テラーノベル
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ねこむすび
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金曜の最後の授業が終わったのは、16時40分だった。
昼前まで降っていた雨は上がっていたが、学生駐車場のアスファルトにはまだ黒い濡れ色が残っていた。南東からの風が湿っていて、7月にしては肌寒い。エボXのボンネットにも、細かな水滴が点々と張り付いている。大輝が運転席に、陽斗が助手席へ身体を畳むように乗り込んだ。
学校の門を出て、大手町の住宅街を北へ抜ける。スピーカーからBlack Sheepの「The Choice Is Yours」が流れ始めた。太いベースのループに合わせて、陽斗が膝の上で指を鳴らしている。
「てかさ、大輝の叔父さんってどんな人なの」
「どんなって言われてもな」
西公園の手前の信号で止まったところで、大輝はステアリングに手を置いたまま、声を腹の底まで落とした。抑揚を消し、表情も動かさない。
「『大輝。そのエボ、もう替え時だ。アウトランダーの見積もり、作っといたから』」
陽斗が吹き出した。
「親戚相手に?」
「親戚だからだよ。盆と正月に会うたび、カタログ持ってくんだぜ。断っても顔色ひとつ変えねえの」
大輝はもう一度、声を低く沈めた。
「『分かった。じゃあ、ハンコはここな』」
「話聞いてねえじゃん」
「聞いてねえんだよ、マジで。電話無視すると、今度は母ちゃんに掛けてくるからな。『大輝が電話に出ない』って」
「外堀から埋めてくんの?」
「埋めてくる。で、母ちゃんから『叔父さんに折り返しなさい』ってLINE来る」
「うちの営業マンですらここまで強引に売らなかったよ」
「マジよ。現物見て驚くぜ」
信号が青に変わる。公園の木々はまだ濡れていて、葉の先から落ちた雫が歩道に点々と黒い染みを作っていた。西公園入口から青雲西道路へ上がり、広瀬川を渡る。前のトラックが巻き上げる細かな水しぶきを、ワイパーが一度だけ拭っていった。
青葉山トンネルへ入ると、外の明るさが白い照明に切り替わった。等間隔に並んだ灯りが、フロントガラスの上を規則正しく流れていく。ベースの音が、トンネルの壁に返ってわずかに太くなった。
「叔父さんて、ディーラー長いの?」
「俺が生まれる前からいるって。ずっと三菱」
「三菱一筋かよ」
「中学ん時、チャリ買い替えるって言ったら、真顔で『三菱のねえか探しとく』って言われたからな」
「三菱、チャリ作ってねえだろ」
「作ってねえよ。結局ホームセンターで買った」
陽斗がまた笑って、窓の外へ目をやった。
「あと、30分以上話すなよ。気づいたらハンコ押してっから」
「俺、まだ何も持ってねえのに?」
「持ってなくても押させんだよ、あの人は」
トンネルを抜けると、濡れた路面に低い雲の灰色が映っていた。青雲宮城ICの手前で泉中央の案内に従って一般道へ回り込み、折立の交差点で信号を待つ。右の角に、黒い外壁の低く横長の建物が見えてきた。赤いスリーダイヤの隣で、白いMITSUBISHI MOTORSの文字が光っている。M三菱折立店。正面から脇へ回り込む大きなガラスの向こうに、白いデリカミニが1台、明るい照明を浴びていた。ディスプレイオーディオの隅の時計は17時12分を示していた。
ウインカーを出し、建物のすぐ前まで白線で区切られた駐車場へエボXを入れる。正面には黒いトライトンと、試乗車のステッカーを貼ったアウトランダーが並んでいた。2人でガラスの扉をくぐると、黒い外観とは逆に、中は白く明るかった。床にも壁にも、まだ擦れた跡ひとつない。エアコンの乾いた空気と、新車の内装材の匂いが混ざって鼻に届く。入口脇のイーゼルには、黒い車体のシルエットだけを写したポスターが立っていた。新型パジェロ、今秋発売。
