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あの日の“好き”が追いつくまで~~a×s~
Side佐久間
窓から差し込む光が、俺の机の上をやけに明るく照らしていた。
春の終わり、あと少しで中三も折り返し。そろそろ進路のことを真剣に考えろって、誰も彼もが口にするようになった。
でも、そんなこと言われても。俺の目の前にあるのは、真っ赤に染まったテスト用紙。上の方に小さく書かれた「28点」という数字が、容赦なく胸に刺さる。
――ダメだ。
プリントを半分に折って、そっと机の引き出しに押し込んだ。誰にも見られたくない、こんな情けない点数。頭の奥がじんじんして、目の奥も少し熱い。
「ちょっと大介」
家に帰るなり、母さんの声がした。言い出しにくそうにしてるわけでもなく、ただ事務的に。
「……あんた行ける高校ないからね」
え? と、思わず口からこぼれた。
まるで処刑宣告。
冗談のつもりかと思ったけど、母さんの顔は真顔で、手元の成績表を見下ろしてるだけだった。
「はぁ……このままだと、どこも受かんないよ。そろそろ真面目に考えなさいよ」
真面目にって、どうすればいいんだよ。ちゃんとノートもとってるし、授業だって寝てるわけじゃない。だけど、なんかこう、頭に入ってこないんだ。みんなが簡単そうに解いてる問題も、俺には別の言語に見えるみたいで。
翌日、教室。
昼休みの空気はどこか緩くて、窓の外ではグラウンドでサッカーしてるやつらの声が響いてた。俺は机に突っ伏して、頭の中で母さんの「高校ないからね」って言葉が何度もリピートしてる。
「佐久間、またヤバかったんでしょ? 英語のテスト」
横からひょこっと顔を出してきたのは、照だった。笑ってるけど、どこか本気の軽口。
「……うるさーい」
そう返した声に、まったく悪びれもなく、今度はふっかが来た。
「えー、マジで? 俺さ、今回初めて平均超えたよ〜ん」
あ〜あ、こいつにまで言われるとは。
「照はともかく、ふっかに言われたくないんだけど」
「いやいやいや、前回佐久間より下だったけど? 今回は俺の方が上だから〜」
「チッ……」
悔しいけど、言い返せない。事実。
はぁ……なんでこんなことに。
思わずまたため息をついた俺に、ふっかが気楽な顔で言った。
「そういえばさ、佐久間、予備校行くんでしょ? お母さん言ってたって、うちのオカンが聞いたってよ」
ピクッと肩が動いた。……早いな、話が広まるの。別に隠してたわけじゃないけど、なんか、人から言われると恥ずかしい。
「……まあ、行けってさ」
ぼそっと答えると、照が少しだけ真面目な顔をした。
「そっか。でも、それでちゃんと勉強できるなら、いいことなんじゃね?」
「うーん……どうだろ」
そう答えながら、心の中で小さく思った。
――どうせ俺なんて、どこにも行けないよ。
けど、このままじゃ終わりたくないって気持ちも、ほんの少しだけ、確かにある気がしていた。
「正直さ……アニメ観る時間と、レッスンの時間削られるのが痛いんだけど」
それを聞いて、近くの席にいた照が吹き出した。
「お前それ真顔で言う? さすが佐久間、ブレないな〜」
「ははっ」
とふっかも笑って、小さな声で肩を揺らしていた。
「でもまあ、分かるわ」
とふっかが言う。
「あの時間って、勉強してる時よりずっと集中してるもんね」
「うん。むしろあの時間の俺に、英語の単語帳渡してくれればいいのに」
「絶対覚えないでしょ、それ」
照のつっこみに、俺も苦笑いした。
俺たちは週に何度か、学校が終わったあと決まった場所に集まってる。鏡張りの大きなスタジオで、ひたすら動き続けたり、台詞を読み込んだり、歌を合わせたり。決まった制服も、部活もない。けどその場所に集まるメンバーはみんな、ひとつの夢を追ってる。俺たち三人も、いつの間にかそこに一緒にいた。
