ナギからの最後の手紙をポストに投函してから数日、
アオイの日常は急に静まり返った。
ナギの絵に関するSNSの通知は本当に途絶え、ポストは空っぽだった。
まるで、時空を繋ぐ細い糸が、プツリと切れたかのようだった。
「終わったんだな…」
アオイはカウンターでコーヒーを淹れながら、独りごちた。
ナギを救えたという安堵と、彼との繋がりを失った寂しさが、アオイの心の中で複雑に混ざり合っていた。
文通が始まる前、アオイの時間は「停滞」していた。
都会での挫折から逃げ、この海猫軒で過去の傷を癒すことを諦めていた。
しかし、ナギのSOSは、アオイを強制的に「未来の証明」という役割に引き上げた。
未来の自分を肯定する言葉を誰もくれなかった過去の自分自身に、
ナギを通じて初めて「君は正しい」というエールを送ることができたのだ。
ナギの「灯台」のスケッチは、今、アオイの部屋のコルクボードに貼られていた。
その隣には、ナギが描いたすべての海の絵の写真が並んでいる。
(ナギ君は、新しい町で筆を握っているだろうか。あの孤独な海から、希望の灯台を見つけただろうか。)
アオイは、ナギがくれた最後の約束を反芻した。
「君の絵で、家族を救うことになる」。
この言葉は、ナギを励ますための言葉でありながら、
同時にアオイ自身が東京で感じた、「絵はご飯を食べさせられない」
という現実の冷たさを打ち破る、未来からの「反証」でもあった。
昼下がり、アオイはふと、東京での挫折以来、
一度も開いていなかったスケッチブックを戸棚の奥から取り出した。
開くと、完成することのなかったデザイン案や、走り書きのデッサンが残っている。
どれも、アオイが夢を追っていた頃の、熱量に満ちた痕跡だ。
「ナギ君は、私に『筆を離さないで』と言ってくれたんだ…」
ナギに「筆だけは絶対に手放さないこと」と約束させたアオイ自身が、
いつの間にか、自分の筆を折っていたことに気づいた。
ナギを救うことに必死だった日々が、アオイ自身の止まっていた時間を動かし始めていた。
アオイは、窓の外の穏やかな海をじっと見つめた。ナギが描いた荒れた海ではなく、今の、静かで光を反射する海だ。
(今の私なら、何を描くだろう?)
アオイは、新しい白いページを開き、鉛筆を握った。
久しぶりの、絵を描く前の、あの特有の緊張感。
それは、東京で挫折したとき感じた「恐怖」ではなく、
ナギの夢を肯定したことで得た「勇気」の感覚だった。
震える手で、アオイは新しいページに一本の線を描き始めた。
それは、海猫軒のカウンターから見える、穏やかな海と、その奥に立つ、小さな防波堤の姿だった。
その時、カランカランと、店のドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ!」
アオイが顔を上げると、そこに立っていたのは、
ナギの母、佐伯里美(さえきさとみ)だった。
数日前に、ナギの絵を隠していたことを電話で告白してきた、あの女性だ。
彼女の顔には、疲労と、まだ拭いきれない後悔の色が濃く滲んでいた。
里美は、静かにカウンターに近づくと、ナギとの引越しで使ったと思われる、
小さな段ボール箱を一つ、そっとカウンターに置いた。
「アオイさん…これ、ナギの部屋を掃除していたら、ベッドの下から出てきたんです。」
里美はそう言うと、力なく微笑んだ。
「最後に、ナギの代わりに、これをアオイさんに預けようと思って…」
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