大輝は商談席の方へは行かず、奥のサービス受付へ向かった。カウンターの向こうから、紺のポロシャツを着たサービスフロントの男が顔を上げた。手元の予約表に指を滑らせ、小さく頷く。
「17時15分来店の庄司様ですね、お待ちしておりました」
「ACDとAYC交換で予約してたんですけど……」
大輝はポケットからエボXの鍵を取り出して、カウンターに置いた。サービスフロントは鍵を受け取り、預かり票に何か書き込みながら顔を上げた。
「で、SST調子どうです?」
SSTを積み直したあと、クラッチとシフトフォークのティーチングにMUT-IIIが要って、このエボXをここへ持ち込んだ。あの時も同じカウンターで、同じように鍵を渡した。
「あれからバッチシっすね。ホントあの時はありがとうございました」
「いえいえ。今日もそのお車で」
サービスフロントが預かり票を差し出したところで、カウンター脇の事務所の扉が開いた。
ワイシャツの袖を肘までまくった男が、ショールームへ出てきた。胸ポケットにボールペンを2本挿し、首から下げた社員証が歩くたびに揺れている。男は大輝を見つけると、表情をほとんど動かさないまま、低くよく通る声で言った。
「あ、車買いに来たのか?」
陽斗が即座に大輝の肩を叩いた。
「マジで似てる」
陽斗はそのまま身体を折って笑い出した。叔父は表情を変えないまま、大輝の方へ顔を向けた。
「まだ、俺のモノマネしてんのか?」
「いやいや、大輝の叔父さんてどんな人って聞かれたから答えただけだよ」
「またまた。そうやっていっつも俺をネタにして。お前がモノマネしたら若い営業マン達が俺の事ネタにしてんだぞ」
叔父は真顔のまま、大輝の肩を軽く叩いた。陽斗はまだ笑いが収まらないまま、背筋を伸ばして叔父へ向き直った。
「すいません、庄司くんのお母さんにアウトランダー勧めた時に『5年も走らんもんだから』って話したのはホントなんですか?」
叔父は大輝を見た。
「お前、それも喋ったのか?」
「母ちゃんまだ3年しか乗ってないのに、『5年も走らんもんだから』はエグいよ」
叔父はまるで聞いていないような顔で、大輝の胸元を指差した。
「お前エボそろそろ走らんからパジェロ買え、パジェロ」
「まだエボ乗るよ」
大輝は陽斗の方へ視線を向けた。
「たぶんパジェロはコイツがほしいと思う」
叔父の顔が、そのまま陽斗の方へ向いた。
「パジェロ買うの?」
「いやいや、俺まだサーフで」
「サーフなんて古いべ。新型パジェロなら通学も安心だぞ?」
「いや、いくらすんすか、それ」
「金のことは言うな。目一杯やるから」
陽斗は口を開けたまま固まり、それから声を上げて笑った。本当に営業を掛けられている。
サービスフロントがその間に預かり票を確認し終え、ショールームの外へ出ていった。ガラス越しに、エボXが工場側の通路へゆっくり回っていくのが見える。
「見てくか?」
叔父が工場の方へ顎をしゃくった。
「俺みてえな甘ちゃん顔出したらやりにくくてしょうがないっしょ」
大輝が笑って返すと、叔父は「そうか」とだけ言って頷いた。
大輝と陽斗は、サービス受付の脇にある待合のテーブルに腰を下ろした。女性スタッフが紙コップのコーヒーを2つ置いていく。大きなガラス越しの空は相変わらず低く、駐車場の白線の上を、湿った風が細かいゴミを転がしていく。
叔父は事務所から呼ばれて一度引っ込み、しばらくして別の客を連れて展示車の方へ歩いていった。年配の夫婦に、ショールームのデリカミニのスライドドアを開けて見せながら、何か話している。話の中身までは聞こえないが、低い声が途切れずに続いている。気づくと、夫婦の旦那の方が運転席に座らされていた。
「あれ、お前の母ちゃんの時もああだったの?」
陽斗がコーヒーを啜りながら訊いた。
