夏草が風に揺れていた。葉先についた朝露が、陽の光を浴びて宝石のように煌めく。ブランデンブルク門―七年戦争の戦勝を記念して当時のプロイセン王が建設したものである—をくぐり抜け、緩やかな坂道を上ると、ポツダムの街並みが一望できる。その先には、かつてこの地を治めたプロイセン王フリードリヒ二世が愛したサンスーシ宮殿が、そよ風に揺れる萌葱色の草木に囲まれ、ひっそりと佇んでいた。晩夏の陽射しは強烈で、宮殿の庭園を彩る花々も、その暑さにじっと耐えているように見えた。
フリードリヒ二世の墓には、季節を問わず、多くの人々が訪れる。彼らは、フリードリヒ二世が奨励し、普及させたジャガイモをまるで捧げ物のように一つ、また一つと供えていく。それは、敬愛の念を示す、ささやかな儀式だった。
しかし、供えられたジャガイモたちは、夏の熱気の中で、日を追うごとにその姿を変えていった。みずみずしかった肌は皺が寄り、緑色の芽がまるで小さな角のように生えてくる。やがて、その表面には黒い斑点が広がり、腐敗の甘酸っぱい匂いが、その風に乗って漂い始めた。その光景を、老フリッツは自分の墓の中からじぃっと見つめていた。供えられたジャガイモが、その役目を終えることもなく、ただ朽ちていく。その無惨な姿を見るたびに、彼の心は、まるで冷たいナイフで抉られるかのように痛んだ。
「祖国よ、未だお眠りかな」
老フリッツの声が、風にのって墓石の隙間に消えていく。その声に呼ばれるように、彼の墓の近くに並ぶ、名も無き墓石から一人の青年がふわりと現れた。黒髪にプロイシッシュ・ブラウの瞳を持つ、清らかな顔立ちの彼は、老フリッツの祖国であったプロイセンだ。彼の白い肌は墓地の冷気を含んでいるかのようで、しかし、その瞳にはどこか懐かしい光が宿っていた。
自身の声に共鳴するよう現れたプロイセンに老フリッツは微笑むと、己の墓石を指さして語りかけた。彼の声は、庭園の静けさの中に、わずかな波紋を広げる。
「見てみよ、このジャガイモを。私のために、人々が心を込めて供えてくれたものだ。しかし、この夏の熱気で、みるみるうちに芽を出し、腐り始めている。供えてくれた者たちの心は、それはそれは純粋な敬愛に満ち溢れていた。しかし、その想いもこのジャガイモと同じように朽ち果ててしまうのかと思うと、私は堪えられぬ程に心が痛むのだ」
老フリッツの言葉には、王としての威厳だけでなく、一人の人間としての深い悲しみが滲み出ていた。プロイセンは、その言葉を静かに聞きながら、ふわりと宙を泳いで老フリッツの元に辿り着く。そして、腐敗した一つのジャガイモにそっと手を伸ばした。彼の細く白い指先が触れると、ジャガイモの表面からは甘酸っぱい、生命の終わりの匂いがふわりと漂ってきた。
「折角の恵みが、このようにして無為に失われていく。このままでは、供えてくれた者たちの心も報われぬままだ。私はこれをどうにかしたい」
老フリッツは、そう言って、プロイセンの紺青の瞳をじぃっと見つめた。その眼差しは、遠い昔、共に国を治めていた頃の懐かしさと、そして、微かな期待を帯びていた。
大王の語りに耳を傾けていたプロイセンだったが、その熱意に満ちた視線には敢えて目を合わせなかった。掌に収まるジャガイモを見つめ、その小さな口を開いた。
「貴方に供えられたものを、俺のような嫌われ者がどうこうしてはいけない」
彼の言葉には、過去の出来事に対する諦観と、自分自身への深い失望が滲んでいた。困ったように微笑むプロイセンは、その掌に取ったジャガイモをそっと元の場所に戻した。
彼はそのようなことを言うが、老フリッツは知っている。この墓を訪れる人々の中には、亡きプロイセン王国に対する敬愛の念を抱く者たちが多くいることを。彼等の眼差しは純粋な憧れと親愛に満ちていた。だからこそ、このままジャガイモを朽ち果てさせるわけにはいかない。彼等の純粋な心をも、腐敗させてしまうことに繋がるからだ。
