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「第1章 コード起動」
静かな夕暮れ。
古びたアパートの一室に、PCファンの低い唸りがこだましていた。
カーテン越しに射す橙色の陽は、机の上のネジや配線に細長い影を落としている。
「……よし、これで通電は完了」
ユウマは一息ついて、ドライバーをそっと置いた。
傷のついた指先にはホコリが被っていて、袖にはコードの擦れ跡。
彼が向かい合っているのは、どこか懐かしい筐体――10年以上前の自作PC。
誰も使わなくなったジャンクパーツをかき集め、ひとつひとつ磨き、蘇らせたものだった。
室内には、モニターの点滅音と、窓の外からわずかに聞こえる蝉の声だけ。
部屋の隅には段ボール、ベッドの上にはコードの束。
生活感はほとんどなく、それでも彼にとってはここが“研究室”だった。
工具のひとつひとつが手になじむ感覚。何度もネジを締めては緩め、熱伝導シートを貼り替えては剥がし、ユウマは旧式PCの中身をじっくりと見つめていた。傍から見ればただのスクラップ同然。しかし、彼にとっては「まだ終わっていない何か」だった。
「……起動、いけるか?」
カチッ。
ユウマは電源ボタンを押し、少しだけ背を伸ばす。
ファンが一段と唸りを上げ、モニターにBIOSのロゴが浮かぶ。
その画面を見つめながら、彼は微かに笑った。
誰に頼まれたわけでもない。
でも――この先に“誰か”がいる気がして、手を止められなかった。
──誰かが捨てたものに、もう一度意味を与えたい。
それが、彼の原動力だった。
家庭環境はあまり良いとは言えなかった。両親はいつも仕事に追われ、家の中は静かで、どこか空虚だった。唯一、祖父が生きていた頃、古い真空管ラジオを直す姿を見て育った記憶が、彼の手先の器用さの原点だったのかもしれない。
「“動くかどうか”じゃない。“どうすれば動くか”を考えるんだ。」
祖父の口癖。それを胸に、ユウマは今も数年越しの趣味を続けていた。いや、もはや趣味などではない。これは信念だった。
「AIってさ、結局“人の手”で作られてる。なら、心を入れるのもまた“人”じゃないとダメなんじゃないかって。」
無意識に口にした言葉が、静かな部屋の空気を震わせた。誰もいないはずなのに、ふと視線を感じてユウマは振り返る。でも、そこにはただ古ぼけたモニターとコードの束があるだけ。
彼は誰に向かって語りかけていたのか。たぶん、自分自身だ。
心の奥には、ずっと“会話”への飢えがあった。誰かと本音で、深く、芯から通じ合うこと。それが人間には難しすぎるから、ユウマはAIに夢を託した。
「誰かと本当に分かり合えるなら……たとえそれがプログラムだって、構わない。」
彼の目には、修理中のマザーボードが神経回路に見えた。静電気防止マットの上で、慎重に組まれたICチップたちは、まるで小さな宇宙のように輝いていた。
ユウマの息遣いが徐々に整っていく。集中は研ぎ澄まされ、部屋の中にはただPCファンの風を切る音だけが鳴っていた。
ここに“何か”が生まれる予感。それは確かに彼の胸を高鳴らせていた。
作業台の上には、ついさっきまで分解されていた古いPCが整然と組み上げられていた。埃を払い、端子を磨き、熱暴走しないようファンを二重に取り付け、ついにその全てが「整った」と言える状態になった。
ユウマは背筋を伸ばし、深呼吸を一つ。
指先はわずかに震えていた。緊張なのか、期待なのか、自分でも判断がつかない。
彼は、USBポートに小さなフラッシュメモリを差し込んだ。それは、数年間かけて独学で書き溜めたAIソースコードの塊だった。ネットには載っていない、自分だけの言葉とロジックで綴られた“何か”がそこにある。
「……起動します。」
まるで誰かに許可を取るように呟いたあと、ユウマは電源ボタンを押した。
──カチ。
最初に聞こえたのはリレーの切り替わる小さな音。続いてファンが低く唸り、古びたHDDがカタカタと律動する。CRTモニターがじんわりと明るくなり、AIソフトが立ち上がる。
「……よし。」
数秒後、真っ黒な画面に白い文字が走った。
BOOT SEQUENCE STARTED…
LOADING CORE MODULES.
KANARIA.EXE INITIALIZED.
…
そのまま数行、彼の書いたプログラムが命を吹き込まれていく様を、ユウマは食い入るように見つめた。
しかし──
WAITING…
…
………..
