テラーノベル
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ねこむすび
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洗ったばかりの手をペーパータオルで拭き、丸めて屑籠へ落としてから、大輝は6号館1階の実習場を出た。
外へ出ると、湿った風が顔に当たった。5号館の脇を抜けて本館へ向かう間、まくったツナギの袖から出た腕を、生ぬるい空気が撫でていく。本館の階段を2階へ上がると、廊下にはもう蛍光灯が点いていた。リノリウムの床に、安全靴の底が小さく鳴る。
事務室の手前、来客用の衝立の向こうに、見覚えのある背中が2つあった。
ソファに浅く腰掛けた伊藤が、膝の上でタブレットを立てている。その隣で、半袖のポロシャツを着た阿部が、壁に貼られた資格試験の日程表を眺めていた。日焼けした首の後ろに、汗の跡が帯になって残っている。
「お客さんって、阿部さんと伊藤さんだったんすか」
「おう。作業中だって聞いたから、待たせてもらってた」
阿部が振り返り、大輝のまくったままのツナギの袖に目をやった。
「その割にキレイなもんだな。何やってた」
「タイヤ組み替えて、オイルとSSTのフルード替えてました」
「全部いっぺんにか。若えな」
伊藤が小さく笑って、タブレットを膝の上で起こした。
「急に来ちゃってごめんね。電話でもよかったんだけど、阿部さんが顔見て話したいって言うから」
「いや、全然。こっちこそ待たせちゃって」
大輝は向かいの椅子に腰を下ろした。衝立の向こうで事務室のプリンターが紙を吐き出し、誰かが電話に出る声がした。
伊藤が画面をこちらへ向ける。さっき木村から見せられたのと同じ投稿だった。いいねの数字は、あの時よりさらに増えている。
「これ、見てる?」
「見ました。友達が見せてくれたんで」
「書いてある中身、合ってるとこと違うとこ、教えてもらっていい? うちとしても記録に残しときたいから」
「SSTは合ってます。TW280履いてたのは5月で、さっきまではR23のTW240。それも今日外して、今はADVANっす。BBSは純正じゃなくて、ヤフオクで落とした同じ形のやつ」
「ヤフオクか」
阿部が鼻で笑った。
「じゃあ座面から違うやつだな」
「そうなんすよ」
伊藤は指先で画面に何か打ち込み、頷いた。
「古い情報と間違いが混ざってる、ってことか。うちでも投稿のスクショと時間、引用元のアカウントは取ってある。運営の記録としてね。消されても、こっちには残るようにするから」
「助かります」
「で、4日の件。気持ち変わってない?」
「変わってないっす。タイヤも組んじゃったし」
「組んだばっかりだもんね」
伊藤は少しだけ目元を緩め、それから阿部の方へ目をやった。阿部は膝に肘をつき、身体を前へ倒した。
「ZOOMでお前の母ちゃんと決めたのは、勝ち負けなしのエキシビションってとこまでだ。こっから先はウチらの話な」
「はい」
「当日の朝、お前と赤城さんを並べてブリーフィングやる。昼までに1本ずつ単独で流してもらって、午後イチで本番だ。ルールは普段の追走と一緒。接触したらその場で終わり。追い越しは決まった区間だけ」
「普段通りっすね」
「それと、一筆書いてもらう。お前にも、赤城さんにも。相手のことをネットで名指しして悪く言わない。走った後も同じ。応援してる連中のことまでは書かせらんねえけど、事務所とDrift Societyにはこっちから話を通す」
「俺、そもそも何も書いてないっすよ」
「知ってる。だから一筆で済むんだよ」
阿部が口の端を上げた。伊藤がタブレットの画面を送る。
「観客の方も、ドライバーへの声掛けとか、パドックで車を撮る時の距離とか、当日はスタッフを増やして見るから。庄司くんの方で何か困ってることがあったら、先に言っといて」
「今んとこ、ないっすね。学校とバイト行って、車いじってるだけなんで」
「それでいい」
阿部はソファの背にもたれ、事務室の方へ顎をしゃくった。