「このジャガイモは、何も私だけに供えたものでは無い。私の愛しい犬たちと、誇り高き祖国―貴方に向けたものもある。そのような美しい心を込めたジャガイモたちを、貴方を愛する者の一人として腐らせてしまうのは如何にも惜しい」
優しく、寄り添うように、老フリッツは祖国に語り掛けた。彼の声には、大王としての尊厳と、しかし何処か子どもらしい哀しみが籠っていた。プロイセンは、その言葉を聞いてもなお、憂いを帯びた表情を変えない。しかし、そのプロイシッシュ・ブラウの瞳は、微かに揺れていた。老フリッツの言葉は、まるで鋭い楔のように、プロイセンの心の奥底に突き刺さった。
プロイセンは、再びジャガイモに視線を落とした。例え自分が嫌われた身とはいえ、プロイセン王国の国王であったフリードリヒ二世に供えられたものである以上、プロイセンに全くの関係が無いわけではない。己の存在そのものが歴史の闇に葬られた過去であっても、この小さなジャガイモの中に、人々が老フリッツや自分たちに寄せた敬愛の念が宿っている。それを無為に朽ちさせることは、自らが存在した過去を否定されるよりも辛い。
プロイセンは、意を決したように老フリッツに顔を向けた。その顔は、老フリッツがかつて見ていた、慈愛に満ち、強く、清らかなプロイセン王国そのものだった。
「分かった、フリッツ。ジャガイモをどうにかしよう。でも、どうやって?」
祖国の返答に老フリッツは満足そうに頷いた。彼の表情もまた、決意に満ちていた。
「供えられたものなら、我々が消費するもが最も道理にかなう。さすれば、供えてくれた者たちの心も報われるというものだ」
二人の間でひそかな同意が結ばれた。それは、長い時を経て再び巡り逢い、共に深い眠りについた二人だからこそ結ばれた約束だった。供えられた愛しい者たちもジャガイモをどうにかする。それだけの目的が、彼等の心をわずかに震わせた。
しかし、その奇跡も現実の前に立ちすくむ。
プロイセンは、己の国王を促して宮殿の奥へと向かった。辿り着いたのは、タイル張りの床に、使い込まれた調理台が並ぶ、広々としたキッチンだ。天井からつるされた銅製の鍋屋フライパンが、微かな光を反射して鋭く光る。その光景は、まるで時間が止まったかのようだった。
懐かしむように、そしてどこか期待を込めた眼差しで、その広大なキッチンを見渡した。磨き上げられた木のテーブル、並べられた銅製調理器具。かつてはここで多くの料理が生み出されたのであろう。
「フリッツ、ここのキッチンを使おう。これだけ揃っていればジャガイモをどうにかできるよ」
プロイセンは、そう言って老フリッツに語りかけた。しかし老フリッツは、その言葉に首を横に振る。彼の表情には、厳格な王としての責任感が滲み出ていた。
「この宮殿は世界文化遺産と呼ばれるものに登録されているのであろう。ここで火を使うなど、もっての他だ」
大王の言葉は、プロイセンの期待を打ち砕いた。彼のプロイシッシュ・ブラウの瞳には、わずかに失望の色が浮かんでいた。しかし、諦めない光をも宿していた。
プロイセンは言葉を続けようとしたが、老フリッツの厳しい眼差しに口を噤んだ。彼は、この宮殿がもはや自分たちのための場所ではないことを、痛感させられた。それは、まるで、かつて自らが統治した国を、遠い場所から見ているような切ない感覚だった。
肩を落としたプロイセンだったが、何かを思いついたように顔を上げると、ふわりとその場から浮き上がった。宮殿の庭園を見下ろすテラスに立ち、遠くのポツダムの街並みを見つめる。何事かと、老フリッツもひらりと祖国の隣に並んだ。
長い時を経て、多くのものが変わり、そして残された故宮ポツダムを映すプロイセンの瞳。宝石のようなその眸子に懐かしさを感じていると、その瞳の主は柔らかな笑みを浮かべて、此方に振り向いた。
「あの先に、良いキッチンがあるはずだ」
そう呟くと、ふわりと再び浮かび出した。先程まで眠っていた墓石に戻ると、プロイセンは両手にジャガイモを抱えた。その一つ一つが、彼の過去と未来を繋ぐ、ささやかな希望の光のように見えた。
