青水 堕天使・天使ぱろ
「羽の欠片」
白い風が吹いていた。
その風は、天の端から溢れるほどの光を運んで、僕の頬を撫でていく。
――ほんの少し、冷たい。
「……いふ、くん……」
声に出した瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
禁句だった。天界でその名を呼ぶことは、許されていない。
でも、僕の唇は勝手に動いてしまう。まるで、彼がまだそばにいるかのように。
僕、ほとけは天使だ。
天界の中でも、特に「記録と赦し」を司る役目を与えられた存在。
罪を裁くのではなく、誰かの心の痛みを記録して、癒すのが僕の仕事だった。
――本来ならば。
あの日、天界の湖のほとりで出会った堕天使。
黒い羽を引きずり、血のような夜を背負って笑っていた少年。
いふくん。
彼は、元は僕と同じ「守護天使」だった。
けれど、ある人間を守るために“天の掟”を破り、そのまま堕とされた。
天使は、愛してはいけない。
それがたとえ、どんなに純粋な想いでも。
――それを、僕は理解していたはずだったのに。
彼の瞳の奥にあった「痛みの光」を、見捨てることができなかった。
僕はその夜、天の門を抜け出した。
禁忌の「地上行きの道」を。
夜明けの空気が、肺を刺すように冷たい。
真っ白な羽がひとひら、風に舞って落ちていく。
そのあとに続くように、僕も降りた。
天と地の境界――“灰の森”。
天使と堕天使のどちらにも属さない、静寂の地。
そこに、彼はいた。
***
「……お前、マジで降りてきよったんか」
低い声が、霧の奥から響いた。
黒い外套。銀の耳飾り。
そして、かつて天の光を宿していたであろう、深い藍の瞳。
その男は、木の根に背を預けて座っていた。
「……いふ、くん」
僕は駆け寄る。
思わず、彼の手を握ろうとした。けれど、彼はそれを避けるように立ち上がった。
「触んな。俺の羽、もう“穢れ”しかないで」
その声には、優しさよりも痛みが勝っていた。
でも、僕にはその痛みの方が、懐かしかった。
「いいよ。穢れてたって、君は君だ。……僕の、知ってる“いふくん”だよ」
「……あほやな、ほんま。お前、天界でどんだけ怒られる思てんねん」
笑いながら、彼はふっと目を逸らした。
その笑顔の奥で、彼の心は泣いているように見えた。
***
夜になると、森の奥は淡く青い光で満ちる。
蛍にも似た光の粒が、二人のまわりを漂っていた。
「……なぁ、ほとけ。お前、まだあの歌うたえんの?」
「うた……?」
「ほら、天界でよう歌ってたやつ。“夜明けの祈り”や。俺、あれ好きやった」
いふくんの声は、まるで遠い記憶を撫でるようだった。
僕は小さく息を吸って、そっと目を閉じた。
唇が自然に旋律を紡ぐ。光が、羽の隙間から零れ落ちる。
――「夜が明けたら 君の名を呼ぼう」――
その一節を口にした瞬間、
彼の手が僕の手を掴んだ。
「……あかん。これ以上、歌ったら天に見つかる」
「それでもいい。僕は君に――」
「ほとけ」
彼の声が震えていた。
「俺は、お前を巻き込みたない。俺はもう“罪”なんや。天の光を裏切った。お前が堕ちたら、もう帰られへん」
「帰らなくていい」
「は?」
「僕は、君といたいんだ」
その瞬間、風が止まった。
森の光が、ゆっくりと消えていく。
沈黙が二人の間を埋める。
そして――彼の唇が、ほんの少しだけ、僕に近づいた。
「……お前、ほんま、アホやな」
囁きと同時に、ふわりと何かが触れた。
それは、あまりにも優しくて、泣きたくなるほど温かかった。
でも、それが「罪」だと、僕は知っていた。
天の光が、僕の背中の羽をひとひらずつ削り取っていく。
――あぁ、これが堕天なんだ。
そう思ったとき、不思議と怖くはなかった。
いふくんが、僕の手を離さなかったから。
***
夜が明けた。
僕らの足元には、白と黒、ふたつの羽が散っている。
「なぁ、いふくん。天の光って、あんなにまぶしかったっけ」
「さぁな。けど、こうして下から見たら……なんか、ええ景色やな」
彼は少し笑って、空を見上げた。
そこには、天界から降りてきた“追討の光”――天の矢が、ゆっくりと降り注いでいた。
「ほとけ、走れ。お前まで――!」
「いやだ。僕は君を置いていかない」
「アホ! 俺のせいで、お前……!」
光の矢が、地を焼いた。
音が消える。
世界が、白に塗りつぶされる。
そしてその中で、僕は聞いた。
彼の声を。
「――なら、一緒に堕ちよか」
次の瞬間、僕の視界は闇に包まれた。
***
目を覚ますと、そこは暗い洞窟だった。
空気が重い。天の加護も感じない。
でも、手の中には、確かに彼の手の温もりが残っていた。
「……生きて、る?」
「当たり前やろ。堕天したての新人が、こんなとこでくたばるかいな」
彼が笑った。
その笑顔が、あの頃の彼とまったく同じで――
僕は思わず、涙を零した。
「……泣くなや。天使が泣いたら、また羽ちぎれるで」
「いいんだ。もう、羽なんかどうでもいいよ」
「ほんまにアホやな」
そう言いながら、彼は僕の頭を撫でた。
指先に残る黒い煤の跡が、光を失った羽根のように、ゆっくりと散っていった。
***
その夜、僕らは洞窟の奥で火を焚いた。
いふくんは不器用に木を削り、僕は古い祈りの歌を口ずさむ。
光も天も、もう届かない。
でも、確かに“ここ”に、心臓の音があった。
「なぁ、ほとけ」
「なに?」
「堕ちたらもう、天国には戻られへん。でも……地獄でもええやんな。お前とおれ、ふたりでおったら」
「……うん。僕も、そう思う」
炎の向こうで、彼が微笑んだ。
その笑顔があれば、僕はもう天の光を見なくても、生きていけると思った。
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