テラーノベル
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深い夜の底で、二人の輪郭はあいまいに溶け合っていた。
わずかに開いた窓から忍び込む夜風が、火照った肌をなぞり、カーテンをさらさらと微かな音で揺らしている。
街の喧騒は遠く、この部屋だけが世界の全てであるかのような、静謐な時間が流れていた。
かちり。
暗がりに小さな火花が散り、中原中也の指先でライターの火が灯った。
細く、けれど力強い光が、彼の端正な横顔を赤く染める。
中也は慣れた手つきで煙草を咥え、深く肺に煙を吸い込んだ。
ふう、と。
紫煙が吐き出され、薄闇の中に白い帯を描く。
その煙の行方を追うようにして、隣に横たわっていた太宰治が身をもたげた。
太宰の指が、中也の鎖骨のあたりに残る赤い痕を、愛おしそうになぞる。
「……中也。また煙草?」
少しだけ掠れた、甘い声。
中也は煙草を指に挟んだまま、太宰の方を向かずに鼻で笑った。
「悪かったな。おまえが散々動かすから、一息つきたくなったんだよ」
「動かしたのはお互い様だろう? 君だって、私の背中にあんなに爪を立てていたじゃないか」
「……うるせえよ」
中也の頬が、夜の闇に紛れて赤く染まる。
太宰はその変化を見逃さず、くすくすと喉を鳴らして笑いながら、中也の肩に額を預けた。
この世界に、裏社会の抗争も、守るべき組織も、背負わされた宿命も存在しない。
ただ、二十二歳の青年として出会い、反発し合いながらも、気づけば隣にいるのが当たり前になっていた二人。
共通の趣味を語り、時には些細なことで言い争い、そして夜にはこうして同じベッドで体温を分かち合う。
そんな、誰もが享受していいはずの「普通」の幸福が、ここにはあった。
「中也。さっきの、すごく良かったよ」
「……何がだよ」
「全部。君が私を求めてくれる時の、あの熱。指先から伝わってくる、焦れるような鼓動。……私たちが、本当の意味で一つに溶け合っていると感じる瞬間」
太宰の手が、中也の腕を滑り降りて、煙草を持っていない方の手と指を絡めた。
どちらが先で、どちらが後か。そんな区別に意味はない。
互いの肌を貪り、愛撫を返し、溢れる吐息を接吻で塞ぎ合う。
その連鎖の中で、攻めも受けも、主体も客体も消失していく。
あるのはただ、太宰治という存在と中原中也という存在が、不可分なほどに混ざり合っているという事実だけだ。
「……おまえ、そういうことを恥ずかしげもなく言えるよな」
「事実だからね。私は嘘をつかないよ。特に、想い人には」
太宰は絡めた指に力を込め、中也の手の甲に優しく唇を寄せた。
柔らかな音が響く。
中也は観念したように息を吐き、灰皿に煙草を押し付けた。
じゅう、という微かな消火の音とともに、部屋は再び二人の体温だけが支配する空間に戻る。
「……太宰」
「なあに」
「俺も、……悪くなかった。おまえに触れられてると、自分が自分だってことが、やっとわかる気がする」
中也が身体を反転させ、太宰の胸に顔を埋めた。
太宰はそれを温かく迎え入れ、中也の豊かな髪をゆっくりと梳く。
「中也は、たまにとても心細そうな顔をするね。まるで、自分がどこにも属していないみたいに。でも大丈夫。君がどこにいたって、私が君を繋ぎ止めてあげる。私が君の、確かな場所になるよ」
「……おまえだって、似たようなもんだろ。一人でどっか遠くに行っちまいそうな目をしやがって。だからこうして、捕まえてんだよ」
中也の手が、太宰の腰を強く抱きしめる。
太宰の身体に刻まれた、中也だけの愛の証。
二人は、互いを繋ぎ止めるための楔だった。
激しい情愛も、静かな慈しみも、全ては「あなたがいなければ、私は私でいられない」という切実な願いの表れだ。