老フリッツを連れて、宮殿の石畳を音もなく歩いていく。夏の陽射しが彼等の体を揺らめかせ、その姿はまるで幻のように、サンスーシ宮殿の風景に溶け込んでいった。
彼の言葉には、過去への郷愁と、ほんの少しの悪戯心が混じっていた。それは、長い時間を経て、再び自らの意志で動けるようになったことへのひそかな喜びでもあった。彼はまるで子どものように、新しい遊びを見つけたかのような、微かな期待を胸に抱いていた。
夜の帳が下りたポツダムの街に、この州の家は静かに佇んでいた。家の仲は静かで、照明も落ちている。とある寝室では、赤毛の長髪を枕元に流れ落とした家主が、夢の中を彷徨っていた。彼の細い身体は、ベッドの上で小さく丸まっていた。
その家のキッチンに、二つの影が忍び込む。幽霊であるプロイセンと老フリッツは、鍵のかかったドアなど何の意味もなさずにすり抜けた。彼等の姿は、月の光を透かすように、うっすらとぼんやりとしていた。
キッチンは現代的な機能美に満ちていた。ステンレス製のシンクは磨き上げられ、ピカピカと光るIHクッキングヒーター、そして最新のオーブンレンジが並んでいる。プロイセンは、それらの見慣れない調理器具に、子どものような好奇心に満ちた目を輝かせた。彼のプロイシッシュ・ブラウの瞳は、まるで新しいおもちゃを見つけたかのように煌めいていた。指先で、黒く輝いた不思議な黒い板の表面をそっと撫でてみる。熱を発するはずの場所は冷たく、彼の白い指先を通り抜けていった。
「フリッツ、ジャガイモはどう調理したら良いだろう」
侵入早々にワークトップに置いたジャガイモを指さし、プロイセンは、戸惑いを隠せない様子で老フリッツに尋ねた。
「ふむ…ズッペにするのも良いが、この家の食材を勝手に使ってよいものか…」
老フリッツは、腕を組みながら思案する。家主の許可も無く—そもそも不法侵入している—、食材を探して使用することに躊躇いがあるようだ。プロイセンも、彼の言葉には同意した。
ジャガイモ単独で作れるものは無いか、プロイセンはキッチンをくまなく見回った。シンク下、フロアキャビネット、冷蔵庫、食品庫―。あまりの食品の少なさに、就寝中の彼が普段全く調理をしないと分かった。調味料くらいは使用しても家主は気付かぬだろう、とプロイセンは判断した。
一方、見慣れない調理場での料理は危険だと考えた老フリッツは、一歩離れた場所からキッチンを眺めていた。彼の表情は、厳格な王としての警戒心と、しかしどこか時代に取り残されたような寂しさを含んでいた。彼の視線が、ふと、ゴミ箱の中に捨てられたポテトチップスの空袋に止まる。
プロイセンもそれに気付き、目を丸くすると、空袋を手に取った。袋に描かれたジャガイモの絵と、美味しそうなポテトチップスの写真。彼の心の中に、新しい創造の喜びが沸き上がった。
「フリッツ、これを作ろう!」
プロイセンは、目を輝かせながら老フリッツに語りかけた。
「ポテトチップスを作ろう!これなら、宮殿のジャガイモを美味しく食べることができる」
彼の心の中には、ほんの少しの子どものような無邪気さが沸き上がっていた。かつて失われたはず自由と、その自由な発想から生まれる歓びを、このポテトチップスの中に見ていたのかもしれない。
夕闇が街を包み込み、ポツダムの街並みにぽつりぽつりと灯りが点り始めた頃、ブランデンブルクはいつものように庁舎を後にした。彼の足取りは、最近の寝不足のせいで重かった。夜中に聞こえる物音に悩まされ、浅い眠りを繰り返す日々。心身ともに疲労困憊していた。秘書には心配され、医療機関の受診を勧められたが、それより今は一刻も早く家に帰り、温かいコーヒーでも心を落ち着かせたかった。
ポツダムの古い街並みを抜ける。石畳の道は夕闇に包まれ、街灯のオレンジ色の光が、濡れた路面に反射してぼんやりと揺らめいていた。古い建物の壁には、蔦が絡みつき、その隙間から、どこかの家の窓に灯りが点るのが見えた。ブランデンブルクは、重い足取りで自宅へと向かった。
