「新谷」
篠崎は開いたパソコンのディスプレイを眺めながら、隣に座る部下に声を掛けた。
「何ですか?」
今しがた外から帰ってきたばかりの新谷は、11月の寒さに赤く凍える手を擦り合わせながら篠崎を振り返った。
「お前、今年中に受注取れなかったら、ペナルティだぞ」
「……チーン」
新谷は擦っていた手をそっと合わせて合掌し、目を閉じた。
新谷は新規獲得のチャンスである貴重な日曜日に休みを取って、千晶と他県の展示場周りをしてきてから、1ヶ月が経った今でもスランプを抜け出していなかった。
「ほらな、『他者を認め、それでも自社を勧める』ってのは、そんな簡単なことじゃねえんだよ」
もう落ち込むどころか諦めの境地に至っている部下の頭をはたく。
「お前は他社なんか顧みず、セゾンのことだけ信じて突っ走ってた時の方が売れてたよ」
「……もう遅いっす」
新谷は本来大きいはずの目を細めながら、自らのパソコンも開いた。
そこには管理者である篠崎と同じく、ペナルティまでのカウントダウンを示す赤い文字が躍っている。
「うぐあああああああ」
言葉にならない唸り声を上げながら新谷がキーボードに突っ伏し、パソコンから耳に痛いエラー音が鳴る。
「ペナルティになると接客数も減るしますます受注取れなくなるから、何とかして1棟決めなきゃ!新谷君」
渡辺も向かい側の席から忠告している。
「ほら、ペナルティの抜け出し方なら林君に聞いたら?彼何回も生還してるから」
「アホか」
さすがに突っ込みを入れる。
「万年ペナルティになってる営業マンの話の何が参考になるもんか。そもそもペナルティってのは、クビ一歩手前の緩衝材なんだぞ?そこに陥るなんて、恥だと思えよ」
「うぐふふふふふ」
新谷がまた変な声で唸っている。
その柔らかい髪を掴み上げてこちらを向かせる。
「いいか。他社を勉強しすぎるがあまり、どの家作りがいいのかよくわかんなくなってるのはわかる。それでもブレずにセゾンがいいと言い切るには、お前、他社メーカーの勉強の10倍はセゾンの勉強をしろよ」
「しましたよ……。資料という資料を読み、カタログも破れるまで読みましたよ……」
新谷が目に涙を溜める。
その情けない顔を見ていたら、先日紫雨が言った、『新谷は意外とゲイにはモテない』という言葉の意味が分かるような気がした。
「……家がいいか悪いかの本当の答えは誰が持ってる」
「え」
不意を突いた質問に新谷の顔が固まる。
「………社長?」
「んなわけあるか。あんなメディア向けの狸親父が」
「篠崎さん、マネージャーとして今の発言はどうかと……」
渡辺が苦笑する。
「………開発部の皆さん?」
「それは答えじゃないだろ。彼らが良い家作りに挑戦してるんだから。言うならば『こんな家作りはどうですか?』とキューを出すサイドだ」
「………」
新谷は考え込んでいる。
「アンサーを出すのは誰だよ?」
「……お客様」
「そ」
篠崎は新谷の後ろにあるキャビネットを開け放った。
「お前が3年間で売った客の24件、全員にアポを取って住み心地を聞いてこい!」
「……え」
新谷が口を開けながらキャビネットを振り返った。
「そんな、時庭や天賀谷のお客様もいるのに?」
「当然!もうすぐ3年点検の時期だろ。点検にかこつけて行って来いよ。どうぜお前、アプローチ上手くいってないんだから、アポもなく、打ち合わせもなく、平日暇だろ。時間を好きに使っていいから、今月中に全部回って来い」
「…………」
新谷はもう一度キャビネットを振り返って、その名前一つ一つを見つめた。
そして篠崎に視線を戻すと、やっとマシな顔をして大きく頷いた。
◇◇◇◇
一度マンションに帰り、宿泊セットを準備してきた新谷は、どこか吹っ切れた顔をしながら時庭市に向けて出発した。
「いいかもしれないですね。既存のお客様周り」
渡辺は太い身体のせいできつそうに腕組みをした後、椅子をしならせながら座り直した。
「ああ。あいつに今一番欲しい言葉を掛けてくれるのは既存客だろ」
「なるほど」
「どうしてセゾンを選んだか。セゾンの家作りの何が響いたか。住んでみて実際どうだったか。それと共に……」
篠崎は無人となった隣のデスクを見下ろして目を細めた。
「なぜ新谷を選んだのかも、きっと言ってくれる」
渡辺は厳しいように見えて、いつも新谷のことを考えている篠崎を見上げた。
「今のあいつに必要なのは知識じゃねえ。自信だ」
「そうですね」
渡辺は新人たちがこちらの話を聞いていないのを確認しつつ、口の両端に手を添えて囁いた。
