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バスと電車を乗り継いでクリニックの最寄り駅へと到着したウーヴェは、地上の広場へ出たときに一つ安堵の溜息を零す。
最寄り駅への到着が近付くにつれ鼓動が早くなるなどの不調は感じられなかったが、クリニックが入居するアパートに向けて歩いている時、ドアの間近でブロンドの青年を見かけて足が止まってしまう。
あの日、いつものカフェにコーヒーを買いに出かけて気分転換を図ろうとしていたウーヴェは、アパートを出てすぐにアロイスのデンタルクリニックを探すルクレツィオに声を掛けられて案内するためにアパートに一緒に戻ったのだが、その時にスタンガンで自由を奪われ誘拐されたのだ。
その一連の行動を否が応でも連想させるブロンドの青年が前を歩く姿に身体が強ばってしまうが、ルクレツィオと共通しているのがブロンドだけで身なりも顔立ちもまったく違う事に気付き、胡乱な目で見つめながら通り過ぎる青年に震える呼気を零したウーヴェは、アパートに入ると階段横を通ってエレベーターに乗り込んで溜息を吐く。
誘拐されたのは階段横でそのまま地下駐車場へと連れて行かれたがそちらにはまた後で行く事を決め、クリニックのあるフロアに到着するとやけに長く感じる廊下を何かを確かめるように一歩ずつ歩いて行く。
両開きのドアにぶら下げられている休診中のプレートを手に取り、早くこれが診察中に変化するように祈りつつ鍵を開けてドアを開ける。
新婚旅行から戻ったウーヴェは翌日から気持ちを診察へと向けるようにここにリオンと毎日時間を決めて来ていたが、今日は一人でやって来た事からドアノブを掴んだまま先に進めなくなっていたが、背後から呼びかけられて身体に籠もっていた不要な力が抜けていく。
「ウーヴェ? おはよう」
「あ、ああ、おはよう、リア」
今日はリオンが面接に行くので一人でクリニックに行く、良かったら来てくれないかと声を掛けたのは昨日の夜だったが、ウーヴェの招集に応じたリアが後ろに立っていて、二人を巻き込んだ事件の前とは少し違う笑みを浮かべる彼女に笑いかける。
「急に来てくれと言って悪かった」
「大丈夫よ。ウーヴェから来てくれと言われたらそちらを優先するって最初から言ってあるから」
だから弟が雇われ店長をしているカフェを休んでも平気と笑う彼女に頷きリアを招き入れるようにドアを押さえて合図すると、リアが隠しきれない緊張感を体中から滲ませながらウーヴェが押さえるドアを潜る。
「……少し、緊張するわね」
「そう、だな」
彼女の緊張の原因が分かっている為に短く返しドアを閉めて二人同時に溜息を吐いてしまうが、ちらりと視線だけを重ねると示し合わせたように深呼吸をしもう一度溜息を吐くが、今度は先程と比べて何かしらの意志が籠もったものだった。
「リア、まだ再開まで時間がある。目にして辛くなるものがあるかどうか教えて欲しい」
残念ながら構造的なものは変えようがないがそれでも可能な限り変えてみたとステッキで床の絨毯を一つ突いたウーヴェは、トイレがどうなっているのか問われて無言で頷き彼女を待たせてトイレのドアを開ける。
事件当時ジルベルトにトイレに監禁され足を刺されたリアだったが、まさにその現場は内装を変える程度の事しか出来ずに申し訳ないと詫びつつウーヴェがリアを招くと頷いた彼女の足が動こうとしない事に気付いてウーヴェがゆっくりとリアの前に戻り片手でそっと彼女の肩を抱き寄せる。
「リア、事件の時は怖い思いをさせた。俺がいない間もずっと不安だったと思う」
悪かった。それを乗り越えてくれてまたここに来てくれた事は本当に感謝している、ありがとうと謝罪と礼を以前と同じように伸びた髪を掻き分けて耳に囁きかけると、リアの大きく震える腕がウーヴェの背中に回されてきつく抱きしめる。
背中の傷が痛みを覚えるのを堪えリアの震えが少しでも納まるように願いつつ本当にありがとうともう一度伝えた時、ウーヴェの肩口辺りから堪えようとしている嗚咽が流れ出す。
事件ではリアにとって最も頼りになる友人であり上司でもあるウーヴェが誘拐され自身も足を刺されて髪を切られてしまうという心身への加虐を受けて病院で日々沈み込んでいたが、事件解決に向けて仲間と共に必死に動いていたリオンが病院へと顔を出してくれた時にもうこの事件のことで泣かないと決めたのだが、今までの関係に同じ事件の被害者という関係も加わったウーヴェの声に自然と涙が止まらなくなってしまったのだ。
