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ほらまた、タイミングよく私が気持ちよくなる言葉をかけてくれた。
こんな私のことを、何も否定せず、すべて肯定してくれる。
だから私は、抵抗することなく心に隙間をあけてしまう。
冷たい空気を追い出すように、朝倉くんの温かな空気が私の中へゆっくりと満ちていく。
「私のこと……こんなに見てくれていたんだね」
ぽつりとこぼした声は、自分で思っていたよりも弱かった。
彼に特別な感情を持ってしまいそうだった。
でも、それはダメだと理性がすぐに止めに入る。
感情が乱れて、頬に熱い涙が落ちるのがわかった。
すっと人差し指で涙を掬う。
「泣けてきちゃった。今週は色々あり過ぎて、頭がぐちゃぐちゃだわ」
最近の私の涙腺は、休む暇もない。
もう泣きたくなんてないのに。
こんな私の横顔を、朝倉くんがじっと見つめている。
声をかけるわけでもなく、ただそこにいてくれる気配が伝わってきた。
だけど、私には何もできないし、何を言えばいいのかもわからない。
「瞳子さん、たまには思考停止してみませんか?」
「思考停止って?」
自分の鼻声が妙に虚しい。
彼がクスッと笑った。
「何も考えないで、素直な心の声だけを聞くんです」
私は何度か瞬きをする。
「素直な声……?」
「そうです。頭で考えずに、身体が欲する声を聞くんです」
朝倉くんが少しだけ身体を私に傾けた。
それでも、そこに下心など微塵も感じない。
ただ、私が疲れていることを理解して、休ませようとしてくれているように見えた。
考えても現実は変わらない。
なら、少し休んで英気を養おう。
朝倉くんがそう提案しているんだと思った。
清く正しく生きようと、私は頑張りすぎていた。
姉として、会社員として、誰かを支える側として。
たまには、自分の思うままに過ごしてみたい。
何も考えず、頭に浮かんだことをやってみよう。
カップに添えていた私の手に、朝倉くんの大きな手が重ねられた。
指先が触れた瞬間、ぬくもりがじんわりと伝わってくる。
それは、とても温かくて、ほっとする体温だった。
余計な思考を排除すると、心地いい情報だけが頭に届く。
思考を停止することは、精神的にも効果的なのだなと、どこか冷静な自分が納得していた。
(この温もり、好きだな)
私は自然と目を閉じた。
この温かさに包まれながら、ただ自分の中に湧いてくる欲に耳を傾ける。
(私がしたいこと──)
ゆっくりと瞼を開く。
ぱあっと世界が一気にひらけたような気がした。
「瞳子さんは、何がしたいですか?」
朝倉くんの優しい声は、聞いていて心地いい。
私は彼に振り向き、微笑んだ。
「あと一杯だけ飲みたい。そうしたら部屋に戻るわ」
私がふふっと力なく笑うと、朝倉くんも嬉しそうに笑みをこぼした。
「では、僕もそうします」
彼がオーナーを呼ぶ。
今度は、度数のリクエストをしなかった。
「では、こちらはいかがですか?」
オーナーが出してくれたのは、赤ワインを温めて作ったホットワインだった。
グラスから立ち上る湯気に、オレンジとシナモンの甘い香りが混じっている。
暖炉の明かりを受けた赤い液体が、グラスの中でゆらゆらと揺れていた。
「……綺麗」
思わず、声が漏れる。
「僕も、これ、好きです」
朝倉くんもグラスを持ち上げる。
一口含むと、ワインのほのかな渋みのあとに、オレンジの甘酸っぱさが広がった。
シナモンの香りが鼻に抜ける。
さっきの蜂蜜レモンとは違う、少し大人びた味わいだった。
二人の間に会話はなかった。
それなのに、不思議と気まずくない。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、静かなバーに響いていた。
私はもう一口、ホットワインを口に含む。
身体の奥が、ゆっくりと温まっていく。
「では、部屋に戻りましょうか」
「そうね」
帰りの廊下でも、私たちは付かず離れずの距離を保った。
思考停止しても、意識は失わないように調整していた。
酔っぱらって部下と寝たなんて最悪だもの。
だから私は、宣言どおり美味しいお酒を飲み終えたら、自分の足でしっかりと歩いて部屋まで帰ってきた。
すべての記憶は、しっかり残っている。
龍彦の浮気現場で鉢合わせした挙げ句に振られたこと。
自分の子供のように可愛がってきた弟が、自立しようとしていること。
今週は、いろいろなものが一気に私の手から離れていった。
そんな私を、朝倉くんはすべてにおいて嫌味なく、完璧にフォローしてくれた。
そして──目の前には、ダブルベッド。
私が朝倉くんとセックスするための環境が、整いすぎていたんだ。
部屋に戻ると、自然と私は朝倉くんの前に立っていた。
そして、じっと彼を見つめる。
彼も、もう私の欲求に気づいている。彼の呼吸が、少しだけ早くなっていたから。
「瞳子さん、意識はありますか?」
「うん。ちゃんとわかっているわ」
彼の顔が一気に引き締まった。
ゆっくりと私の腰に手を伸ばし、ぐっと引き寄せてくる。
弾力のある、しなやかな腕に抱きしめられた。
身体が密着すると、彼の体温が一気に伝わってくる。
お風呂上がりのシャボンの匂いと、男性特有の熱が混じった香り。
無性に涙が溢れそうになった。
「嬉しい……」
彼が絞り出すように声を出す。
背中が小さく震えているようにも感じた。
私はその広い背に、そっと腕を回す。
(逞しい……彼は男なんだ)
ずっと年下の部下として見ようとしていた。
自分とは違う世界にいる、才能のある男性だと思っていた。
甘えてみたかった。
でも、自分の置かれている立場ではできなかった。
それを、今晩だけは──彼の前だけは、解禁してみたかった。
すべて、彼の言葉のおかげだった。
彼が私の顔を両手で包み込む。
その目は、今まで見たことがないほど魅力的に潤んでいた。
『男』というより、欲しいものがようやく手に入った時の、純粋な青年の瞳に見えた。
彼の浅く速い吐息が、髪にかかる。
それだけで、私の身体が嬉しくなって、疼いた。
「喜ばせることができるかわからないけど、瞳子さんへの愛は誰にも負けない……いいですか?」
その声には、欲望だけではなく、今までずっと抑えていた想いが滲んでいた。
「……うん」
彼の唇と、そっと重なる。
柔らかくて、温かくて──。
きっと、ずっと欲しかったものだった。
思考停止してみて、自分の欲がわかった。
私は朝倉祐二が好きなのかもしれない。
今、私は彼とセックスがしたい。
明日のことは、明日また考えればいい──
湊未来
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夏目莉央
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#逃げられない