クラスじゃ、それを知ってる人は少ない。むしろ、知られてない方が都合がいい。どんな顔して何をしてるかも、きっと想像されるよりもずっと地味で、ずっと真剣だから。
「予備校とか、レッスンのあとで行けるの?」
ふっかが不安そうに聞いた。
「うーん、なんとか時間ずらして夜のクラスにすれば……って感じ。でもそうするとアニメの録画もリアタイも無理……」
「そっちかよ」
また照が笑ってる。
でも、ほんとのところ。アニメのことも、もちろん大事だけど、それより心に引っかかってるのはやっぱり“向こうの時間”の方だ。
踊る時の高揚感。舞台の袖で出番を待つ時の鼓動。台詞のひとつひとつが自分の中に馴染んでいく感覚。
そういうのを少しずつ覚えて、積み上げてきたのに、受験勉強にその時間を持っていかれるのが、どうしても苦しい。
「でもまあ、行くしかないっしょ」
自分で言って、自分で納得しきれずに唇をかむ。
「……どうせ今のままじゃ、高校もないし」
そう呟いた俺に、照がふっと真面目な声で言った。
「でもさ。佐久間がやる気出したら、すごいと思うけどな」
不意に、心に風が吹き抜けたみたいだった。
「は?」
素っ気なく返してみたけど、照の目はどこか本気だった。
その視線がくすぐったくて、ちょっとだけ俯く。
「お前、集中するとすげぇから。あの曲のフォーメーション覚えた時とか、マジで誰より早かったし」
「あとさ、レッスンの終わった後でもアニメ何話も観てる体力、すごいと思う」
「それは褒めてんのか?」
ふっかに苦笑しながら小突いて、けど少しだけ心が軽くなった気がした。
こんな風にふざけてても、同じ時間を重ねてきた仲間。
同じステージを踏んで、同じ夢の端っこを見てるやつら。
学校ではただの同級生でも、どこかで俺たちはちゃんと繋がってる。
「……行くよ。予備校。俺なりに頑張る」
そう口に出してみたら、少しだけ背筋が伸びた。
「お、かっこいい! 佐久間やる気モード!」
「じゃあ俺らで見張りしとくわ。佐久間がアニメ観すぎないように」
「いやいや、やる気モードなのに監視されるの?」
「ところでさ、今日のレッスン……佐久間の分、欠席って伝えとくから」
「……え?」
照の何気ないひとことに、俺の中の何かが爆ぜた。
「は!? ちょ、マジで!? うそ、俺今日出たかったのに! やだやだやだ、まだ踊り足りてないんだけど!?」
「いやいや、予備校の初日でしょ。無理でしょ、時間的に」
「いやでも、今日のあの曲、振り最後のとこ揃えるって……!」
「落ち着け佐久間、そんなに暴れんな」
ふっかが半笑いで俺の肩を押さえつけるけど、もう気持ちは収まらない。
今日のレッスンは俺の楽しみにしてたやつだったのに。
「俺の分の立ち位置、誰か立っといてよ……っ」
「うん、まあ、がんばれ予備校生」
照の言葉が、どこか遠くに聞こえる。
チクショウ……予備校め……。
――――――――――――
駅前のロータリーに出た瞬間、人の多さに思わず目を細めた。
制服姿の高校生、スーツのサラリーマン、買い物帰りのおばちゃん。
みんなが別々の場所を目指して歩いているのに、なんとなく同じ風の中にいるような、不思議な感じがした。
「人、多いな……」
思わずこぼれた言葉は、自分にしか聞こえないくらい小さかった。
こうして一人で歩いてると、妙に静かな気持ちになる。普段は賑やかな場所に身を置いてるせいか、街のざわめきが逆に遠く感じた。
改札を抜けて、階段を上がって。
目指すのは、駅の近くにある大手の予備校。看板には大きく「合格へ導く」とかなんとか、でっかい文字が書かれていて、逆にプレッシャーが増す気しかしない。
――合格って、俺にもできるのか?