それを詫びようとするが声が言葉として出てくれず、何を伝えたいのかも分からないままただ止めることの出来ない涙に彼女自身も狼狽してしまうが、それを見抜いているウーヴェが彼女の背中を撫でて好きにすれば良いと囁いた為、身体の好きにさせようと決める。
腕の中で聞こえる小さな嗚咽に眉を寄せ、本当に怖い目に遭わせてしまった、心配も掛けたしクリニックを再開するのかという不安も抱かせてしまっていたが、例年通りにヴィーズンが終わればクリニックを再開する、その準備を仕上げたいから手伝って欲しいと囁くとリアの長い髪が何度も揺れる。
「……ごめん、なさい。あなたの声をここで聞いたら……」
安心してしまって涙が止まらないと手の甲で涙を拭おうとするのを遮りサマーセーターの袖でそっと目元を拭いてやるとリアの目が丸くなるが、笑みの形に変化すると同時にぽろりと涙がこぼれ落ちる。
無言でその涙も拭いたウーヴェは彼女が落ち着いた頃を見計らいトイレの内装を変えて貰ったが大丈夫かと再度問いかけるとリアが緊張の面持ちで頷きつつ恐る恐るトイレに向かうと、開け放たれているそこを覗き込み一歩を踏み出して暫くトイレ内に留まっていたが、ウーヴェが不安に感じるほどの時間が経過した頃、何かを吹っ切ったようにすっきりとした顔でリアが姿を見せる。
「……リア」
「……大丈夫、ウーヴェ。何かの時には思い出すかも知れないけど、でも……大丈夫」
事件現場となったここでまた以前のように働けるか不安だったが大丈夫とウーヴェと己に言い聞かせるように呟いた彼女は、左足の傷の辺りに手を宛がい深呼吸をすると、ウーヴェに向けて強さと優しさがない交ぜになった笑みを見せる。
「クリニックを再開したらまたよろしくお願いします、ドクター」
「……ああ、こちらこそ、宜しく頼む」
きみがいないと事務が滞って仕方が無いと苦笑するウーヴェに頷いたリアは今日はこの後何か仕事をするつもりかと問われ、リアが使っていたデスクの表面を撫でたウーヴェは、今日はここに来て不調を覚えないか確かめたかっただけだと伝えると一瞬驚いた様に彼女の目が丸くなるが、それも必要なことだと納得したように頷いてデスクを回り込み、左足を刺された事を感じさせない様子で椅子を引いて腰を下ろす。
「……半年ほど前なのに随分と久しぶりに感じてしまうわね」
「そうだな……確かにまだ半年ほどしか経ってないな」
真冬の灰色の雲が空を覆っていたあの日からまだ半年ほどしか経過していないが、二人にとっては何年も経過しているような感慨を抱かせてしまう空気がクリニックの中に満ちていて、不思議だなと苦笑するウーヴェにリアも同じ顔で頷く。
「クリニックを再開するけど患者はどうなの、ウーヴェ」
「ああ。再開する案内をリオンに手伝って貰って出した。何人かは連絡をくれたけどしばらくの間は患者が少ないだろうな」
デスクに尻を乗せて手の爪を見つめつつぼんやり呟くウーヴェにリアが仕方が無いわと慰めの言葉を掛けるが、また以前のように丁寧に診察をしていれば必ず患者は戻ってくる事を信じているとも伝え、振り返るウーヴェが不安を感じないように笑顔で頷く。
「ありがとう、リア」
「どういたしまして」
患者が以前のように来てくれる事を信じて診察を続けましょうと笑うリアにウーヴェもようやく愁眉を開いて頷き、今日は一人で来てみて良かったと満足そうに溜息をつく。
その時、ウーヴェのスマホが以前と同じだが少しだけアレンジの違う映画音楽-今やそれはリオンのテーマ曲のように感じていた-を流し、ウーヴェの顔に自然と嬉しそうな色が浮かび上がる。
「……ハロ」
『ハロ、オーヴェ』
「ああ。面接は終わったのか?」
『ああ、うん。終わった。今からそっちに向かおうと思ってるけど大丈夫か?』
問われる言葉に思案することなく大丈夫だと返すが何かを思い出したのか、こちらについたら地下の駐車場から電話をくれ、その連絡を受けて駐車場に向かうと伝えると、そんなことをしなくてもクリニックに上がるのにとリオンが不満そうに訴えるが、確かめたいんだと短く返すウーヴェの言葉から何かに気付いたのか、同じく短い言葉で分かったと返されて安堵に溜息をつきリアの前でも気にすることはないと己に言い訳をしてスマホにキスをする。
