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#嵐山准
さんま
32
さんま
202
#WT
冬の三門市の空気は、肌を刺すように冷たい。
夕暮れ時の街は、沈みかけた太陽が落とす長い影に覆われようとしていた。
ボーダー本部での個人ランク戦を終え、影浦隊の作戦室にも寄らずに一人で帰路についた絵馬ユズルは、マフラーに深く顔を埋めた。 吐き出した息が白い煙となって、目の前の空間にじんわりと溶けて消えていく。
ユズルが歩いているのは、本部周辺から少し離れた場所にある、なだらかな長い坂道だった。この坂道を登りきった先には、かつてよく足を運んだ、古びた個人用のトレーニングブースがある。今はもう、別の隊員が使っているか、あるいは空室のまま放置されているだろう。ユズル自身も、最近はそこへ行く理由がなくなっていた。それなのに、足は自然とあの場所へ向かう坂道を選んでしまう。
「……寒いな」
ぽつり、と呟いた声は、風にかき消された。 ポケットの中で、スマートフォンが小さく震えた。影浦から「飯、どうする」というぶっきらぼうなメッセージが届いていたが、ユズルは画面を見つめたまま、返手を打たずにそのままポケットの奥へと押し込んだ。今は誰の言葉も、自分の心の中にうまく入ってこないような気がした。
一歩、一歩、と坂道を登るたびに、ユズルの視線は自然と自分の足元へ向かう。アスファルトに映る、自分の小さな影。そのすぐ隣に、少しだけ大きな、それでいてどこか頼りなげに揺れるもう一つの影が並んで歩いていたのは、去年の冬のことだ。
『ユズル、待って。置いていかないで』
頭の中で、あの人の声が再生される。鳩原未来。ボーダーを去り、近界へと密航した、ユズルの唯一の師。
『ユズルは歩くのが早いね。あたし、油断するとすぐ置いていかれちゃう』
そう言って、困ったように眉を下げて笑う彼女の顔が、嫌になるほど鮮明に脳裏に蘇る。当時のユズルは、彼女のその言葉が不思議でならなかった。身長は鳩原の方が高かったし、歩幅だって彼女の方が広いはずだった。それなのに、鳩原はいつもユズルの半歩後ろを、申し訳なさそうに、おずおずと付いてきていた。
違うよ、鳩原先輩
ユズルは心の中で、今はもう届かない反論を口にする。
オレが急いで歩いていたのは、先輩の歩幅に、早く追いつきたかったからだ
狙撃手としての技術も、人間としての心の強さも、鳩原はユズルよりも遥か先を行っているように見えた。二宮隊というトップクラスの部隊に所属し、誰よりも正確な狙撃の腕を持ちながら、それでも”人を撃てない”という致命的な弱さを抱えて悩んでいた彼女。ユズルは、そんな彼女の隣を胸を張って歩けるようになりたかった。だから、少しでも早く大人になりたくて、歩幅を無理に広げて、急ぎ足で坂道を登っていたのだ。それなのに、彼女はいつもユズルの足元を見て、優しく笑うだけだった。
「ユズル、今日は調子どう?」
回想の中の鳩原は、いつも少し大きめのダボっとした私服のコートを着て、両手をポケットに突っ込んでいた。髪を後ろで緩く結び、眠そうな目でユズルを見つめる。二人で通ったあの古いトレーニングブースは、いつも少しカビ臭くて、冬場は凍えるほど寒かった。暖房の効きが悪い部屋で、二人は並んでアイビスを構え、シミュレータの画面に向かっていた。
「……悪くない。今日も的の中心は外してない」
「すごいな、ユズルは。あたしなんて、昨日も二宮さんに『引き金が重い』って怒られちゃった」
鳩原はそう言って、へらへらと力なく笑った。その笑顔の裏に、どれほどの絶望と孤独が隠されていたのか、当時のユズルには知る由もなかった。
「二宮さんの言うことなんて、気にしなくていい。あの人はただ、自分の理想を押し付けてるだけだ」