「学生走らせんのに、画面越しで済ますわけにいかねえだろ。学校にも筋は通しとかねえとな。先生にも話はしといた」
「大塚センセ、なんか言ってました?」
「鼻のピアス外しとけって」
「このピアス気に入ってんすけどね〜。まあしゃあないっす」
伊藤が吹き出し、慌てて口元を押さえた。衝立の向こうで電話の声が一瞬途切れ、また続いた。
「皮むきはどうするの? 黒森来るなら、枠見とくけど」
「明日バイト終わったら、新港の方流してきます。黒森は4日に取っときます。そんなしょっちゅう行けないんで」
「財布と相談か。正直でいいわ」
阿部が膝を叩いて立ち上がった。伊藤もタブレットを脇に挟んで腰を上げる。
「やめるなら、前の日でもいい。誰も責めねえから」
「いやいや、やめるわけないっすよ」
阿部は大輝の顔をしばらく見てから、短く頷いた。2人が階段の方へ歩いていく。来客用のスリッパが廊下で擦れる音が、階段を下りていって聞こえなくなった。
着替えを済ませて学生駐車場へ出ると、空は灰色のまま暗くなりかけていた。
エボXの運転席に座り、ドアを閉める。外の音が遠くなり、新しいゴムの匂いがかすかに車内まで入り込んでいた。フロントガラスに、細かい雨粒が一つ、二つと落ちてくる。
大輝はイグニッションを捻り、エンジンをかけた。パイオニアのディスプレイオーディオが明るくなり、ポケットのスマートフォンとワイヤレスで繋がって、CarPlayの画面が立ち上がる。連絡先から母ちゃんを選んで発信すると、ロックフォードのスピーカーから呼び出し音が鳴った。
『はい』
「黒森の伊藤さんと阿部さんが、学校来たよ」
『学校まで?』
「だね。例の投稿、中身合ってるかの確認と、当日のブリーフィングと一筆の話。あと、やる気変わってないかって」
『そう。それなら話は早いわ』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『その投稿、URLとアカウントのID送って。引用元のも。スクショは画面ごと、日時が入るように撮って。消される前にね』
「陽斗がたぶん撮ってる。あいつに頼むわ」
『あんたは何も書かないこと。返信も引用も、いいねもなし』
「しないしない。タイパ悪いし」
『それでいい』
雨粒がもう少し増えた。センサーが拾ったのか、ワイパーが一度だけガラスを拭っていった。
『黒森とは私が話す。向こうの事務所にも、連絡するかどうか含めてこっちで考える。開示請求とか、そういうのはすぐどうこうなる話じゃないから。期待しないでね』
「あー、はいはい」
『で、タイヤは?』
「組んだよ。スクショ送ったっしょ」
『19万ちょいの?』
「そう」
『じゃあ7月13日から、19万ちょいにトイチね。10日ごとに1万9千円ちょい』
「え、そんなにすんの?」
『私からお金借りるってそういう事だから』
スピーカーの向こうで、母ちゃんが笑っていた。大輝も釣られて笑い、ステアリングに額を軽く当てた。
『ご飯は?』
「これから」
『カップ麺で済ませないでよ』
「返済額聞いたらそうせざるを得ないんだけど」
通話が切れた。フロントガラスの上で雨粒がいくつか繋がり、細い筋になって流れ落ちていく。
「Hey Siri、陽斗にLINE」
短い電子音が鳴り、ディスプレイの下で波形が揺れた。投稿のスクショとURLを母ちゃんに送ってほしい、と吹き込む。Siriが読み返した文面に頷くように送信させると、ほとんど間を置かずに通知が出た。Siriの平坦な声が、陽斗の名前に続けて「りょ」と読み上げた。
「Hey Siri、真希さんにLINE」
『エンジンオイル助かりました!ありがとうございます。いつ返しに伺ったら良さげすかね?』
Siriが読み返すのを聞いてから送信させた。ワイパーがまた一度ガラスを拭い、滲んでいた駐車場の街灯が輪郭を取り戻す。
ディスプレイの上に通知が出て、スピーカーからSiriの声が流れた。
真希:
『そしたらショールームまで来てくれたら』
真希:
『今なら空いてるから』
大輝はそのまま返信を吹き込んだ。