そんな疑問を心の奥に浮かべながら、交差点の信号が変わるのを待っていたときだった。ふと、胸の奥がそっとざわめいた。
……ふと思い出す。
あの夏の日のことを。
まだ小学三年か四年くらいのころ。両親が仕事で忙しくて、俺は一人、田舎にあるおじいちゃんの家に預けられた。
毎日、蝉の声が耳の奥に張りつくように響いていて、庭に咲いた朝顔の蔓がゆっくり伸びていた。時間が溶けていくような、長い長い夏。
――自由研究、なににしよう。
ある日、そんなことでひとり悩んでいた。おじいちゃんの家は静かで、テレビもつまらなくて、ノートを開いても白紙のまま。
このままじゃまずいと、小さな商店街にある古本屋と文房具が合体したような書店に行ってみたんだ。
棚を眺めていたとき、不意に肩がぶつかって、小さな「あ、ごめん」が聞こえた。
振り返ると、同い年くらいの男の子が立っていた。
涼しげな目元に、ちょっと緊張してるみたいな表情。だけど、どこか品のある静かな雰囲気を纏っていて――都会から来たんだろうか、なんて思った記憶がある。
その子は、理科の自由研究の本を手にしていた。
「それ、やるの?」
「うん……でも一人じゃ、よくわかんなくて」
気がつけば、俺たちは並んで本を見ていた。
気がつけば、いっしょに観察日記のテーマを考えていた。
気がつけば、虫取り網を持って、田んぼの近くで走り回っていた。
毎日、太陽の下で笑って、泥だらけになって、おやつのアイスを分け合って。
時間なんてどうでもよくなるくらい、あの夏は、まるで宝石みたいにキラキラしていた。
だけど、夏休みの終わりが近づいてくる。
「……帰らなきゃいけないんだ」
その言葉を聞いた時、胸がギュッと痛くなった。
帰る日、駅のホームで小さく手を振ったあの横顔は、きっと一生忘れない。
俺、泣きながら、電車の中で何度も何度も振り返ったっけ。
名前もちゃんと聞けなかった。連絡先も知らなかった。ただ、あの夏の記憶だけが、今も胸の奥で光っている。
角を曲がった瞬間、目の前に現れたのは――冷たく、現実を突きつけてくるようなコンクリートの建物だった。
○○進学予備校 本校舎
その看板のフォントが、なんだかやけに堅くて、空気まで固くしてる気がした。
「……はあ……」
思わず口から出たため息は、自分の鼓動に呑まれてすぐに消えた。
夢みたいな思い出に浸っていた頭の中に、現実の湿り気がゆっくりと入り込んでくる。俺は、これから受験生なんだ。逃げられない場所に、自分の足で来てしまった。
校舎の自動ドアがウィン、と音を立てて開く。
中は冷房が効いていて、外の蒸し暑さが嘘みたいに消えていた。けれど、俺の心はその冷たさに救われるどころか、むしろ余計に緊張で冷えきっていく。
受付で名前を告げ、名札シールと教室番号が書かれた紙を渡される。
「佐久間さん、2階のC教室になります。エレベーターを使っていただいて構いませんよ」
「あ、はい……ありがとうございます」
カバンを肩にかけ直して、俺は静かに階段をのぼった。ひとつひとつ、足がやけに重くて、自分の体なのに動かしてる気がしなかった。
2階の廊下に出ると、静かにざわめく空気が耳に届いてくる。
C教室。ドアのガラス窓から中を覗き、そっとドアを引いた。
中には、すでに十数人の生徒が座っていて、ノートを開いたり、問題集に向かっていた。
その中でも、すぐに目を引いたのは――教室の前の方、窓際の席。
男女二人が、寄り添うように並んで座っていた。
男の子が何かを指差しながら、女の子に静かに説明している。女の子は頷いたり、ふっと笑ったりしていて、その空間にはどこか柔らかくて、親密な空気が漂っていた。
……カップルで予備校通うとか、すご。
そんなこと思いながら、俺はできるだけ気にしないふりで、最後列の空いている席に腰を下ろした。
だけど――なぜか気になる。
もう一度だけ、そっと目をやる。
男の子が顔を少し傾けて、ノートの端を指差しながら言った。
「ここ、前のページのここにつながってる。分かった?」
「うん、たぶん。でもやっぱり難しいかも……」
「じゃあ、ここの公式思い出してみて。……ほら、あの歌みたいなやつ」
「……あ! あれか、『解の公式の歌』! それ言われたら覚えてる~!」
二人とも、控えめな声でやりとりしてるのに、不思議と教室のざわめきの中から彼らの声だけが耳に入ってきた。
そして――男の子がふっと笑った。
その横顔を、俺は見てしまった。
……あれ?