「ねえ、中也。少し外の空気を吸わないかい? 冷たい風が、今の私たちには心地いいはずだ」
「……ああ。いいぜ」
二人は裸のまま、ベッドから這い出して、薄いシーツを肩から羽織った。
一つの布に包まり、寄り添いながらベランダへ続く窓を開ける。
さら、
夜風が部屋に流れ込み、火照った肌を優しく冷やしていく。
見上げる夜空には、都会の明かりに負けじと輝く星がいくつか瞬いていた。
「綺麗だね、中也」
「……そうだな。おまえと見てるからかもしれねえけどよ」
「おや、中也からそんなデレた台詞が聞けるなんて。明日は雪でも降るかな?」
「うるせえ。……本音を言って何が悪いんだよ」
中也は少し不機嫌そうに口を尖らせたが、その視線は優しく太宰を見つめていた。
夏穂
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太宰は、シーツの下で中也の細い腰を引き寄せ、耳元に顔を近づける。
「中也。私は、明日が来るのが楽しみなんだ。君と朝食を食べて、君が仕事に行くのを送り出して、また夜にここで会う。そんな当たり前の繰り返しが、今の私には何よりも贅沢に思える」
「……当たり前、か。そうだな。俺も、おまえが淹れる不味いコーヒーを飲むのが、案外嫌いじゃねえよ」
「不味いなんて、ひどいなあ。愛情という隠し味が入っているのに」
「それが余計なんだよ」
軽口を叩き合いながらも、二人の手は固く握られたままだ。
この穏やかな平和は、誰に与えられたものでもない。
二人が自分たちの手で選び、育んできた時間だ。
「……太宰。そろそろ戻ろうぜ。風が冷たくなってきた」
「そうだね。中也が風邪を引いたら大変だ。私が温めてあげないと」
窓を閉め、再び暗がりのベッドへと戻る。
ぱさ、と。 シーツを脱ぎ捨て、再び肌と肌が密着する。
「あ、……温かい」
「……おまえが冷たすぎるんだよ」
どちらからともなく唇を重ねた。
先ほどまでの激しい交わりの余韻を残しながらも、今はただ、互いの存在を確認し合うような、深く、長い接吻。
太宰の指が中也の背中を下り、中也の指が太宰のうなじを愛撫する。
汗ばんだ肌が擦れ合い、快楽の波が静かに、けれど確実に二人を飲み込んでいく。
今、どちらが求めているのか、どちらが与えているのか。
そんな境界線は、もうどこにも存在しなかった。
二人の身体は、一つの大きな熱の塊となって、夜の海を漂っている。
「……太宰、好きだ。愛してる」
「私もだよ、中也。君なしでは、もう息もできない」
溢れ出す言葉は、そのまま熱い吐息となって消えていく。
やがて、二人の動きはゆっくりと止まり、静かな充足感が部屋を満たした。
太宰の胸に顔を預け、中也が規則正しい寝息を立て始める。
太宰はその愛おしい重みを感じながら、中也の額にそっと唇を触れさせた。
「おやすみ、中也。良い夢を」
深い眠りへと落ちていく中也の隣で、太宰もまた、穏やかな眠りに誘われていく。
明日になれば、また新しい一日が始まる。
ただの太宰治と、ただの中原中也として。
愛し合い、ぶつかり合い、共に生きていく、終わりなき日常。
窓の外では、夜明けを告げる微かな光が、世界を青く染め始めていた。
けれど、二人はまだ、夢と現実の狭間で、互いの温もりを抱きしめ続けている。
この幸せな時間が、永遠に続くと信じながら。
ふわ。
最後に重なった深い溜息が、夜の帳をそっと押し広げた。
ふたりの鼓動は、今日も同じリズムを刻みながら、静かに、けれど力強く、未来へと続いていく。
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