「でも新谷君がいないと、篠崎さん、寂しいんじゃないですか?」
「はは。バーカ」
篠崎はため息をついて、手帳を開いた。
「ちょっと俺の方も、あいつを構えなくなりそうなんでな」
鈴原夏希(すずばらなつき)。
その文字と朝から晩まで下に伸びる矢印を見て、篠崎はため息をついた。
「あ、もしかして、東田(ひがしだ)夫婦ですか?」
渡辺が眉間に皺を寄せる。
「いや、先週離婚が成立して、今は鈴原さんだ」
「へえ。それはそれは……おめでとうございますというか、ご愁傷様ですというか……」
渡辺がブルブルッと肩を震わせて見せる。
「一度の浮気が人生を狂わせることもあるんですね…。くわばらくわばら」
篠崎はデスクに肘をついて、手帳を見つめた。
「バレたのが一度だってだけだろ。どうせバレるまで何十回とヤッてんだよ」
「……それは経験談で?」
渡辺が上目遣いに見つめてくる。
「アホか」
篠崎は曇りガラスの向こう側にある空を仰いだ。
「浮気なんて最初のうちはバレないように細心の注意を払ってするだろうから、バレる頃にはズブズブなんだろうなって思っただけだよ」
「そういうもんすかね……」
言いながら渡辺は両手を翳すと、キーボードを叩き出した。
篠崎は再度手帳の名前に目を落とすと、盛大なため息をついた。
インターホンを鳴らすと、応答がある前に玄関のドアが薄く開いた。
中から小さい顔が覗く。
鈴原夏希はこちらを確認すると、ホッとしたように息をついた。
「篠崎さん。お忙しいのにすみません。どうぞ、中へ」
言いながら玄関マットの上に真新しいスリッパを並べる。
去年引き渡し後の1ヶ月点検の時にそれをニコニコと並べた彼女とは、まるで別人のように意気消沈してしまった夏希に軽くお辞儀をしながら框に上がった。
「葵(あおい)が寝てるのでこちらでもいいですか?」
言いながら客間の前を通り過ぎ、リビングに通される。
「…………」
そこには干した後、たたんでないままの洗濯物が無造作に積み重ねられ、昨日の夜だか今日の朝だかわからないが、葵が食べたと思われるピンク色の茶碗と、星柄のお椀がダイニングテーブルに置きっぱなしになっている。
クッキーだかビスケットだかの粉が散らばるローテーブルの上を、夏希は慌てて乾ききった布巾で拭きとると、ため息とともにドスンと腰を下ろした。
「すみません。散らかってて」
篠崎は隣に腰かけると、
「いえいえ、全く」
と言いながら書類の入ったクリアファイルを広げた。
「……篠崎さんの家は、奥様が綺麗に片づけているんでしょうね」
少し自嘲気味に笑った夏希の顔は、ここ数週間で急激に老け込んでしまったように見えた。
24歳。
展示場に初めて来たときは、まだ21歳だった。
生まれたばかりの葵を抱っこし、自動ドアから現れた彼女は、金髪にパーマをかけていて、一緒に来たいかにも抜けてそうな学生のように幼い顔の旦那と合わせて「セゾンの客じゃない」と篠崎は思ったものだ。
しかしよくよく話を聞いてみると旦那は大手制作会社の開発事業に関わっている技術者で、年間収入700万円を超えていた。
当時コンビニのパートをしていた彼女と合わせて、合算収入は800万円。
土地こそ持っていなかったものの、十分セゾンエスペースの客だった。
夏希は派手な見た目とは裏腹に、こちらの説明に素直にうなずき、口を開けて感心し、「すごっ」と愛嬌のある顔で笑って見せた。
他のメーカーもろくに見ず、親からの助言もなく、2人は独断かつ即決でセゾンエスペースと契約をした。
そして、旦那が24歳、妻が22歳の若い夫婦は、住宅メーカーの中でも高い部類に入るセゾンエスペースの45坪の家を、35年ローンで購入した。
引き渡しの際に撮影した記念写真は、今も篠崎のファイルの中に大切にしまってある。
抜けているが優しそうな主人と、気の強そうな金髪の妻、そして母親に似て、目がクリクリと大きい娘。
絵に描いたような幸せな3人だった。
それなのに――――。
「私は独身ですよ」
篠崎はファイルを広げながら、これからしなければいけない重い話にクッションを置くために言った。
「え、そうなんでしたっけ?ごめんなさい。てっきり結婚してるものだと…」
化粧をしていないが十分に大きい目が、篠崎を覗き込んだ。
華やかな印象こそないが、ノーメイクのおかげで24歳よりも若く見える。
「離婚したわけじゃないですよね?」
恐る恐るというようにこちらを見上げてくる。
「ええ、ずっと独身です」