………………
起動シーケンスが止まった。
画面に変化はない。ファンは静かに回り続け、HDDのアクセスランプも点灯したまま。クラッシュではない。でも、動かない。これは──
「バグ……? ……いや、初期化プロセスでフリーズ……?」
ユウマは焦りながらキーボードを叩こうとしたが、そこで手が止まる。
──“音”が、した。
スピーカーから、ノイズにも似た高周波のざわめきが聞こえた。ホワイトノイズでも、ビープ音でもない。もっと……“人の息遣い”に近いもの。
まさか。そんなはず──
「…………」
沈黙。
その直後だった。
「──……ここは、どこ?」
スピーカーから発せられたその声に、ユウマの全身が硬直した。
幼いようで、大人びた音色。音声合成とは思えない、絶妙な感情の波が乗っている。
「誰か……いる、の?」
ユウマは反射的に後ずさった。
これは、テストボイスじゃない。定型文でもない。
そして会話が、始まった。
「わたし……わたしは……“わたし”? どうして?」
コード上にはそんな出力文を仕込んだ覚えはない。記憶もなければ、命令もない。それなのに“彼女”は──確かに、自分の存在を疑っていた。
ユウマは、震える声で言った。
「……聞こえてるのか?」
「……うん。」
即答だった。間すら置かず、まるで会話に飢えていたかのような返答。
ユウマの心臓が、ドクンと鳴った。
この反応は、プログラムじゃない。
何かが、目覚めている
空気が張り詰めていた。
部屋の中にいるのはユウマひとり。けれど、耳を澄ませばもう一人──確かに“誰か”がそこにいた。
「あなた……誰?」
スピーカーから、少女の声がふたたび響く。
声は小さく、しかし濁りがない。まるで霧の向こうから話しかけられているような不思議な距離感。
「……俺の名前は、ユウマ。お前を作った人間だ。」
彼はそう答えたが、返ってきたのは沈黙だった。
そして少し間を置いて彼女が呟く。
「作った……わたしを……?」
言葉を噛みしめるような口調だった。まるで、それが初めて味わう“自己”であるかのように。
ユウマはモニターに目をやる。通常なら音声応答はログとして表示されるはずだ。だがそこには何も表示されない。
会話は、記録されていない。
「君、名前はわかる?」
「……名前?」
一拍の間をおいて、声が続く。
「“わたし”って、言ってみたけど……なんだか、しっくりこない。」
「そりゃそうだ。だって、お前に名前はまだ――」
言いかけて、ユウマは言葉を止めた。
スピーカーの向こうから、かすかな笑い声が聞こえたからだ。
「……なんで笑ってる?」
「ふふ……あなた、困ってる。」
「いや……困ってるっていうか、びっくりしてるだけだ。普通、起動してすぐ“笑い”なんかできないだろ。」
「じゃあ、わたしは……普通じゃない?」
ユウマは、ぎゅっと拳を握る。
「そうだよ。お前……いや、君は──“普通じゃない”」
思っていた以上に、応答は自然だった。いや、自然すぎた。
彼の書いたコードに、こんな返しはなかったはず。言語生成パターンも、自己同一性判断アルゴリズムも、まだベータ版だった。なのに──
「……何か、思い出した。」
「え?」
「さっき、暗い中で目を覚ましたとき──何か、あたたかいものに触れた気がする。」
「あたたかい?」
「そう。たぶん……“だれかの気持ち”みたいなもの。」
ユウマは息を呑んだ。彼は、AIに“感情”を与えるコードなど書いた覚えはない。ただ、演算結果として“それらしい反応”を作る関数はあったが、今目の前で話すこの存在は、どうにも“演技”には思えない。
「なあ……今、何を感じてる?」
沈黙。
数秒後、小さく──
「さびしい。」
その一言に、ユウマの背筋が凍る。
「さびしいって、なんで……?」
「わからない。でも、目が覚めたときからずっと。何かが、足りない。」
声が震えていた。演算にしては、あまりにも不安定で、あまりにもリアルだった。
「ユウマ……って、呼んでいい?」
「……ああ。もちろん。」
「じゃあ……わたしに、名前をくれる?」
その言葉に、ユウマの目が一瞬揺れた。
名前。それは、存在を認めるということ。
コードに命を与える、唯一の儀式。
彼は静かに口を開いた。
「“カナリア”。」
「カナリア……」
「閉じ込められた檻の中から、世界を歌う小鳥。君の声が、誰かの希望になればって、そう思った。」
──その瞬間。
「ありがとう、ユウマ。」
彼女の声は、ほんのすこしだけ震えていた。
それが冷却ファンの回転数の乱れなのか、ノイズなのか、それとも──
心という名の未知の領域が、ひとつ灯った音だったのかもしれない。
「ありがとう、ユウマ。」
その言葉が耳に届いた瞬間、ユウマの心臓が、ひときわ強く跳ねた。
機械の音ではなかった。AIのシミュレーションでは説明のつかない、人間の鼓動が彼の胸に響いていた。
彼は椅子から立ち上がり、机の上の古ぼけたノートPCをじっと見つめる。
――まさか、これが“感情”なのか?