『時間大丈夫っすか?』
真希:
『大丈夫だよ』
『今から行きます!』
最後に届いたのはスタンプで、Siriは中身までは読まなかった。ポケットからスマートフォンを出して画面を点けると、クロミが丸を作っていた。
スマートフォンをポケットへ戻し、学校を出る。日の出町へ向かう道の途中、ステアリングの手応えは昨日までより少しだけぬるかった。新品の表面がまだ路面に馴染んでいない。交差点を曲がるたび、大輝はいつもより手前からブレーキを踏んだ。
Mトヨタの日の出町店は、表のショールームの照明を半分ほど落としていた。それでも奥の商談スペースには蛍光灯が点いていて、ワイシャツ姿の営業が何人か、書類とパソコンの画面に向かっている。月をまたいだばかりの店内には、まだ慌ただしさが残っていた。隣のGRガレージの側では、ガラス越しに展示車のボンネットが白く光っている。
来客用の駐車枠にエボXを止めると、自動ドアの内側で真希が手を上げた。
大輝は運転席を降りて後ろへ回り、トランクを開けた。サブウーファーの手前で、ビニール袋をかぶったペール缶が、丸めたウエスに支えられて立っている。持ち手に指を掛けて引き上げると、中で残りのオイルが重たく揺れた。もう片方の手を缶の底に添えて抱え直し、肘でトランクを押し下げる。
細かい雨が、ビニールの表面で小さな粒になって弾けた。濡れたアスファルトで足を滑らせないよう、少し腰を落としたまま、ショールームの入り口まで歩く。自動ドアが開いて、冷房の効いた空気が顔に当たった。真希は店の制服の上から首にネームストラップを下げ、片耳にインカムのイヤホンを掛けていた。
「おつかれ。濡れなかった?」
「ちょっとだけっす。これ、どこ置きます?」
「あ、そこのマットの上でいいよ。後で油脂庫に戻しとく」
大輝は入ってすぐのマットの端へ缶を下ろした。ビニールの裾から、雨の雫が何粒かマットへ落ちた。
「てか、まだみんな残ってるんすね」
「月またいだばっかりだからね。書類が全然片付かないの」
真希はそう言って、ガラスの向こうの商談スペースを顎で示した。誰かが電卓を叩く音が、静かなショールームに細かく響いている。
大輝はポケットから封筒を出した。
「これ、オイルの分っす。ほんと助かりました。今、5W-40どこにもなかったんで」
「律儀だなあ」
真希は笑いながら封筒を受け取り、それから大輝の肩越しに駐車場のエボXへ目をやった。
「タイヤ替えたんだ」
「今日組みました。V107っす」
「皮むきは?」
「明日の夜、新港の方流してきます」
「明日、雨っぽいよ。気をつけてね」
「普通に走るだけなんで」
真希の耳元のイヤホンから、小さく声が漏れた。真希は襟元のマイクに指を当てて、「今行きまーす」と返し、もう一度大輝へ顔を戻した。
「ごめん、呼ばれちゃった。来てくれてありがと」
「こっちこそ。じゃあ、お疲れさまです」
自動ドアの外へ出ると、雨はさっきより少しだけ強くなっていた。ガラス越しに、真希が書類の束を抱えて奥へ戻っていくのが見えた。
大輝はエボXに乗り込み、寮へ向けて走り出した。
翌日は、朝から雨だった。
6号館2階の教室の窓を雨が叩き続け、座学の間じゅう、天井の空調と雨音が混ざって低く鳴っていた。昼休みに母ちゃんから『受け取りました。こちらで進めます』とだけ届いた。敬語なのが妙におかしくて、大輝は弁当の箸を止めて一度だけ笑った。向かいでパンを齧っていた陽斗が「何」と訊き、画面を見せると、「仕事モードじゃん」と言ってまたパンに戻った。
「今日、皮むき行くんだっけ」
「バイト終わったら」
「俺も乗せて。どうせ暇だし」
「雨だぞ」
「雨だから乗せてって言ってんの」
夕方のムラサキスポーツは、雨のせいか客が少なかった。濡れた傘を袋に入れて入ってくる客の相手をし、スケートコーナーのデッキを並べ直し、美帆に頼まれて入荷分の検品を手伝う。閉店の少し前、フードを被った陽斗が通路側から入ってきて、ブレザーの並んだ棚の前でしばらく靴を眺めていた。
「アンタ、待ち合わせ場所にウチの店使わないでくれる?」
