喫茶「桜」の店内は
昼時の活気に溢れていた。
カウンター席
テーブル席
奥のソファ席まで、ほぼ満席。
見慣れた常連客の笑い声や
新規の客の楽しそうに
メニューを捲る声が
店内を賑やかに満たしている。
「よぉ、兄ちゃん!アレやってくれよ?」
陽気な声が響き
カウンターの前で
椅子に座った常連客の男が
ソーレンに声をかけた。
「⋯⋯あぁ? またかよ」
カウンターの中で
皿を拭いていたソーレンが
気怠げに顔を上げる。
「いーじゃねぇか!チップ弾むからさ!」
男はニヤリと笑い
ポケットから
小さく折り畳んだ紙幣を見せびらかした。
「⋯⋯ちっ。しゃーねぇな?」
ソーレンは皿をカウンターに置き
渋々といった様子で
客の近くへと向かった。
(〝アレ〟って⋯⋯なんだろ?)
ホールを回していたレイチェルは
気になって
チラリと視線を送った。
ソーレンが
男の目の前の
カトラリーの入ったバスケットを
取り上げる。
次の瞬間——
スプーン、フォーク、ナイフが
ふわりと連なるように
宙に浮かび上がった。
「⋯⋯うわぁ」
レイチェルは思わず足を止め
目を見張った。
宙に浮かんだカトラリー達は
ソーレンの
指の動きに合わせるように
滑らかに彼の周りを囲み始めた。
銀色の光が輪を描き
ソーレンの周囲でピタリと留まる。
「⋯⋯幻想的⋯っ」
レイチェルは今まで
ソーレンの重力操作は
アリアのバラバラな肉片を浮かせたり
重い物を浮かせて運んでいたりと
その程度でしか見た事が無かった。
そんな幻想的とは掛け離れた男が
こんな事をやってのけるとは
思わなかったのだ。
ソーレンが
勢いよく両手をクロスさせる。
瞬間。
——ギィンッ!
カトラリー達は
まるで弾かれたかのように
一瞬で歪み、捻じれ
捻じ切れるかのように
奇妙な形へと変わった。
「おぉ⋯⋯っ」
客が思わず声を漏らした、次の瞬間——
——カシャン⋯ッ
僅かな音を立て
カトラリーは捻れたまま
再びバスケットに収まる。
興奮した常連客が
バスケットを手に取り
そこからカトラリーを
一つずつ取り出して確認する。
どれも真っ直ぐで
何の傷も無い状態に戻っていた。
「⋯⋯おぉ!
捻れてたのに
綺麗に真っ直ぐになってる!
相変わらず
タネが全くわからんマジックだ! 」
「そりゃ、どーも。
ほら、チップくれよ」
他の席からも、拍手と喝采が巻き起こる。
「⋯⋯すっご!」
レイチェルは思わず声を上げた。
その瞬間——
——ぐらっ
(⋯⋯あっ!)
レイチェルは
ローラースケートの靴紐が
緩んでいた事に気付かず
バランスを崩した。
手に持っていたトレンチの上の皿が
ふわりと宙に舞った。
「わ⋯⋯っ!」
しまった、落とす——!
