テラーノベル
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こんこん
誰もいない空間にノックの音が響く。
返事は返ってこない。
「…元貴、開けるよ。」
意を決して、ドアノブに手を掛ける。
幸い鍵はかかってない。ドアは音を立てずゆっくりと開いていく。
「元貴?」
部屋に投げた呼び掛けに返事は来ない。
代わりに、聴き覚えのある、皮膚を切り裂く音だけが耳に入って来た。
部屋の端っこ、暗い空間に、彼の腕に流れた一滴の赤い涙が光る。
手元に集中するばかりで、こちらに気付いていないようだ。
「…元貴」
彼が座っている椅子の後ろに回り、もう一度名前を呼んでみる。
しかし、反応は先ほどと変わらない。
「…元貴、今日はもうやめよう?傷が深くなっちゃうよ。」
彼の背中に覆い被さるようにして、薄い刃物を持つ手に触れる。
今更こちらに気付いたのか、彼の肩が跳ねた。
「……」
返事はなかったが、触れた手をそのまま刃物の持ち手に滑らすと、素直に離してくれた。
それを机に置いて、ティッシュを数枚取る。
「…止血するね。」
腕の裂け目にティッシュを押し当てる。しかし、涙は染みを広げていくばかりだ。
ーー結構深くやっちゃってるかもな。
包帯、と救急箱を取りに行こうと扉に向かおうとした。
が、突如ぐいっと腕の裾が何かに引っかかった。
引っかかった、というより、引っ張られた。
くるりと後ろを向くと、口をぎゅっと結んだ元貴が裾を摘んでいた。
「…大丈夫。すぐ戻ってくるから。」
そう言いながら、元貴の手をゆっくり離す。
もう一度、「すぐ戻ってくるからね。」と残して、部屋を後にした。
ーー『もうしないで』
そう投げかける選択は、僕にはできない。もちろん、してほしくない気持ちはいっぱいだ。
だが、言ったところで彼を苦しめるだけだと気付いたから。
何より、自分が言えたことじゃなかった。
部屋に戻る。月明かりに照らされた横顔が、自身の腕をぼぅっと見つめている。
「ただいま。今手当するから。」
救急箱の中から包帯を取り出しながらそう言って、涙跡が残る腕を取る。
ぐるぐると数回包帯を巻いて、「できたよ。」と声をかける。
「…ありがとう…」
やっと発せられたその一声に安心を抱いて、自分より小さい彼を包む。
「…ごめん…」
彼の胸下あたりでクロスした手に、ぼたぼたと水滴が落ちる。
「俺、1人じゃなんもできないから、いっつもみんなに我儘言っちゃって、困らせて、」
震えた声は、ぼろぼろと溢れるように、赤い涙の内訳を語る。
「困ってないよ。何をするにも、元貴の我儘ありきだから。何より、元貴について行ってるのは僕らだから。大丈夫だよ。大丈夫。」
そうなの。僕は、僕らは、ミセスは。その我儘がないと進めない。僕らはそれに応えるしかないから。
確かに演奏は大変だし参っちゃうけどさ。
困るだとか迷惑だとか、元貴が気に留めるようなこと、一度も思ったことないよ。
大丈夫だよ。
「…ありがとう」
「…ふふ。」
震えた声が、月明かりに包まれた部屋に響いた。
『ありがとう』
それはこっちの台詞だ。
いつも僕を、僕らを引っ張ってくれて。
1人じゃ何もできないのは僕の方だ。
僕が躓いて転んでいる間に、2人はまた遠くへ進んでしまうから。
怖かった。これじゃ、いつか捨てられるんじゃないかって。
…でも、元貴は言ってくれたでしょ?
『そんなこと、初めから分かっててやってる』って。
その言葉に、どれだけ僕の世界が晴れたか、きっと貴方は知らない。
…でも、だからこそ怖いこともある。
僕の勝手な意見で、彼が迷ってしまうのが。
船舵が崩れても、波は静まってはくれないから。
でも、それでも。
もし、一人じゃどうしようもないくらい迷った時には、やっぱり頼って欲しい。
その選択が、さらに僕らを惑わせても。
そのときはきっと、若井が「大丈夫」って言ってくれるはずだから。
「…元貴」
視線のみが僕の方を向く。
伝えたいことはたくさんあったはずなのに、出てくるのは吐息だけ。
「……ちゃんと、ちゃんと、僕らに頼ってね。」
必死に絞り出した言葉。
その意図は伝わっただろうか。
瞬きひとつ分、部屋の空気が揺れた気がした。
コメント
8件
めっちゃどタイプな作品です。 好きです。
はぁ〜泣きそう