テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
3. 口付けに
数か月前のことだったと思う。
ドラマの撮影、新曲の制作、ツアーの打ち合わせ。映画も公開とか何とか、なんだかすごくバタバタしていて、寝る時間がなくて、ある日のスタジオ入りの日、少しだけ早く到着して隅のソファで横になってた。
家に帰ると仕事のこととかこれから先のこととか、そういうことを考えてしまうことが多くて。
特に忙しい時や頭に考えなきゃいけないことが詰まってる時ほど、全く気が休まらない。
家に帰るとひとりだから、すごく孤独とも戦っているような気持ちになることもあって、そういう時は、家に帰っても眠れない日々が続く。
だから、こうして、気心の知れたスタッフや人の声が遠めにするところで、寝具ではないソファや椅子で、横になる時の方が余程眠れたから。
そういう事情もきちんと知ってくれているスタッフさんが、若井さんと藤澤さんが来たら声かけますね、とにっこり笑ってくれたので、遠慮なくお言葉に甘えていた。
家で眠れないのが嘘のように、すとんと眠りに落ちて、まだ瞼があげられないくらい意識は低いんだけれど、徐々に覚醒している中で、ものすごく遠くから、人の話し声が聞こえた。
ああ、若井か涼ちゃんがきたのかな。と。
数分は眠れたかな。今何時だろう、と目を開けようとしたところで、ドアが開く気配がした。
こちらを起こさないように、と配慮したような控えめな音に、目を開けるタイミングを失ってしまって、なんとなく寝たふりを決め込む。
そろっと誰かが近づく気配。
俺の眠っているソファの傍で立ち止まり、しゃがみ込んだのかな、という衣服の磨れる音。
「…もとき」
涼ちゃんの、潜めた声がした。
完全に、こちらを起こそうとするそれではなくて、起きてるのか寝てるのかを確認するような、そんな様子の。
(え、なにこれ、こわいんだけど)
起こすわけでもなく名前を呼んで、じーっと寝姿を見つめられているような空気に、よくわからないけれど心臓の動きが速くなった。
そもそも、無防備に眠っている姿を見られている現状は、恥ずかしいかもしれない。
あまり人前で眠ってる姿は見せないけど、若井と涼ちゃんの前では、気を許して膝貸してもらったり、肩貸してもらったりして、今更恥ずかしいなんて思うことも少ないはずなんだけど、なんだか、今のこの状況はよくわからなくて。
そーっと入室して、そんな声を潜めて、名前囁かれて、寝顔見られて、…これ、どうしたらいい?どういう反応するのが正解なの?
…なんて、俺にしては珍しく、少し焦りというか、混乱した思考で色々と考えていると、暗くなる。
閉じた瞼の向こう側にある部屋のライトの灯りが顔に当たっていたのを、遮られたのだと知れた。
「―――」
いやいやいや、声が出るかと思ったし、思わず目を開けそうだったわ。
唇にふに、と柔らかい感触があって、それが何かを頭で理解する前にさっと風の速さで遠ざかって行った。
キスじゃん。
今のキスじゃん?
え、今、俺、涼ちゃんにキスされたよね??
ものすごく雰囲気ぶち壊しなこと言うけど、白雪姫が王子様のキスで目が覚めるみたいな感じのシーンのキスされたよね?てか雰囲気ぶち壊しってなんだよ。そもそもがどんな雰囲気だったんだよ。
え?んん?あれ?俺って、涼ちゃんと付き合ってたっけ?
今までにスキンシップでキスとかしてたっけ?ハグとか頬にとかはしょっちゅうだし、メンバーの距離感バグッてるで有名な俺たちだけど、マウストゥマウス、ありましたっけ?
しかもそんな、声潜めて、起きていないか確認してからさあ。
どうしていいものか、全く動けない。なんなら息もしてなかったかもしれない。
涼ちゃんは、ふ、とひとつ小さな息をついて、さっと音もたてずに部屋を出て行った。
かちゃん、とドアが完全に絞まる音を確認してから10秒数えて、俺は跳ね起きる。
なんなのいまの、なんだったの今の。妄想?俺まだ夢見てた?てか、まだ夢の続きなのこれ?そもそも夢見てたっけ?
…と、ものすごく古典的だけれど、思わず頬を抓ってしまう。
「夢じゃない」
ぽろっと言葉が出た。
人間って、混乱極まると本当にこういう行動するんだ、と妙に冷静に自分を見ている自分もどこかにいて。
…あんなキス、ある?
涼ちゃんって、そういうことと無縁そうで、隠れてひっそりと何かをするなんて、そうそうできないじゃん。
あんなさあ。
「…ぅわぁ…」
思わず声が出た。
思い出して、自分の唇に触れて、確かにここに涼ちゃんの唇が触れてた、という事実が心の中にするっと入ってきて。
信じられないくらい顔が熱くなった。
あんなさあ。
好きっていうより、好きを伝えてくるキス、俺は知らない。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!