玄関のドアを開け、靴を脱ぎ、首を締めていたネクタイを外す。すると、静寂に包まれたはずの家の中で、どこからか話し声が聞こえてくることに気づいた。
「なんだ、この音は?」
ブランデンブルクは身構えた。侵入者だろうか。それとも、幽霊の仕業だろうか。最近の不審な物音は、幻聴ではなかったのかもしれない。忍び足で音のする方へ向かう。キッチンのドアが少し開いており、そこから光が漏れている。ブランデンブルクは、そっとドアを開けた。
そこにあったのは、信じられない光景だった。ピカピカに磨かれた最新のキッチンに、見慣れない二つの人影があった。一人は、黒髪にプルシアンブルーの瞳を持つ、聖母マリアを彷彿とさせる顔立ちの青年。もう一人は、見るからに古風な出で立ちの老人。二人の周りには、ジャガイモの皮が散乱しており、油の香りが漂っていた。
「フリッツ…?プロイセン…?」
ブランデンブルクの口から、掠れた声が漏れる。プロイセンは、かつて多くの責任を負わせて、州解体という形で死なせた存在だ。そして、老フリッツは、何百年も前に死んだプロイセン王国の王。二つの影は、ブランデンブルクの記憶の中にある姿と、寸分違わなかった。
その光景を見た瞬間、ブランデンブルクの意識は、真っ白い霧の中に消えていった。
目が覚めると、ブランデンブルクは自分の家のソファの上にいた。肌触りの良いウールのブランケットが、彼の身体を優しく包んでいる。近くのテーブルには、温かい紅茶が置かれており、湯気がふわりと立ち上っていた。まるで、誰かが彼の安らかな目覚めを願ったかのように。
「ブランデンブルクが起きたぞ」
老フリッツの声が、遠くから聞こえてくる。ブランデンブルクは、ゆっくりと目を開けた。まだ現実と夢の狭間を漂っているような、ぼんやりとした意識の中で、彼の視界に二つの影が映る。キッチンの方からふわふわと、まるで雲のように彼に近づいてくるプロイセン。その隣には、老フリッツが、腕を組みながら、どこか心配そうな眼差しで彼を見つめていた。
ブランデンブルクは、自分の記憶を辿る。確か、自分は彼らを見て、気を失ったはずだ。そして今、彼らは平然と自分の家にいる。その事実に、彼の心臓は早鐘を打った。怒り、混乱、そして、過去の罪悪感が、津波のように押し寄せてくる。
「人の家で何してるんだお前たち!なぜ、何故この場に居る!」
ブランデンブルクは、震える声で叫んだ。それは、彼らの存在に対する拒絶であり、そして、彼自身の中にある、拭いきれない後悔の叫びでもあった。
彼の叫び声に、老フリッツはわずかに眉を顰めた。その表情は、不作法を咎める厳格な王のそれだった。しかし、プロイセンは悪びれる様子もなく、ただ真っ直ぐにブランデンブルクを見つめている。
「ポテトチップスを作っていた」
その答えは、あまりにも純粋で、ブランデンブルクは言葉を失った。プロイセンのプロイシッシュ・ブラウの瞳は、まるで曇りのない湖面のように、純粋な光を宿しており、それはまるで、新しい遊びを見つけた子どものようだった。
「ポテトチップス?」
ブランデンブルクは、声にならない声で呟き、キッチンのテーブルに目をやった。そこには色とりどりのボウルに山盛りに盛られた、ポテトチップスがあった。油の香ばしい匂いが、ブランデンブルクの鼻腔をくすぐる。
事のあらましを聞いたブランデンブルクは、怒りを通り越して呆れた。サンスーシ宮殿の墓に供えられたジャガイモが腐る前に、自分たちが消費しようと考えたという。その精神には感銘を受けたが、勝手に家に侵入し、勝手にキッチンを使うのは辞めて欲しい。あまりにも理不尽な行為だからだ。しかし、ブランデンブルクは、プロイセンを強く咎めることが出来なかった。
目の前にいるプロイセンは、自分が全ての責任を負わせて、解体—死なせてしまった存在だ。にもかかわらず、彼はまるで過去の重荷から解き放たれたかのように、無邪気に微笑んでいる。その姿を見るたびに、ブランデンブルクの胸は締め付けられるような痛みを感じる。まるで、過去の亡霊が、彼を責めているかのようだった。