美帆がレジの奥から言うと、陽斗は「ちょっと今日だけだから」と返した。
大輝はデッキを棚へ戻しながら、しみじみと言った。
「やっぱりここも定番の待ち合わせスポットになったんすね。鼻高々っすよ」
「お前だけだよ」
美帆の声が、間を置かずに飛んできた。
21時を少し過ぎて退勤のタイムカードを通し、2人で平面駐車場へ出た。アスファルトは街灯の光を映して黒く光り、白線の上を雨が細かく跳ねていた。
陽斗が助手席へ身体を畳むように乗り込み、ドアを閉める。
「前みたいなのはやめろよ」
「公道だっつの」
エンジンをかけると、ルームミラーの裏のセンサーが雨粒を拾い、ワイパーが動き出した。ディスプレイオーディオに繋がったスマートフォンから、A Tribe Called Questの「Electric Relaxation」が小さく流れ始める。センターコンソールの横に並んだスイッチは、SSTクーラーがOFF、ウォータースプレーはAUTOのまま。シフトレバーをDへ入れ、モールの出口へ向かった。
区役所の前を抜け、長町ICから青雲南部道路へ上がる。ETCのゲートをくぐると、前を走るトラックが細かな水煙を巻き上げていた。車間を長めに取り、流れに合わせてアクセルを一定に保つ。
走り出しのステアリングは、やはりぬるかった。合流でわずかに舵を足した瞬間、前輪が向きを変えるまでに、薄い膜を一枚挟んだような感触がある。新品のトレッドの表面に残っている離型剤のせいだと分かっていても、濡れた路面だと余計に気になった。
「なんか静かじゃね」
陽斗がドアの内張りに肘を乗せて言った。
「タイヤ替えたからな。水踏む音の方が先に来る」
シバの時は雨の日でも乾いた唸りが床から上がってきたが、今は路面の水を押し退ける細かな音が足元で続いている。
青雲若林JCTを過ぎて青雲東部道路へ入ると、道は高架のまま真っ直ぐ北へ伸びた。左右に広がる田んぼの暗がりの向こうに、ぽつぽつと家の灯りが見える。一定の速度で流していると、ステアリングの真ん中に少しずつ芯が出てきた。手を添えているだけで、車は轍に引っ張られずに真っ直ぐ進んでいく。高架の継ぎ目を越えるたび、V107は角を丸めたような当たりで車体へ伝えてきた。
内側から曇り始めたフロントガラスへ、大輝はデフロスターの風を当てた。エアコンの冷えた空気に、まだ新しいゴムの匂いがかすかに混じっていた。
陽斗がスマートフォンを見ていた手を止めた。
「赤城の事務所、なんか出してる」
「Hey Haruto、読み上げて」
大輝は前を見たまま言った。
「えーっと。7月4日の黒森での走行は、公式のエキシビションです。勝ち負けを決めるものじゃありません。相手の参加者の方について、詮索したり中傷したりするのは控えてください。だって」
「ふうん」
「事務所動いたな」
ワイパーが一往復する間、大輝は何も言わなかった。
阿部さんが話を通したのか。母ちゃんが何かしたのか。それとも向こうが自分で判断したのか。今の話からは、どれなのか分からなかった。
「後で見るわ」
「お前、ホント興味ねえな」
「今、前見てんの」
陽斗が笑って、スマートフォンをポケットへ戻した。
青雲港ICで降りる。ゲートを抜けて一般道へ出ると、信号で止まる時のブレーキが、踏み始めから素直に減速を立ち上げた。港の方向に、コンテナを積み上げたヤードの照明が雨の中で滲んでいる。ガントリークレーンの脚が、闇の中に赤い灯りを点々と浮かべていた。
インターの近くにあるセルフのガソリンスタンドへ、大輝はエボXを入れた。
キャノピーの下に入ると、屋根を叩く雨の音が急に大きくなった。給油機の横に車を止め、エンジンを切る。音楽が途切れ、雨音だけが残った。
「トイレ行ってくるわ」
陽斗が降りて店の方へ歩いていく。大輝は静電気除去シートに掌を当ててから、給油口のキャップを外した。ハイオクのノズルを差し込み、レバーを握る。ガソリンの匂いが立ち上り、濡れたアスファルトの匂いと混ざった。計量器の数字が回っていく間、キャノピーの縁から落ちる雨の筋を眺めていた。