『オーヴェ?』
「何でも無い。待っているから気をつけて来い、リーオ」
『うん』
ウーヴェからのスマホへのキスが珍しいと思いながらも嬉しさに顔を綻ばせている姿を如実に想像させる声にウーヴェが苦笑し、気をつけて来いと再度伝えて通話を終えるとデスクの上から不気味な気配が漂ってくる。
「……リア?」
「……すてきな恋人が欲しい、結婚したいって思ってる女の前でいちゃいちゃっぷりを見せつける男って本当にデリカシーがないわよね」
誰かさんに言いつけて少し懲らしめて貰おうかしらと恐る恐る振り返るウーヴェを睨み上げたリアは、私も恋人が欲しいと嘆きウーヴェの腰を指で突く。
「……っ!」
痛みよりもくすぐったさを感じさせるそれにウーヴェが過敏に反応し、誰かさんとは誰だと聞きたくないことを聞いてしまうが、どうしましょう、ねぇ、誰かさんの弟と目を細められて誰を指しているのかを察すると、いつものカフェのレモンタルトと呟いて恨みがましい気配を霧散させる。
「楽しみだわ」
「……」
「……それはともかく。ねえ、ウーヴェ、カスパルとね、少しお付き合いをしてみたの」
リアの纏う空気が一気に変化し安心しつつ振り返ったウーヴェに彼女が伏し目がちに告げたのは、共通の友人であるカスパル-今回の事件ではウーヴェもリアも随分と世話になった-とお試し期間的な感じで付き合った事だったが、何を言わんとするのかが理解出来ずに眼鏡の下で目を瞬かせるとリアの肩が軽く上下する。
「結論、パートナーとして付き合うことは出来ないけれど友人としてこれからも付き合っていきましょうって」
「……そう、か」
「ええ。……だからこれからもあなた達の飲み会に時々参加させてね」
「もちろん」
今回の事件でもしかすると恋人関係に発展するかも知れなかった二人だったが、互いを罵ったり悲しい別れをいずれ迎えてしまうような付き合い方よりも、気楽な友人でいようと決めた事にウーヴェが二人の意見を尊重したいと頷く。
「……リア」
「なに?」
ウーヴェの言葉に小首を傾げる彼女に、異性であれ同性であれきみの短所ですら受け入れてくれる人が現れるだろうから焦ることは無いと目を細めると、リアの頬がほんのり赤く染まる。
「……他の人が言えば嫌味かしらって皮肉を言いたくなるけど、あなたの言葉はそうは思わないわ」
だからあなたの言うとおり短所ですら玉に瑕と言ってくれる人を探すと笑う彼女に頷くと、急に呼び出しておいて悪いがリオンの面接が終わったそうだから今日は帰ると告げるとリアも頷いて立ち上がる。
「ウーヴェ、再開までに準備をする事があれば遠慮無く言ってね」
「ああ、助かる。また急に連絡するかも知れないけど来てもらえると嬉しい」
今日の目的の一つを達成した二人が安堵に顔を綻ばせ、準備を含めてまた再開する暁にはよろしくお願いしますとリアが頭を下げ、ウーヴェもしっかりとそれに頷くと、気をつけて帰ってくれと彼女の身を案じる言葉を伝えて頬にキスをする。
「ありがとう。気をつけて帰るわ」
「ああ」
再開された日の朝、今までのようにおはようと笑って言えるようにしましょうと約束をしたリアは、ウーヴェの頬に同じようにキスを返した後、入ってきた時とはまったく違う明るさの増した顔で両開きのドアを開けて出ていくのだった。
颯爽とした背中に心から安堵した顔で彼女を見送ったウーヴェは一人きりになったクリニックを見回し、念のためにドアの鍵を内側から掛けてステッキを頼りに痛めた左足を引き摺りながら診察室のプレートが掲げられたドアを開く。
一人掛けのソファやウーヴェのデスク、窓際の来客用のチェアなどには埃よけの布が被せられていて、次に彼女が来てくれた時にはそれらを外して軽く掃除をしようと決め、デスクの布に手をつくと自然と溜息が零れ落ちてしまう。
待合室から診察室へと以前ならば何の苦労も無く行き来できていたが、ステッキが無ければ酷く疲れる作業になってしまった事に微苦笑し、仕方がない事だと天井を見上げるが、自分たちを不幸のどん底に陥れるだけでは無く命まで奪ったお前に楽などさせるものかと端正な見た目とは裏腹な冷酷な声が過去の扉の隙間から嘲笑してくる。
「……!!」