なんだ……この感じ。
どこかで……見たことがある。
ふいに、胸の奥がざわめいた。
なんの脈絡もなく、さっきまで思い出していた“あの夏”の記憶が、再び流れ込んでくる。
泥だらけで笑い合った夏。自由研究のテーマを一緒に考えた夏。
麦わら帽子と、絵の具のついたノートと、さよならの時の震える手。
――そうだ。
思い出した。
あの時、名前……聞いたんだ。
帰りの電車の中、ぎゅっと握った手の中に残った小さな紙切れに、丁寧な字で書いてあった。
「阿部ちゃん」
胸の中で、その名前が音を立てて蘇る。
そして今、目の前にいるのは――まさに、その少年の成長した姿だった。
名前を呼ぶことも、声をかけることもできず、ただ息をひそめて見つめることしかできなかった。
――再会って、突然くるんだな。
ぽかんとしながら眺めていると、女の子が口を開いた。
「私、今日ちょっと寝不足で……全然頭働かないから」
「夏帆、ちゃんと寝なよ。じゃないと、模試の時に落ちるよ?」
「いちいち正しいこと言わないで悔しい……!」
阿部ちゃんは、苦笑しながらも優しい目で夏帆って子を見ていた。
まるで、彼女みたいな雰囲気。
なのに、その優しい顔を見ていたら、不思議と胸がざわつく。
夏の終わりに、俺が置いてきたはずの想いが、また心の中で芽を出している気がした。
――――――講義が終わるチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気にゆるんだ。
ざわざわと立ち上がる椅子の音、筆箱を閉じる音、カバンのファスナーを引く音が重なって、みんなが“終わった”という安堵に包まれている。俺もその流れに紛れて、静かに立ち上がった。
気づかないふりをして、そっと教室の後ろのドアへ向かう。
ずっと気になってた。
講義中、ノートを取りながらも、思考の半分は前の席に置いてきたままだった。
でも、結局一度も――その方角を見ることはできなかった。
何かが崩れてしまう気がしたんだ。
あれが本当に“あの人”だったら。もう声なんてかけられないと思っていた。
……だけど。
「――もしかして……佐久間?」
その声が、背中から届いた瞬間、時が止まった気がした。
俺の名前を呼ぶ、あの音。
あの、優しいトーン。
まるで、昔と同じままの空気が、時間を超えて俺に触れてきた。
ゆっくりと振り返ると、そこにいたのは――あの席に座っていた、あの男の子。
ひとりだった。
女の子の姿は、もうどこにもなかった。けれど、そんなことよりも、目の前の彼の顔がすべてだった。
少し伸びた前髪の奥から、まっすぐに俺を見つめる瞳。
大人びた輪郭に成長したのに、笑ったときの目の形も、声の温度も、全然変わっていなかった。
「……え?」
間の抜けた声が、自分でも情けない。けど、それしか言えなかった。
頭が真っ白で、心だけがどんどん脈打っていく。
「ひさしぶり。……やっぱり、佐久間だよね?」
ああ、やっぱり。
この人は、間違いなく。
「……うん。……俺だよ」
たったそれだけの会話なのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
彼は、ふっと笑った。
柔らかくて、あの夏の光みたいで、少しだけまぶしい。
「まさか予備校で会うとは思わなかったよ。偶然ってあるんだね」
「ほんと、それ。俺もびっくりした。……一瞬、夢かと思った」
「うん、俺も。ずっと会ってなかったよね。最後って……あれ、小学生の頃?」
「夏休み。自由研究、一緒にやった……あのとき」
「うん。すっごい覚えてる。毎日虫取りして、絵描いて、川で遊んで。楽しかったな」
「アイス、二人で一口ずつ食べたよな。ラムネのやつ」
「そうそう! あとさ、夜に花火やって、すぐ消えちゃったやつ」
「線香花火、三秒持たなかったやつ」
思い出すたびに、笑いがこみ上げる。
どれも全部、小さな出来事だったはずなのに、心の奥に残ってるのは、やっぱり“楽しかった”って感情だけだった。
「……なんか、声かけてくれてありがとう」
素直に言えた。そう思えた。
「俺こそ。ずっと似てるなーって思ってたけど、話しかけるの、ちょっとドキドキした」
「俺もだよ。もし違ったら、恥ずかしすぎて死んでた」
二人して、小さく笑い合う。
教室のざわめきの中に、ぽつんと浮かぶ静かな島みたいな時間。
「佐久間、帰り……少し歩かない? 話したいこと、いっぱいある気がする」
「……うん。俺も、話したい」
たわいもない話で笑い合った昔と同じように。
こうして、また言葉を交わせる日が来るなんて。
予備校に行くのが嫌でたまらなかった朝の自分に、今ならこう言える。
来て、よかった。
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