『きっとこれからも…』という言葉を飲み込んで、篠崎は微笑んだ。
「そうなんだ。知らなかった…です」
夏希は笑った。
男性として魅力的な篠崎が、結婚しているか独身かというのは、自分自身が未婚だろうが既婚だろうが、気にしない女性はいない。
自分には関係のない世界にいる芸能人が、結婚した途端がっかりする感覚と似ているかもしれない。
2年前、篠崎に出会った夏希がそのことを気にしなかったのは、それだけ主人に夢中だったということだろう。
篠崎は、今回のことで壁から引きちぎったのであろう写真の切れ端と、朝日を浴びて光る無数の画びょうを見上げ、小さく息をついた。
俯いてしまった彼女に振るような気の利いた話題も思い浮かばず、篠崎は覚悟を決めて住宅ローンの書類をテーブルに並べた。
「この家ですが、元ご主人である東田さんと、鈴原さんの共同名義になっています。しかし土地の名義は東田さん、家の名義は夫婦連名であるものの、住宅ローンの負担割合は、東田さん9割の鈴原さん1割となっています」
話し始めると、夏希は薄く目を開けて、書類を見下ろした。
「離婚の際、財産分与は『基本的には等しく均等に』ということでしたね。
それでいくと正当な流れとしては、土地、建物ともに売り払い、それでローンを一括で返済します。もし金額が足りなければ、その借金分を二人で折半という形になります」
もう1枚取り出す。それは財産分与についての資料だ。
「でも土地と家だけは別物として考え、離婚の原因となった不貞行為をした東田さんが責任を取り、ローンを支払っていくという例もあります。しかしその場合、ローンの1割は鈴原さんが背負わなければいけないのと、35年という長いローンの中で、ご主人様が例えば再婚し、新しい家庭を築いたときに、そのローンを支払い続けてくれるという確約はありません」
言葉を重ねれば重ねるほど、夏希の目が細くなっていく。
「途中で支払いを東田さんが辞めてしまい、滞納が続いた場合、最悪の場合は銀行側に土地と建物双方を差し押さえられ、追い出されてしまう可能性もあります」
ついに夏希の瞼が閉じられた。
「東田さんとは土地建物についての話し合いはされましたか?」
「“夏希はどうしたい?”って聞かれています。“ローンなら俺が払うから”って」
「…………」
篠崎は閉口した。
今は確かにそう言うかもしれない。
浮気したとはいえ愛していた妻だ。可愛い盛りの娘もいる。
二人の幸せを願って不貞行為をしてしまった自分が、一生住むことのないであろう家のローンを払い続けていく。
その決心は硬いのかもしれない。
……しかし、人は変わる。
35年もあれば。
東田もまだ24歳だ。これから異性に限らずともたくさんの出会いと別れを繰り返し、経験を積み重ねていく過程で、考えや価値観が変わることなどいくらでもありうる。
その際に路頭に迷い、絶望するのは若きシングルマザーの夏希とまだ2歳の葵なのだ。
しかしそれについて篠崎はアドバイスこそすれ、強制する力はない。
それどころか、家の話しかしていない単なるハウスメーカーの営業が、他人の人生の大きな岐路に口を挟むことなど到底できない。
「もう少し………考えてみます」
そう。時間はある。
東田がまだ、夏希に対し負い目を感じており、住宅ローンを払い続けている間は……。
しかし選択は早ければ早い方がいい。
土地の価値は下がらなくても、住宅の価値は年々下がっていく。
葵はまだ小さい。歩けば転び、おもちゃを貰えば乱暴に遊び、壁にも床にも傷を作る。
篠崎は言いたい言葉を全て飲み込んで立ち上がった。
「その決断によって処々の手続きを行いますので、結論がでたら教えてください。私もできる限りのことは………」
「どうして」
夏希が俯いたまま呟いた。
「どうして、篠崎さんは独身なんですか?そんなにいい男、女が放っておくわけないのに」
歯に衣着せぬ言い方にいささか驚きながら返答に困った。
恋人と同棲しているなんて話をしたら、今この世で自分が一番不幸だと思っているような夏希にはいい影響を与えないような気がする。
その相手が男でも女でも―――。
「なんででしょうね。別にしたくないわけでもないんですけど」
他の客に言うのと同じように、篠崎はその言葉を軽く口にした。
その言葉を、のちに後悔することになるとは、この時は微塵も思わなかった。
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