入院している時に見舞いに来てくれたアイヒェンドルフが犯人達の幸せを奪ったわけでは無いと諭してくれたのを糧に、不幸のどん底に陥れたのは俺では無い、お前達自身の行為の結果だとどこかで響く声に強く返したウーヴェは、ぴたりと声が止まった事に気付いて深呼吸を一つする。
「俺が、幸せを奪ったんじゃ、ない。もともと、それは……お前達の幸せじゃ、無かったんだ」
病院でも言ったように、太陽が、あいつが選んでくれたのは俺とこれから生きていく道だとも告げて頭を一つ振ると、だからどれほど文句を言われても絶対に譲るつもりは無いと強く呟き、右手薬指でひっそりと煌めくリングを指で撫でる。
それを境に聞こえていた声が小さくなり、もう大丈夫と溜息をついたウーヴェは、リオンがここに到着するまでにもう少し時間が掛かるだろうと予測すると、一人掛けのソファの布を取り払って腰を下ろして頬杖をつき、二重窓の向こうに広がる初秋の空をぼんやりと何も考える事無く見つめ続けるのだった。
どのくらいソファでぼんやりしていたのかは分からないが外界との接触を断つなと言うように響く映画音楽のおかげで我に返り、慌ててスマホを取り出す。
『……本でも読んでたのかよ、オーヴェ?』
「あ、ああ、いや、そうじゃない……」
聞こえてくる声の低さから何度も電話を掛けていた事に気付き少しぼんやりしていたことを伝えて待たせた事を詫びたウーヴェは、今から駐車場に向かうからそこで待っていてくれと伝え、本当に迎えに行かなくて良いのかと問われて己の決意を示すように力強く頷く。
「ああ。待っていてくれ」
『分かった』
心配してくれてありがとうとキスとともに礼を伝えたあと、小さなキスが返ってくる。
それを受け取ったスマホをポケットに戻し、ソファに再度布を被せて診察室を後にする。
ステッキを供に戸締まりの確認をしたウーヴェは両開きのドアにぶら下がっている休診中の札を撫でて鍵を掛けると、エレベーターに乗るために廊下を進む。
地下駐車場まで直接行けるエレベーターだったが一階で降り立つとアパートの入口を肩越しに振り返った後決意を新たに拳を握り、あの時激痛の中で担ぎ上げられて運ばれた階段へと足を進める。
スタンガンで一時的に身体の自由を奪われてトーニオと呼ばれていた男に担ぎ上げられて階段を駐車場へと下っていったが、今は違う、己の意志で降りていくのだと強く思っているがいざそこに足を下ろした途端にステッキを握る手にじわりと汗が浮かび、しっかり支えられているはずの足が膝から震えだし、それが身体全体へと伝わっていく。
「……っ!!」
がくがくと震える足をステッキで支えることが難しく階段の手摺りを掴んで何とか身体を支え、大丈夫だ、もう事件は解決したのだと己に強く言い聞かせる。
だが一度覚えた恐怖を解消するにはその声は弱々しくて、顔中に汗を浮かべて荒い息を吐きながら手摺りに寄りかかっていると、脳裏に約束と小さくても力強さを持つ声が響き、徐々に大きくなると同時に身体の震えが少しずつ納まってくる。
「……やく、そく……」
脳裏に響く言葉を口に出し心だけでは無く身体にも響かせようと何度も呟いたウーヴェは、いつの間にか膝の震えが小刻みになり手摺りに縋るように身を寄せる必要が無くなった事に気付くと肺の中を空にするような呼吸を繰り返し、手摺りでは無く壁に寄りかかって階段裏を見上げる。
事件後、入院していたウーヴェに文字通り四六時中付き添っていたリオンが、まだ誘拐され監禁されているのではとウーヴェの心が不安に囚われて現実よりも過去を大きく感じている時、もうあいつらの言葉に耳を貸す必要は無い、俺だけの声を聞いていれば良いのだと何度も約束という言葉で教えてくれていたが、その言葉を思い出し過去の事件を閉じ込めている心の扉をしっかりと閉ざしたウーヴェは、もう一度大きく溜息を吐いて顔中に浮いた脂汗を先程はリアの涙を拭いたセーターの袖口で拭い、眼鏡をかけ直してステッキを握りしめる。
「……もう、大丈夫」
約束という言葉がもたらす強さとその先にいる太陽のような存在が傍にいるから大丈夫と誰に伝えるでも無く口にしたウーヴェは、ゆっくりゆっくりステッキをついて時間を掛けて階段を下っていく。
階段手摺りに身を寄せている時に駐車場から階段へと上がるドアへと目を向けていればそこに心配そうに見上げるリオンがいる事に気付いたのだが、己の恐怖と対面することに必死だったウーヴェはそれに気付かないのだった。