その時
ふわりと身体が支えられた。
「⋯⋯っと」
気付けば
ソーレンの片腕が
しっかりと
レイチェルの腰を抱きかかえ
倒れそうになる
彼女の身体を支えていた。
「⋯⋯大丈夫か?」
耳元で囁かれた低い声に
レイチェルは思わず息を呑む。
さらに
ソーレンのもう片方の手が
宙に舞った皿や料理を
まるでジャグリングのように
器用にキャッチしていった。
——カシャッ、カシャッ、カシャッ⋯
次々と受け止められた皿は
見事に料理が溢れず
そのままトレンチに戻される。
「⋯⋯ったく。危なっかしいな、お前」
ソーレンは
レイチェルの身体を離し
軽く額に指を当てた。
「⋯⋯あ、ありがとう⋯⋯」
レイチェルは
気が抜けたように小さく呟いた。
「おう。気を付けな?」
軽く肩を叩いて
ソーレンは料理を乗った
レイチェルのトレンチを抱えたまま
客のテーブルへと向かっていく。
「熱いねぇ! お二人さん!」
見物していた客が
揶揄うように叫ぶと
店内から笑い声と歓声が湧き上がった。
「⋯⋯ちっ。
これは、見せ物じゃねぇよ!」
ぶっきらぼうに吐き捨てると
ソーレンは料理をテーブルに置き
無造作に
「お待ちどうさん」と言い残して
カウンターへ戻っていった。
その背中を見送りながら
レイチェルは気付いた。
ソーレンの掌の感触——
荒々しくて大きく
それでいて妙に優しかった
あの温もりが
まだ残っていることに。
「⋯⋯あぁ、もう⋯っ」
レイチェルは
頬が紅くなるのを感じながら
乱れた靴紐を結び直すのだった。
楽しげな笑い声
カトラリーが触れ合う音
料理が運ばれる度に弾む歓声。
そんな中
カウンターの中に立つ時也は
静かに息を吐いた。
店内の彼方此方に飾られた植物達は
僅かに震えていた。
壁に掛けられた
観葉植物の葉が微かに波打ち
テーブルの脇に飾られた花が
僅かに蔓を伸ばしている。
時也の鳶色の瞳が、僅かに細められる。
(⋯⋯やれやれ)
ふっと笑みが浮かび
指先が空中で軽く弧を描いた。
その瞬間——
震えていた植物達は
まるで息を吐き出したかのように
静かに元の形に戻った。
伸びかけていた蔓は
そっと引っ込み
波打つ葉は再び穏やかな姿へと戻る。
時也の指先から
淡い緑の光がふわりと消えた。
「……ふふっ」
時也は小さく笑うと
カウンターに戻って
手にした布巾で
ゆっくりとグラスを拭き始めた。
ほんの数分前
レイチェルがよろめいた瞬間——
ソーレンの〝マジック〟と見せかけて
時也は植物たちに命じ
レイチェルを支えようとしていたのだ。
あのままソーレンが間に合わなければ
蔓が伸び
レイチェルの身体を包み込むように
支える心算だった。
だが、その必要はなかった。
「⋯⋯杞憂でしたね」
呟いた声は
小さな独り言に過ぎなかったが
そこにはどこか
安堵の色が混じっていた。
カウンターの中から
時也はホールを回る
ソーレンの背中を見つめる。
ソーレンは
無造作に髪をかき上げながら
気怠そうにトレンチを片手に持ち
客の間をすり抜けている。
ぶっきらぼうな態度は相変わらずだが
その歩き方には
機嫌が良さそうなリズムがあった。
視線の先で
レイチェルが
ソーレンの袖を軽く引っ張る。
きっと
「さっきはありがとう」と
言ったのだろう。
「おう」とだけ
短く返したソーレンの口元は
ほんの僅かに
柔らかな笑みが浮かんでいた。
その笑顔を見た瞬間、時也の口元にも自然と微笑みが滲んだ。
(貴方が、どんどん人らしくなって
⋯⋯少しは安心ですね)
ソーレンは
決して「優しい男」ではない。
その目は
血と暴力の世界を
長く見てきた者の冷たさがある。
人間の弱さも醜さも
誰より知っているからこそ
時には残酷な選択をする。
それでも
彼の内側には確かに
〝人としての温もり〟が残っている。
誰かのために手を伸ばし
守ろうとするその本質が——
時也はずっと
そこに気付いていた。
気付けば、アリアも二人をじっと
見つめていた。
「⋯⋯ふふ。
貴女も、安堵されてるのですね」
時也は
拭き終えたグラスを
静かに棚に戻した。
(こんな穏やかな日が⋯⋯
続けば良いのですが)
窓の外では
穏やかな陽の光が差し込み
喫茶 桜の店内を
柔らかく包み込んでいた。
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