「ブランも食べなよ」
プロイセンは、出来立てのポテトチップスをブランデンブルクに勧めた。黄金色に輝くポテトチップスは、食欲をそそる芳醇な香りを辺りに漂わせている。ブランデンブルクは「食べるけど」と、ぶっきらぼうに呟きながら、それを受け取った。
一口食べると、その味と美味しさの衝撃に戸惑った。塩気の中に、磯の香りがふわりと広がる。
「これは何味だ?」
ブランデンブルクが尋ねると、プロイセンは楽しそうに笑った。
「のり塩味」
「のり塩味…」
プロイセンは再び別のボウルに入ったポテトチップスを差し出した。今度は、覚えのない不思議な香りが漂ってくる。その間、老フリッツは、キッチンの一角で、インスタントコーヒーを淹れていた。お湯を注ぐと、黒い粉が溶け出し、あたりに香ばしい匂いが広がる。彼はそれを優雅に飲みながら、二人のやり取りを静かに見ていた。
「これは何味だ」
ブランデンブルクは、その香りに誘われるように、もう一枚手に取った。口に入れると、濃厚な風味が舌の上に広がる。プロイセンは、その様子をじっと見つめながら、楽しそうに答えた。
「九州しょうゆ」
「何だそれは…」
ブランデンブルクがそう問うと、ふわりと宙を浮かぶプロイセンは、彼の顔を覗き込むようにして言った。九州というのは遠い日本の地域名で、九州の醤油は、砂糖やみりんを加えて甘く仕上げるのが特徴なのだと。その甘辛い味が、ジャガイモの素朴な風味によく合うのだと、熱心に語った。
どこで覚えた知識なのか、ブランデンブルクは問い正したかったが、そのような気力も無かった。差し出されたもう一枚の“九州しょうゆ”というポテトチップスを齧る。
「美味しい?」
プロイセンが尋ねると、ブランデンブルクは、その言葉に詰まった。怒りが、まるで熱い湯気のように、彼の内側から立ち上っていたはずなのに、その味は、彼の感情を静かに鎮めていく。
「美味しいよ、凄く」
ブランデンブルクの口から、素直な言葉が漏れた。それは、彼自身も予想していなかった言葉だった。怒りの感情は、まるで春の雪のように溶けていく。プロイセンは、その言葉に満足そうに微笑んだ。
しかし、未だ彼の心の中には、過去の罪悪感が泥のように重く沈んでいた。一方のプロイセンは、そのようなブランデンブルクの苦悩など気にする様子はない。老フリッツもまた、この場の空気を読んでか、黙って二人の様子を見守っていた。
夜中の調理は、ブランデンブルクの睡眠を妨げるため禁止になった。その代わりに、休日はブランデンブルクも一緒にポテトチップスを作る、という奇妙な取り決めが交わされた。ブランデンブルクは、この状況がまるで夢か幻のようだと感じていたが、目の前で楽しそうにジャガイモを剥くプロイセンと、静かにコーヒーを啜る老フリッツの姿は、あまりにも現実味を帯びていた。
その夜、ブランデンブルクは久しぶりに熟睡できた。それは、夜中の物音に悩まされることもなく、ただただ安らかな眠りだった。
[newpage]
翌週末、ブランデンブルクは朝からキッチンに立たされた。窓から差し込む柔らかな光が、ワークトップを淡く照らしている。プロイセンは「ブランもちゃんと手伝って」と、無邪気に命令した。彼のプロイシッシュ・ブラウの瞳は、朝の光を反射してきらきらと輝いている。
しかし、ブランデンブルクは料理が得意ではなかった。包丁を握る手はぎこちなく、ジャガイモの皮を剥くにも一苦労だ。彼の細い指が、何度も滑っては、ジャガイモの表面を浅く削るだけだった。プロイセンはそんなブランデンブルクの様子を見て、呆れたようにため息をつく。
「ブラン、もっと細くしないと!それだと堅揚げのポテチになるよ!」
プロイセンは、ブランデンブルクの手から包丁をひったくると、華麗な手つきでジャガイモをスライスしていく。その手つきは、まるで剣を操る騎士のようだった。薄く、均一に切られたジャガイモは、まるでガラス細工のようだ。
「なんだ堅揚げのポテチって」
ブランデンブルクは、プロイセンの繊細な手つきを呆然と見つめながら呟いた。
