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父の執務室へ向かう途中、ナーシャはリリアに|出会《でくわ》した。今日もナーシャを置き去りにして勝手に帰ったリリア。 もう家を出ることを決めているナーシャは、必要以上にリリアと話をしたくない。それでも、家のだれに認めてもらえなくとも、自分はオリジエル侯爵家の長女だ。顔を伏せるつもりはなく、毅然と前を向いて歩いた。
その姿が気に食わないリリア。彼女はナーシャが、家の中でも外でも、縮こまって小さくなっている事をいつも望んでいたようだったから、ナーシャを貶める為に、案の定すれ違いざまに芝居が始まった。
「酷い!お義姉様!」
リリアは突然声を上げ、よろける演技で床に倒れ込んだ。
ただすれ違っただけで、何が酷いのか。彼女の意図を充分に理解した上で、ナーシャとセリナはリリアには目もくれない。声もかけずにそのまま無視して進んでいると、案の定目の前の扉が開いた。
父の執務室の扉だ。
態々、こんなに近くでリリアが芝居を始めた意図など、少し考えれば誰でも分かる。
「どうした?」
その声にナーシャは驚いた。扉を開けたのが父スティーブだったからだ。いつもなら家令か執事の仕事だ。そして通常なら、床に倒れるリリアを見かけた彼等が、彼女を助け起こしに行くはずだった。
「リリア?」
「お父様!」
いつもと違いかけられた声が父だと分かったリリアは、勢い良く立ち上がり父の方へ駆けてゆく。その後ろ姿をナーシャは感情を映さない瞳で見つめた。リリアはきっとしてやったりと思っている事だろう。
父に抱きつくリリア。リリアの背中を優しくトントンと慰めるように撫でる父。ナーシャは、その姿も黙って見つめていた。
だが、いつもと違う事がその時起きた。
二人がいたのは執務室の前で、扉は開いたままだった。
そこから誰かがこちらを覗いたのだ。
父の背後から顔を出したその人に、ナーシャは見覚えはなかったが、何だか懐かしさを感じた。
見知らぬ紳士が執務室から出てきたのだから、客人ではないかと直ぐに察したナーシャだったが、まだ紹介もされていないのに声をかける訳にも行かない。
胸に手を当て、反対側の手で軽く制服のスカートを摘み、少し傾げる程に頭を下げる。略式の礼をすると見知らぬ紳士は頷いてくれた。
そして父に抱きつくリリアを見てから、徐にナーシャに問いかけた。
「君がリリア嬢か?」
「いえ違います。ご挨拶が遅れました、初めましてナーシャ・オリジエルです」
「ほぅ!」
紳士はナーシャの名乗りに、驚いたように声を上げて、それから再び父とリリアの姿を捉えた。ナーシャには、その姿が何だか態とらしく感じられた。
「なるほど、なるほど」
「閣下!」
紳士の声に、何かを察したスティーブが慌てて紳士に声をかけた。
「いや、もう結構。状況は把握した、従兄弟殿」
その言葉で、ナーシャは彼がルオン公爵閣下であると理解した。そして彼が何故ここに訪れたのか、それはナーシャの手紙を読んでくれた事を意味している。
「では、私は帰るとしよう」
「なっ!閣下!いやルース!」
「悪いが私も忙しいんだ。もう目的は果たしたから帰るよ。スティーブ引き止めてくれるな」
胸にリリアを抱きしめている父が、呆然としている横を通り抜け、ルオン公爵はナーシャに近づいてくる。
相手の素性が分かったのだ。ナーシャは敬意を持ってカーテシーをした。
そのナーシャの肩をトントンと軽く2回叩いて、ルオン公爵は「また」と小声で声を掛けその場を後にした。
リリアを振りほどき、ナーシャの前を素通りして、ルオン公爵を慌てて追いかける父の後ろ姿が、ナーシャにはとても小さく映った。
(公爵様が自ら動いてくれた)
疎遠になった従兄弟の娘の手紙を読み、直ぐに駆け付けてくれたいとこ伯父。家族の誰からも顧みられず、久しく優しさをもらえなかったナーシャの心に温かい物が広がった。
◇◇◇
その日の夜、珍しく夕食の席にナーシャも呼ばれた。本当は同じ席に着きたくはなかった。一緒に食べたところで、食事の味がするとは思えなかったからだ。
食堂に行くと既に父もリリアも席に着いていた。
「遅いぞ」
席に座ったまま腕組みをしてこちらを睨む父親に、ナーシャは何も感じなかった。
おそらく数日前までのナーシャなら、傷ついたかもしれない態度だし、食事を待っていてくれた事に胸が熱くなったかもしれない。だけど今はもう何も感じない。
「数分前に知らされましたので」
ナーシャのその言葉に父は目を瞠った。
その驚き方にナーシャは少し訝しんだ。
ナーシャはその父の驚きが、自分が直ぐに謝らなかったからだと感じたが、全く申し訳ないとは思えなくて、それ以上言葉を発することはなく黙って席に着いた。
その一連の動作を見たリリアが声を上げる。
「お義姉様!こんなに私達を待たせたのに謝罪もないの?そんなに傲慢だから、ローラン様だって心移りなさるのよ!」
「⋯⋯」
「何とか仰ったら!」
「ローラン様との婚約解消は、心移りが原因でしたのね。知りませんでした」
向かいに座るリリアに、真っ直ぐに目を向けて言ったナーシャの言葉に、リリアが気不味そうにその目を逸した。
本当はそんな事はナーシャも知っていた。でも父からは、ただリリアに変更になったとしか聞かされていない。婚約解消を随分前から視野に入れていたナーシャは、理由を詳しく聞くこともなかったし、詳しい説明も受けていなかった。
だから、態と言った。
これが嘘でも本当でも、社交界に広まればナーシャの醜聞になるが、リリアの醜聞にもなる。諸刃の剣という事に、ナーシャの言葉とその毅然とした態度で、漸くリリアは気付いたのだ。
心移りが原因ならば、新たに婚約した二人の方が悪くなる。今の社交界は、一昔前に流行った『真実の愛』などと云う幻想に惑わされることはない。
今そんな事を言えば、頭の中に花畑が広がる愚か者という烙印を捺されるだけなのだ。
だからローランとナーシャの婚約の解消は、双方の《《家の都合》》でなければならなかった。
コメント
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ああ、第8話読み終えたよ…😌 ルオン公爵がナーシャの肩をトントンって叩いて「また」って言ったところ、すごく好きだな。あの短い仕草に、ちゃんと味方になってくれる大人がいるって安心感が詰まってた。それまでずっとひとりで戦ってたナーシャの心に、初めて温かいものが広がった描写、じんときたよ。 リリアと父への態度も変わってきたナーシャ。もう傷つかないって言い切れる強さ、かっこよかった。続き、すごく気になる…!