「ああだったよ。母ちゃん、エクリプスクロスの車検の見積もり取りに来ただけなのに、『車検なんか通すもんじゃない』って言われて、帰りにはアウトランダーの注文書書いてたから」
「色は?」
「選ばせてもらえなかったって。『黒ならすぐ出せる』の一言で、そのままブラックエディション」
「それ、在庫じゃん」
「在庫だよ」
「弁護士が言いくるめられてんの、ウケる」
「本人は『納得して買った』って言ってる」
「それ、言いくるめられた人が言うやつだろ」
陽斗はテーブルに肘をつき、ガラスの向こうの駐車場に並んだ黒いトライトンを眺めた。
「でもサーフ、マジで古いんだよな。この前も車検で下回り見てもらったら、錆が結構来てるって言われたし」
「4ランナーにすりゃいいじゃん。左ハンドルの逆輸入」
「お前、それ叔父さんの前で言ったら殺されるぞ」
「だから今言ってんの」
デリカミニの夫婦を見送った叔父が、事務所へ戻る途中でテーブルの脇に寄ってきた。手には、入口のポスターと同じ黒いシルエットが刷られたリーフレットを1枚持っている。それを陽斗の前に、コーヒーの紙コップを避けて置いた。
「これ、まだ出回ってないやつだから。持って帰って親御さんに見せて」
「いや、俺まだ学生なんで」
「学生だからだよ。卒業したら乗るべ」
叔父はそれだけ言うと、返事を待たずに事務所の扉の向こうへ消えた。陽斗はリーフレットを持ち上げ、表と裏を交互に眺めてから、大輝の顔を見た。
「これ、断ったことになってる?」
「なってない。たぶん来週電話来るぞ」
「番号教えてねえし」
「母ちゃん経由で来る」
陽斗はリーフレットを丁寧に二つに折って、デイパックの外ポケットへ差し込んだ。
窓の外では、サービス工場の方から出てきた軽自動車が1台、洗車機の前に並んでいた。シャッターの奥から、インパクトレンチの短い音がときどき聞こえてくる。どのピットで鳴っているのかまでは、ここからは分からない。
「AYCってさ、今思うと贅沢だよな」
陽斗が紙コップを揺らしながら言った。
「今の車って、どれもABSのユニットで空転してる方のブレーキ摘まんで、擬似的にLSDみたいな動きさせてんじゃん。わざわざリアデフの中にクラッチ組んで左右に振るとか、手間掛かりすぎだろ」
「そうなんだよ、今は前後のモーターでやれちゃうしね。真希さんのGRヤリスだってアプリあればカップリングプレトルクとかアンチラグも触れるし、クーリングファンとかアイドルアップやれちまうんだぜ」
「油圧制御でやってたのか、時代を感じる」
陽斗はテーブルに頬杖をついた。
「啓司のインプレッサはどんなのついてんの?」
「センターデフのロック率を変えるだけ。やってる事はすごくシンプル。それで黒森3分40秒切るんだから大したもんだよ」
「マジか」
陽斗は短く呟いて、椅子の背もたれに寄りかかった。
コーヒーが半分ほどに減った頃、入口のガラス扉に「本日の営業は終了しました」の札が掛けられた。18時を回っていた。事務所の奥では、まだ何人かが電話に出たりパソコンを叩いたりしている。
18時20分を少し過ぎて、サービスフロントが整備伝票を手に戻ってきた。
「お待たせしました。作業終わりました」
サービスフロントは伝票をテーブルに置き、大輝の方へ向けた。それから少しだけ言いにくそうに、ボールペンの先で項目をなぞった。
「すみません、ご確認なんですが。ACDとAYCのご依頼ということで、こちらで駆動系の関連油脂も含めて受けてしまっていまして」
大輝は伝票に目を落とした。
AWCコントロールフルード交換。MUT-IIIでの油圧系統のエア抜きと作動確認。そこまでは予定通りだった。その下に、トランスファオイル交換、リアのAYCのディファレンシャル機構部オイル交換、トルク移動機構部フルード交換、と続いている。