「ブランデンブルク、お前は本当に何も知らないのだな」
老フリッツが、ソファに置いていたコーヒー―老フリッツは近頃、ブランデンブルクの家にあるインスタントコーヒーを勝手に淹れて勝手に飲んでいる—を手に取り、ブランデンブルクに近付いてきた。彼の眼差しは、物事を教え諭すように、優しく、そしてどこか厳格な光を宿していた。
「堅揚げのポテチとは、通常のポテトチップスよりも厚くスライスされたジャガイモを、低温でじっくりと揚げることで、独特の硬さと食感を生み出した日本のスナック菓子メーカーが生み出したポテトチップスのようなもの。言わば、ジャガイモの新しい姿だ」
老フリッツは、そう説明すると、プロイセンがスライスしたジャガイモを手に取り、ブランデンブルクに差し出した。
「お前が作ったポテトチップスは、これだ」
その言葉に促され、ブランデンブルクは老フリッツの手元を見た。彼の作った、不器用で分厚いジャガイモのスライスと、プロイセンが作った、均一で薄いスライス。二つを比べると、その違いは一目瞭然だった。
「まあ、堅揚げのポテトチップスも美味しいだろう。同じ形ばかりだと、面白みが無いからな」
「それもそうだね。ほらブラン、新しいジャガイモだ」
プロイセンは、そう言ってブランデンブルクの肩を叩いた。彼の言葉には、からかいと優しさが混じっていた。その優しさは、ブランデンブルクの心に小さな光を灯した。彼は、自分の不器用さを恥じる気持ちと、プロイセンの優しさに触れた安堵感で、複雑な感情に包まれていた。
ブランデンブルクは再び包丁を握った。彼の握る手は未だぎこちなかったが、その目には、先程のような戸惑いではなく、ほんの僅かな希望の光が宿っていた。彼は、プロイセンと共に新しいものを作り出す喜びを、少しずつ感じ始めていた。
しかし、プロイセンが満足するような薄さにスライスすることは結局できなかった。彼の不器用な手つきがそれを物語っている。プロイセンは「ブランのポテトチップスは全部堅揚げになりそうだ」と笑いながら、それを揚げていった。
油の中でジャガイモがジュワっと音を立てる。その音は、まるで彼らの過去の記憶を呼び覚ます、優しい旋律のようだった。熱い油の泡がパチパチと弾けるたびに、遠い昔の賑やかな市場の喧騒や、王宮の厨房から聞こえてきた笑い声が、幻のように蘇る。
二人がかりで揚げたポテトチップスはボウルに山盛りになった。ブランデンブルクが作った堅揚げポテトは、硬くて食べ応えがあり、プロイセンが作った薄いポテトチップスは、サクサクと軽い食感だった。それぞれの個性が、そのままポテトチップスに表れているかのようだ。
「ブランのポテトチップスは、歯ごたえがあって美味しいじゃないか」
老フリッツは、ブランデンブルクが作った堅揚げポテトを美味しそうに食べながら言った。隣で宙に浮くプロイセンも、嬉しそうにブランデンブルクが切った分厚いポテトチップスを頬張っている。
ブランデンブルクは、その光景をただ黙って眺めていた。過去の記憶が波のように押し寄せ、彼の心をかき乱す。自分は、彼を殺した。いや、死を選ぶように促したのかもしれない。この罪悪感は消えることはないだろう。しかし、目の前にあるのは、無邪気に笑い合うプロイセンと老フリッツの姿だ。もしプロイセンが本当に自分を憎んでいるのなら、わざわざこのポツダムの家を訪ね、こうして無邪気にポテトチップスを頬張るだろうか。彼を拒絶しているのは、自分だけなのでは無いだろうか―。
ふと、自分自身に問いかける。この奇妙な関係は、一体何なのだろうか。過去を忘れたわけではない。しかし、この瞬間だけは過去の重荷から解放されたような気がした。きっと、プロイセンもそうなのだろう。
夜のポツダムの街に、三人の話し声が響く。目の前のポテトチップスを美味しそうに食べる、穏やかな時間がしばらくと流れていた。
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