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「座ったままで、立って移動しなくていいんですね」

「うん、最近導入したんだけど、とっても好評でね」


椅子の動きが止まり、高く上がった後、ゆっくり背が倒れていく。

最終的には、ほとんどフラットな状態になった。


「じゃあ、はじめるから」

突然、耳のそばで声がして、そのとたん、心拍数がはね上がる。


顔の上にタオルが優しくかぶせられる。

ただ、ふわりと目の上に置かれているだけなのに、視界が遮られたことでそれ以外の感覚が敏感になってゆく気がする。


すぐにシャワーが水音を響かせ、額から濡らされてゆく。


メイクをされたときもドキドキしたけれど、シャンプーのほうがさらに接近感が半端ない。

今、心電図を取ったら、確実に再検査になりそうだ。


シャワーが止まり、棚の扉の開く音がする。


絶え間なく流れていた水音がなくなると、とたんに心配になった。

玲伊さんがこの心音に気付いてしまうのではないかと。


続いて、柑橘系のすっとした香りが立ち上り、鼻腔をくすぐった。


嗅いだとたん、気持ちが落ち着くような心地よい香り。

ドラックストアの安売りで買ったシャンプーの人工的な香りとは、まるっきり別物だ。


額の少し上に冷たさを感じ、瞬間、ぴくっと体を震わせた。


「ごめん、冷たかった?」

「ううん、大丈夫です」

タオルが落ちないように、わたしはそっと首を振る。


シャンプーが泡立てられはじめ、「力加減は?」とか、「お湯の温度大丈夫?」とか聞かれるたびに「はい、大丈夫です」と答えるけれど、その声が上ずっていないか、心配になってしまう。


早く終わってほしいような、ほしくないような。

そんな気持ちがわたしのなかで交錯していた。


でも,絶妙な力加減で施されるヘッドスパは、最高に気持ちが良かった。


今日一日の疲れが、すべて抜けていった気がした。

施術前は少し頭が痛かったのに、終わった後はすっかり治っていた。


そのあと、髪をお湯に浸したまま、トリートメント。


ブローまで入れると小一時間、ゆったりとした音楽が流れるなか、玲伊さんとふたりきりの贅沢な時間は過ぎていった。

これが今日限りじゃなくてしばらく続くなんて知られたら、世間に|数多《あまた》存在する、玲伊さんファンの恨みを買いそうだ。


ドライヤーで乾かし終わると、玲伊さんはわたしの髪を手に取って、ちょっと眉をしかめた。


「うーん、やっぱり一日おきにトリートメントや頭皮マッサージをする必要があるし、週一でオイルパックもしないと。ヘア専門のパーツモデルができるクオリティまで持っていきたいからね。ちょっと大変だけど頼むよ。中途半端な施術はしたくないから」


「わかりました」


玲伊さんはわたしのケープを外してくれた。


「でも思ったよりもすぐに良い結果が出せそうだ。優ちゃんは性格だけじゃなくて髪も素直で助かるよ」


「髪はわかりませんが……性格はぜんぜん素直じゃないです」

「いや、そんなことはない。素直で正直で真面目だよ、優ちゃんは」

そう言って、玲伊さんはにっこり微笑んだ。


セット椅子から降り、わたしは「ありがとうございました」と頭を下げた。


「どういたしまして。さてと、これからすぐ、海外とのリモート会議があってね」


サロンを出ると、玲伊さんは先に立って歩き、エレベーターホールまで送ってくれた。


「店まで送っていけなくてごめんな」

「そんな……大丈夫です。まだそんな遅くないし、目と鼻の先ですから」

「でも、夜には違いないんだから、気をつけて帰れよ」


じゃあ、またな、とハグしようとしてきた玲伊さんを、わたしは慌てて手を前に出して制した。


「ん?」

「あの……できればハグはなしで」


わたしは頭を下げてお願いした。

顔を上げると、玲伊さんはちょっと眉を寄せている。


「俺にハグされるのは嫌?」


そんなストレートに聞かれると困るんだけど。


わたしは首を振った。

「嫌じゃないんですけど」

「けど?」


そんな風に見つめないでほしい。


正直に、好きな人にハグされるのが辛い、と言うわけにもいかないし。

わたしは一生懸命、言葉を探した。


「この間のお話で、ハグに効用があるのはわかりました。でも、わたし……男の人にハグされたの初めてで、ドキドキしすぎて、夜、よく眠れなくなっちゃって」


嘘ではない。本当にそうだったのだ。


玲伊さんは一瞬、目を丸くして、それから、痛みをこらえるときのように額に手を当て、そのまましばらくじっとしていた。




もつれた心、ほどいてあげる~カリスマ美容師御曹司の甘美な溺愛レッスン

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