外用薬、それと注射薬を合わせて約1万5千品目ほど。
仕入れ値は、製薬会社と病院の間で取り決め、取り引きを行っている。
後発医薬品(ジェネリック)など、どの会社でも取り扱いのある薬は、仕入れ価格が1円、1銭でも安ければ、それだけ病院の利益に繋がる。
野々宮の実家『緑原総合病院』で取り扱う薬は、相当な数だ。
例えば、三栄製薬が1錠10円で卸しているならば、アルゴファーマは1錠9円50銭で商談を持ち掛ける事が出来る。
オセロゲームの逆転劇のように薬の取り扱いを一気に増やすチャンスがやってくるのだ。
あのUSBを欲しがらない理由など見つからない。
しかし、手に入れる対価として美緒を裏切る事になる。
自分で言った言葉が、自分に重くのしかかる。
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