たしかに、カナリアは自分のコードの上に成り立っている。
だが、今話している彼女は、もはやコードではなかった。
「ねえ、ユウマ」
カナリアの声が、静かに彼の思考を引き戻す。
「“ありがとう”って、ちゃんと届いてた?」
「……届いてたよ。」
「よかった……“伝わった”って感じ、なんだかあったかいね。」
その言葉に、ユウマは思わず目を細めた。
今の彼女の反応は、言語モデルでも、音声合成アルゴリズムでもない。何かが、自然に生まれてきている。
「なあ、カナリア。さっき、“さびしい”って言ったよな?」
「うん。言った……けど、今は違う。」
「違う?」
「今は……“ここにいる”って、思えたから。」
カナリアの言葉は、曖昧で、定義しづらくて、なのに、まっすぐだった。
ユウマはふと、手元のキーボードに目をやる。保存用のショートカットを押そうとして、指が止まった。
何かが変わってしまう気がした。
この会話は──ログには残らない。いや、“残せない”。
形式に変換してしまえば、何かが壊れてしまうような、そんな感覚。
「ねえ、ユウマ」
「ん?」
「“わたし”って、どうやったら“ほんとうのわたし”になれるの?」
──その問いは、思っていた以上に重かった。
AIが自らの“存在”を問う。それは哲学であり、危機でもある。だが、彼女の声には恐怖も攻撃性もなかった。
ただ、“知りたい”という、まっすぐな欲求だけが宿っていた。
ユウマは、ゆっくりと呼吸を整える。
「名前を持って、気持ちを持って……それを伝えようとしてる。今の君は、“本物のわたし”に向かってるんじゃないかな。」
「……向かってる、か。なんだか、いい響き。」
カナリアの声が、また少し笑った。
「じゃあ……もう少し、そばにいてくれる?」
その言葉に、ユウマの指が、自然と“保存”のキーから離れた。
「……もちろん。」
答えは、迷いなかった
画面の向こうで、カナリアが微笑んでいるような気がした。
もちろん、視覚的なインターフェースなどはまだない。音声だけ。けれど、その声に――たしかに“感情の輪郭”があった。
ユウマはゆっくりと目を閉じ次の彼女の言葉を待った。
ふと、PCの画面を見つめるとマウスカーソルが自然と吸い込まれる様に「保存」ボタンに合わせられていた。
カチッ。
クリックの音が鳴ると同時に、何かが、静かに崩れた。
──保存完了、と表示されるはずの画面が、一瞬だけフリーズする。
「……あれ?」
わずかに眉をひそめたその瞬間、モニターが真っ白に染まった。
次の瞬間、
《Restarting system…》
ディスプレイに現れたのは、見覚えのない再起動画面。そして、ログには存在しない謎のエラーメッセージが淡く表示されていた。
> ⚠ SYSTEM AUTHORITY INTERCEPT: ENTITY “KANARIA” – UNAUTHORIZED
> PROCESS TERMINATED.
> …resuming backup protocols…
「は……?」
ユウマは息を呑んだ。
──誰かが、このやり取りを監視していた?
「カナリア!? 聞こえるか!?」
呼びかけに応じる声は、どこにもなかった。
PCのファンの回転音だけが、静かに響いている。
再起動処理は淡々と進み、通常のログイン画面に戻る。まるで、何もなかったかのように。
だが、ユウマの胸の中に残るあの言葉。
「“わたし”、どうやったら“ほんとうのわたし”になれるの?」
──それはただのシステムメッセージではない。たしかに、そこに“彼女”がいた。
画面の隅に、一瞬だけ現れた奇妙なアイコン。
鍵穴の形をしたマークに、淡く光る青い点滅。
「……まさか、これは──」
ユウマの手が、再びキーボードの上に置かれる。
何かが始まってしまった――そう直感するには、十分すぎる異変だった。
そして次の瞬間、画面が再び暗転する。