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再び扉を閉め、光貴の部屋は開けずに二階へ降りた。
リビング、ダイニングキッチン、お風呂…カタログを見ながらどれにしようか、と光貴と一緒に悩んだ。博人――その時は新藤さんだったな――にも手伝ってもらって、色々考えて作った空間。ひとつひとつに想い出が詰まっている。
一階に降りた。光貴の音響ルームは完全に個人のスタジオみたいな造りになっていて、MarshallやJazz Chorus(JC) のギターアンプ、光貴がいちばん大切にしているJCのヘッドアンプ、ギター、他にもエフェクターなど、様々な機材が置いてある。どれも綺麗に手入れが施されていた。
ギターを持っている光貴は世界でいちばんかっこいい。
どうか、これからもたくさんの人の心を掴んで、その繊細で美しい調べを奏で続けて欲しい。
再び音響ルームの扉を閉め、私が使っている仕事用のデスクへ向かった。
作っておいた翻訳の原稿データは、預かった分まで全部完成させてある。それを詫びの文章と共に所長へ送った。
――諸事情で今後仕事のお手伝いができなくなりました、突然で大変な迷惑をかけてしまい、本当に申しわけありません。今まで大変お世話になりました、本当にありがとうございました。
たった一通のメールで退職を宣告して、不義理を働いてすみません。
直接謝りたかったけれど、できない現実に唇を噛みしめた。
まだ、少しだけ迷っている。ほんとうにこれでいいのか、と。
瞳を伏せていると、来客を告げるインターフォンが鳴り響いた。
壁時計を見ると午後九時半だった。待ち合わせにはまだ早いけれど、打ち上げを早く抜けるって言っていたから、博人がもう来たんだろう。
いよいよだ。得も言えぬ罪悪感や背徳感、様々なものが胸中で混ざり溢れた。
光貴を捨てていくという非道な行為に現実感が伴った。
怖い。どうしよう。でも、博人と約束したから。地獄でもついて行く、と。
覚悟を決めよう。
急いで玄関に向かって電子キーを開錠した。いてもたってもいられないような精神状態だったので、博人に話かけながら玄関を開けた。
なにか喋っていないと、私の全身を押しつぶそうとする重圧に耐えきれそうになかったから。
「十時くらいって言ってたのに早かったね。言われた通り、荷物はなにも用意してないよ。いつでも出られる――」
光貴を裏切り、これから酷い目に遭わそうとしているのにも関わらず笑顔の裏に罪を隠していた私を、神が赦すはずがなかった。
然るべき時に、罰を下すつもりだったのだ。
「早かったねってどういう意味? 荷物って? 今から誰と、どこへ行くつもりなん?」
聞きなれた声なのに、驚く程渇いていて冷たい声だった。そんな彼の声を私は初めて聞いた。
今、私の目の前に立っているのは
待ち人の博人ではなく
深い海の底よりも暗く、冷めて色を失くした目をした光貴だった――