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「じゃあ、行ってきます」
「うん。気をつけてね」
食事を終えてひと段落した後、光貴がラジオ収録へ行く時間になったので玄関先で手を振り彼を見送った。
現在午後八時半。後少しで博人が迎えにきてくれる。そうしたらここでの生活はもうお終い。さっき交わした挨拶が光貴との最後。
もう、会うことはないだろう。
二階のリビングへ急いだ。予めもらっておいた離婚届の片方をすべて埋めた。光貴を想う涙も出ない。鬼畜の所業だと思った。
光貴が私に贈ってくれた結婚指輪を外して、離婚届の上に置いた。
その後、光貴に心を込めて手紙を書いた。
自己満足かもしれないが、書かずにはいられなかった。
彼をこれ以上苦しめる存在になりたくない一心で。
光貴に宛てた手紙は空色の便せんを使った。引っ越しで片づけた時、白斗のために書いて送っていたファンレターの便せんだ。光貴が私のために、いつも入荷しておいてくれた想い出の便せんだった。
手紙を書き終え、離婚届の傍に添えた。
見ると時計の針は午後九時を指していた。まだ時間があるので最後に家を見ておこうと階段を上がった。まずは三階から。
三階はお気に入りの赤いソファーが廊下の一番奥に佇んでいる。美しく、芸術的センスが光る空間を見ると、いつでも誇らしい気持ちになる。
一目惚れで買ったソファーに腰を下ろしてみた。お揃いのクッションをぎゅっと抱きしめる。
昨日はここで博人と淫らに踊った――
考えるだけで胸が熱くなった。
他にも想い出を見るために、子供用の寝室へ向かった。急遽プランに入れてもらったにも関わらず、想像以上にいい空間になっている。以前ここに組み立ててあった実母がプレゼントしてくれたベビーベッドは知り合いに譲ったから、子供部屋はがらんとしていた。
詩音のために買ったものは、辛く苦しい想い出になるのが嫌で私が全て処分したから。
詩音のことを想い出しても涙が出なくなった。もちろん今も悲しいしけれど、なにも手につかないほど泣かなくても生きて行けるようになった。
そっと扉を閉めて隣の寝室に行った。今朝、ここで光貴に愛された。
光貴からの初めての言葉、初めての愛。ずっと欲しがっていて、嬉しいはずなのに、私はもう喜ぶことができなくなってしまった。
詩音に不幸があってからは、特にこの部屋で毎日白い華を聴いていた。
決定的にすれ違ったのは、今思い出してもあの時だと思う。様々、不運が重なってしまった。詩音のこと、なりふり構わず頼れば良かったのかな。
でも、そうすると確実にデビューライブで光貴はギターが弾けなくて、悲惨な末路を辿っていた。サファイアの成功は無かったと思う。今の光貴も、メンバーの活躍もなかっただろう。
光貴が加入したサファイアは、すごく人気が上がっている。それはほんとうに喜ばしいことで、私の自慢でもあった。どうか、もっと活躍して欲しい。私では見せることができなかった光貴の夢を、高みを、その手に掴むために。
この部屋にお別れをするように、白い華を歌った。