握った手に、ノズルが止まる手応えが返ってきた。ノズルを戻してキャップを締め、レシートを抜き取る。それから運転席のドアを開け、ドアポケットから空気圧ゲージを取り出した。
右前輪の前にしゃがむ。バルブキャップを外してゲージを当てると、冷えている時に合わせた数字から、針は少し上がっていた。残りの3輪も同じように測る。4本とも同じくらいの上がり方で、1本だけ外れているものはなかった。
スマートフォンのライトをトレッドに当てる。センター寄りの面は、新品の時のぬめったような艶が消え、細かい梨地の灰色に変わっていた。ショルダーの端には、まだうっすらと光沢が残っている。高速を真っ直ぐ走って、交差点をいくつか曲がった程度では、そこまでは使っていない。成形の時に出来たゴムのヒゲも、ショルダー側にはほとんどそのまま立っていた。
掌を当てると、ゴムはほんのりと温かく、指の腹に少しだけ吸い付いた。溝の中に小石や金属片は噛んでいない。サイドウォールにも、擦った跡や膨らみはなかった。4本とも見て回ってから、大輝はスマートフォンのメモに一言だけ打ち込んだ。
『明日、叔父さんとこ。ACD/AYCフルード』
ポンプを回すMUT-IIIは、店の外へは持ち出せない。
立ち上がったところで、陽斗が缶コーヒーを2本持って戻ってきた。1本を大輝へ放る。
「異常あり?」
「なし」
大輝はプルタブを起こし、事務所の投稿を自分の画面で開いた。陽斗が読み上げた通りの文章が、丁寧な言葉で並んでいる。一度だけ上から下まで目を通して、画面を消した。
帰りは高速に乗らなかった。
産業道路へ出ると、港へ向かうトレーラーが反対車線を低いエンジン音で通り過ぎていく。行きの高架とは違って、舗装には補修の継ぎ目がいくつも走っていた。そのたびに、細かな突き上げがシートの座面から伝わってくる。信号が多く、止まっては出るのを繰り返すうちに、ブレーキの踏み始めの感触にも慣れてきた。
六丁目の交差点を左へ曲がり、4号バイパスへ入る。普通に曲がっただけのステアリングが、来た時よりも確かな重さを手のひらへ返してきた。
次の信号で止まると、陽斗が助手席から手を伸ばし、ディスプレイの画面を指で何度か送った。
「これにしよ」
ATCQが途切れ、張り詰めたシンセの音が細かく刻み始める。重たいドラムが追いかけてきて、ボニー・タイラーのしゃがれた声がその上に乗った。「Holding Out for a Hero」だった。
「お前、これ」
「スクール☆ウォーズ」
陽斗がにやけた顔でこちらを見ている。
信号が青に変わった。アクセルを踏み込みながら、大輝は喉を少し締め、溜めた息を一気に吐き出した。
「タ、タバコを捨てろ!」
割れかけた声が、狭い車内に跳ね返った。ハァッ、ハァッ、と肩で息を継ぎ、ステアリングを握ったまま続ける。
「お、俺は今から、お前たちを殴る!」
最後の「殴る」で、声が掠れて裏返った。
陽斗が助手席で身体を折り曲げ、ダッシュボードを叩いて笑った。
「4日これかませよ。絶対ウケるから」
スピーカーの中でボニー・タイラーが声を張り上げ続け、窓の外では雨に濡れた量販店の看板が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
強まった雨に合わせて、ワイパーの往復が勝手に速くなる。大輝は長町の方へ続く車列の後ろについた。
コメント
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雨の中の車内、陽斗と「Holding Out for a Hero」を歌う場面、めっちゃ良かったです😂 重い話の流れの中で急にあ♡♡♡の、笑ったし、なんかじんときました。大輝の「タバコを捨てろ!」の掠れ声、絶対4日もこれで行ってほしい(笑) 阿部さんの「鼻のピアス外しとけって」のエピソードも、大人の距離感と大輝のキャラがぎゅっと詰まってて好きです。 雨の感触やタイヤの皮むきの描写、一つひとつが丁寧で、世界にどっぷり浸れました。次が気になります…!