「ふふ、ありがとう。でもね、二宮さんの言うことも一理あるんだよ。あたしは、この引き金の重さに、いつまで耐えられるのかなって、時々思っちゃうの」
彼女がアイビスのトリガーにかけた細い指は、かすかに震えていた。ユズルはその震えに気づいていた。気づいていながら、なんて声をかけていいか分からず、ただ「俺がもっと強くなって、先輩を助けるから」と、独りよがりな決意を心の中で繰り返すことしかできなかった。
『君の歩幅は広くて、ついていくのに必死だった』
今思えば、あの時すでに、鳩原の視線は三門市にはなかったのだ。彼女が見つめていたのは、もっと遠く。境界線の向こう側にある、暗闇に包まれた近界。彼女が本当に救いたいと願っていた、大切な人が囚われている場所。その歩幅の広さに、ユズルはまったくついていけていなかった。彼女が一人でどれほどの重荷を背負い、どれほどの覚悟で密航の計画を立てていたのか。一番近くにいたはずの自分は、何一つ知らされていなかった。坂道の途中で、ユズルは足を止めた。冷たい風が、ユズルの前髪を乱暴に揺らす。ポケットから出した手を、じっと見つめる。
鳩原に教えてもらった、狙撃の基礎。
トリガーを引くときの、呼吸のコントロール。
風を読む目の使い方。
ユズルの中にある狙撃手としての技術のすべては、鳩原未来という人間から与えられたものだった。彼女が去った今でも、ユズルの身体は、彼女から教わった動きを正確に記憶している。
「……ずるいよ、鳩原先輩」
小さな不満が、ため息と一緒に溢れ出た。
勝手に行き先も告げずにいなくなって。自分には何も頼ってくれなくて。それなのに、自分の心の中に、こんなにも大きな”忘れ物”を残していった。
彼女と過ごした何気ない時間。
ブースの帰りに二人で分けた、コンビニの肉まんの温かさ。
映画の話をしたときの、彼女の少し早口になる癖。
「いつか、ユズルと一緒に遠征に行けたらいいな」と言った、あの嘘つきな優しい声。
そのすべてが、ユズルの心の中に澱のように積み重なって、消えてくれない。
忘れてしまえたら、どれほど楽だろうと思う。影浦隊の仲間たちと、ただ目の前のランク戦に熱中して、普通のボーダー隊員として笑っていられたら、どれほど救われるだろうか。けれど、ユズルの心がそれを拒否していた。忘れることは、彼女がこの世界にいた証拠を、自分から消し去ってしまうことと同じような気がしたからだ。
空を見上げると、いつの間にか一番星が白く輝いていた。あの日、彼女が消えた夜も、こんな風に星が綺麗な夜だったのだろうか。ユズルは再び、ゆっくりと歩き出した。かつて彼女が歩いていたスピードよりも、ずっと早く、力強い足取りで。
待ってて、鳩原先輩
坂道を登りきる。そこには、予想通り、明かりの消えた静かなトレーニングブースの建物が佇んでいた。ユズルは建物の前を通り過ぎ、さらにその先へと続く道を、まっすぐに見据えた。
オレは、先輩みたいに諦めたりしない。人を撃てない先輩の代わりに、オレが全部引き受ける。だから_
いつか、必ず追いつく。君が広げたその歩幅の、そのさらに先にある未来へ、俺が逢いに行く。
冬の夜が、三門市を静かに包み込んでいった。ユズルの足跡だけが、冷たいアスファルトの上に、真っ直ぐな一本の線となって伸びていた。
コメント
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さんまさん、第1話拝読しました。鳩原さんとの思い出が「歩幅」の喩えで綴られる切なさに、胸がぎゅっとしました。特に「オレが急いで歩いていたのは、先輩の歩幅に追いつきたかったから」っていう反芻が、ユズルの無念と愛情を感じさせて……。忘れられない人を抱えて前を向く強さが、冬の寒さに映えて美しかったです。続きが気になります。