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車は滑るように霍家の邸宅へと向かっていた。
屋敷に着くと、霍家の執事がすぐに電話で喬三叔の家へ連絡し、「労働節で学校が休みになるので、葵小姐がしばらくこちらに泊まる」と伝えた。また、喬家の連絡先も丁寧に聞き出していた。
喬葵は霍家で風呂に入り、夕食を済ませると、すぐにベッドへと倒れ込んだ。丸一日の疲労が、身体を容赦なく包み込んでいた。
夜、夢の中でぼんやりと意識が浮上した瞬間、ベッドが軋む音がして、誰かがそっと入ってきた。大きな腕に引き寄せられ、温かな胸元へと抱きしめられる。
──懐かしい、清らかな石鹸の香りと、微かに漂う落ち着いた香り。
厚みのある胸板に頬を寄せると、心地よい体温が全身を包み込んでくる。額にそっとキスされた感覚に、喬葵は無意識に頬をすり寄せ、そのまま夢の深淵へと引き戻された。
───
翌日、昼近くになってようやく目を覚ますと、見慣れた部屋。隣にはもう誰もいなかった。
(こんなに寝坊しちゃった……)
喬葵は少し恥ずかしくなったが、今日は学校が休み。労働節は三連休で、初日に活動を行い、あとの二日は完全な休暇だった。
身支度を整えて庭に出ると、霍媽が掃除をしていた。
「喬小姐、お目覚めですか。朝ご飯の用意はもうできておりますので、どうぞお座りくださいな。」
言われるままに席に着くと、手際よく料理が運ばれてきた。どれも温かく、優しい味が身体に染み渡っていく。
食後に聞いた話では、霍震庭は朝早くに霍利明と出かけてしまったらしい。
───
夕食時になってようやく彼が帰宅した。
長椅子に腰かけて本を読んでいた喬葵は、力強い足音に顔を上げ、玄関へと視線を向けた。
姿を現した彼に向かって、蝶のように軽やかに駆け寄っていく。
「お帰りなさい!」
目を輝かせて見上げる喬葵に、霍震庭の口元が緩む。
「……ああ。」
今日の喬葵は、霍媽が用意してくれた淡い緑色のチャイナドレスを身に纏っていた。白く輝く肌に映えるその色合いが、彼女を一層華やかに見せている。
膝下まで伸びる裾、足元には白い真珠付きの小さな革靴──その姿はまさに、少女と淑女の狭間にいるようだった。
まだ幼さの残る顔立ちに、大人びた装い。細い腰をくねらせるその姿に、純真さと艶やかさが入り混じる。
女子学校へ通い、制服ばかりだった近年。こうして彼女の成長した姿を見ることは少なくなっていた。
(……本当に、綺麗になった。)
その柔らかな肌、くびれた腰、すらりとした脚線美──すべてが、彼の理性を試すように目の前にある。
思わず抱きしめ、壊してしまいたくなる衝動が、胸の奥で渦巻いた。
そこへ、霍媽がやって来て尋ねた。
「少爺、晩ご飯の支度が整いました。お召し上がりになりますか?」
今や家を取り仕切る立場となった霍震庭だが、彼女は昔のまま「少爺」と呼び続けていた。
彼は一瞬、衝動を胸に押し込め、静かに頷いた。
「……ああ。葵を連れて、行こう。」
二人は食卓へ向かい、静かに食事をとった。
───
夕食後、風呂を済ませた喬葵は、脱衣所で衣服をつかんだまま、なかなか動けずにいた。
(……また、あんなことに……なったら……)
ふとよぎるのは、あの夜の記憶。胸の鼓動が静まらない。
そのとき──
バサッ、と新聞を置く音と同時に、霍震庭が現れ、何の前触れもなく彼女を抱き上げた。
「きゃっ……!」
次の瞬間には、もうベッドの上。彼の身体が覆いかぶさってくる。
熱のこもった唇が、喬葵の唇に落ちた。
───
小さな身体は、未だに全てが敏感で、彼に触れられるたび、胸の奥まで震えてしまう。
初めて知った愛情も、ぬくもりも、すべてがこの人から。
そのキスに、無垢な瞳を閉じて、彼女はただ身を委ねた。
───
(……灯りが消える)
───
労働節が終わると、すぐにやってくるのは「五・四青年節」だった。
京城の高校では、毎年この日を記念し、様々な催しが開かれる。青年たちはボランティアや社会活動に参加し、「愛国・進歩・民主・科学」の理念を掲げる。
特に、京城女子学校の今年の記念行事は例年にも増して盛大だった。
早朝、生徒たちはスローガンの旗を手に行進し、市内を練り歩いた。
その後、校内最大の講堂では、有名な進歩的人物を招いての講演が行われた。
会場は学生と若者で満席となり、その熱気に包まれる。
「勇気を持って探求し、常識にとらわれず、思想を解放せよ。」
壇上から語られる言葉の一つひとつが、若者たちの心に火を灯していく。
講演に続き、生徒主導による愛国舞台劇や青年による演説大会が行われた。
そして最後には、男女ペアによるベートーヴェンの《交響曲第五番》の演奏。
情熱的な旋律が空気を震わせ、場内は圧倒的な感動で包まれた。
男生徒は白いシャツに西洋風のズボン、女生徒はシンプルな格子柄のスカート姿──その佇まいは清楚で、まるで舞台上の王子と姫のようだった。
演奏が始まると、肩に構えた洋式のヴァイオリンが優雅な動きを描き、陶酔した表情で弦を引く二人に、舞台はまるで光に包まれていた。
喬葵は客席からその姿を見つめ、羨望の念を抱いていた。
(……綺麗……)
女生徒は音楽科の才女・史璐瑶。今日のために化粧もばっちり決め、誰よりも輝いていた。
そして、隣で演奏する男性──隣校から招かれたであろう生徒は、まるで王子のような容貌。長めの髪を七三に分け、額を見せた清潔感のある美少年。繊細で上品な指先が、優雅に弓を操る。
曲が終わると、会場からは大きな拍手が沸き起こった。
───
演奏会のあと、学生たちは熱気冷めやらぬまま、街へと繰り出していく。
喬葵も方円ら数人の友人と一緒にカフェへ向かった。偶然にも、さきほどの演奏者である二人の姿を見かける。
「瑶瑶、一緒にお茶しようよ!」
友人のひとりが才女に声をかけた。真の目的は、あの王子様のような男子に近づくこと。
史璐瑶は一瞬、彼女たちを見回した後、喬葵の顔で少しだけ視線を止め、静かに頷いた。
彼女とともに座についた男子生徒は、笑顔を浮かべながら自己紹介する。
「こんにちは、徐千帆です。」
その礼儀正しく穏やかな態度に、場の空気が和んだ。
喬葵も思わず彼を見つめてしまう。まるで桃の花のような笑顔、細くしなやかな指、誰にでも分け隔てなく話しかける品の良さ。
ふと視線が合い、お互いに小さく微笑み合った。
──同じ年頃、同じ学び舎に通う者同士。言葉を交わすうち、自然と距離は近づいていくのだった。