「トランスファが0.8リッター、リアのデフ側がLSDのギヤオイルで、トルク移動機構の方はATFのSP IIIです。AYCの作動確認もして、診断も掛けて、異常コード確認して履歴も消去してあります。コードは何も出てませんでした」
大輝はもう一度伝票の上から下までを目で追った。
トランスファもリアも、いずれ替えるつもりでいた項目だった。距離を考えれば、そろそろだとも思っていた。
「まじっすか、俺も伝え方悪かったんでいいっすよ」
「申し訳ないです。お会計なんですけど、本来は2万3千円ちょっと超える形になってまして」
サービスフロントが言いかけたところで、客を見送ってきた叔父がテーブルの脇に立った。伝票を横から覗き込み、合計の数字を指で叩く。
「端数切って2万3千円でいいよ」
「え、いいの?」
「いいいい。そのかわり」
叔父は伝票から顔を上げ、大輝を見下ろした。
「やっぱりパジェロ買った方がいいんでない?」
「もうちょいエボ乗らせて」
叔父は返事の代わりに、伝票を大輝の方へ押し戻した。それから少しだけ声を落とす。
「あと、ちょっと速くしといたから」
「油替えただけでしょ」
「速くなったべ」
陽斗がテーブルに額をつけて笑った。
大輝は財布から1万円札を2枚と千円札を3枚抜いて、カウンターで支払いを済ませた。財布の中身が一気に軽くなる。
「母ちゃんのトイチ、まだ始まってねえよな」
陽斗が横から小声で言った。
「13日からな」
「よかったな、まだ利子付かなくて」
「良くはねえよ」
サービスフロントから鍵と控えを受け取り、2人でショールームを出た。風はまだ南東から吹いていて、袖口から入ってくる空気が少し冷たい。振り返ると、黒い外壁の中でガラスの面だけが白く光り、デリカミニのボディに天井の照明が映り込んでいた。エボXは入口の脇に回されていた。大輝はしゃがんで、車体の下を覗き込んだ。トランスファのあたりにも、リアデフのあたりにも、滲んだ跡はない。濡れたアスファルトの上にも、新しい油の筋は見当たらなかった。
運転席に座ってイグニッションを捻る。メーターの中の警告灯が順番に消え、いつもと同じアイドリングが足元から伝わってきた。
ガラス越しに、叔父がショールームの中から片手を上げているのが見えた。大輝も軽く手を上げて返し、エボXを折立の交差点の車列へ入れた。
ディスプレイオーディオから、De La Soulの「Eye Know」が流れ始める。
「いやー、マジで本物だったわ」
陽斗が窓の外を見ながら言った。それから咳払いをして、声を喉の奥へ押し込む。
「『あ、車買いに来たのか?』」
「似てねえよ。声高すぎ」
陽斗は顎を引き、もう一段低いところから声を絞り出した。
「『サーフなんて古いべ』」
「それはちょっと似てる」
陽斗は満足そうに笑って、シートの背にもたれた。
「明日、何時出る?」
「7時半。寝坊すんなよ」
「了解。朝飯どうすんの」
「コンビニでいいっしょ」
「じゃあ今日の晩飯は」
大輝は少し考えた。財布の中には、千円札が何枚か残っているだけだった。
「カップ麺」
「結局それかよ」
陽斗が笑い、大輝も笑った。昼の雨が残る路面の上を、エボXは前の車のテールランプについて走っていった。
コメント
1件
この回、めっちゃ良かったです🥀 大輝くんの叔父さん、完全に本物の営業マンで笑った。「車買いに来たのか?」からの流れ、モノマネがバレててなおかつ本人もネタにしてる感じがリアルすぎる…。陽斗がリーフレットしまった時点で既に買う気あるのでは?って思いました🤭 あと油圧制御とAYCの話、専門用語出てくるのに会話に乗せられてスッと頭に入ってくるのがすごい。車好きの距離感と、お互いのクルマ愛が伝わってきて、読んでて気持ちよかったです。 「カップ麺」で終わる感じ、なんか青春だなあってじんわりしました🌙 次も楽しみにしてます!