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route3 花魁坂京夜
(やっぱ出よう)
無陀野ではないが考えている時間が無駄だ。連中に遭遇したって動けるなら逃げるなり戦うなり出来るはずだし、その前に誰かに助けを求められるかもしれない。四季にとってデメリットはそう無い。
かけたばかりの鍵を外して、少し開けた扉の隙間から周りを見渡した。目に見える範囲に人がいないことを確認すると、するりと部屋から抜け出て走りだした。内側から徐々に身体が熱くなってきているのがわかるがまだ走れる。
(けどここどこだよっ?)
地の利がまったく無い場所をひとりで走り回るなんて自殺行為だ。しかもこんな時に限って誰ともすれ違わない。みんなどこに行ったのだろうか?
「うわっ」
「あれ、四季くん?」
辺りを見渡しながら走っていたら誰かと正面からぶつかった。たたらを踏んで顔を上げるとそこにいたのは並木度馨。天の助けだと四季が拝んだのも無理はないだろう。四季は不思議そうな顔をした馨の腕を掴んで一番の用件を伝えた。
「あ、あのさ! ここどこっ? いやそれより京夜先生どこにいるか知ってる!?」
「花魁坂さんなら処置室にいるはずだよ」
「ど、どこの処置室? 俺迷っちゃって……」
「ああ、そうなんだ。案内するよ。すぐ近くだから」
馨の優しい微笑みに四季はほっと胸を撫でおろした。良かった、なんとか間に合ったんだ。一時はどうなることかと思ったが、やはり早めに部屋を抜け出して正解だったのだ。
案内された場所は馨の言う通りかなり近かった。あそこから五十メートルも離れていないだろう。用事があるという馨と部屋の前で別れ、ノックをしてから中に入ると、そこには京夜しかいなかった。笑顔で出迎えられて不思議と目尻が潤んできた。嫌な奴に嫌な目に合わされて気が緩んだのかもしれない。身体の熱まで一気に上がった。
「あれ……なん、で……」
「! 四季くん、こっちにおいで」
状況を察したらしい京夜に手を引かれ、入口から一番遠い奥のベッドに連れていかれた。すぐに薬と水を手渡され震える手で飲み干す。すぐに効き目が出るわけではないため、まだ身体は熱いままだったが、薬を飲んだという安心感に少しだけ心の余裕が出てくる。
「僕は一旦外に出ておくね。人払いはしておくから。これスマホ。なにかあったら誰でもいいから呼んでね」
「ま、待ってくれ!」
「え?」
京夜もαだ。発情した四季の近くにいてなにかあってからでは遅い。理屈はわかっているのだが、正直今はひとりになりたくなかった。四季を発情させたアイツらがいつこの部屋に来てもおかしくない。発情の怠さで満足に身動きもとれない以上、今見つかったら確実に逃げられない。もし捕まったらなにをされるか。誰でもいいから傍にいてほしかった。
「……ねえ四季くん、もしかしてなにかあったのかな」
「え……」
「今無理して喋らなくてもいいけど、それ、本当に自然の発情なのかなって」
「……」
実は薬を盛られましたなんて、言ってもいいのだろうか。なんだか告げ口みたいで気分が悪い。卑怯なことをしているのはアイツらのほうなのだから、四季が気にする必要はないはずなのに。けれどここで言ってしまったら負けたような気分になる。自分ひとりで
対処出来ないから、大人にいいつけたのだろうと受け取られたりしていたらムカつくどころの話じゃない。喧嘩は舐められたら終わりだ。
「……なんも、ない。たぶん、フェロモン、が……安定、しない、とか、だと思う、から……」
「……ふーん、そっか」
京夜はそれ以上聞かなかったが、四季が嘘をついているのはなんとなくわかるんだろうなと思った。俺が先生みたいな大人だったら、あんな奴らもっとスマートに対処出来てたのに。
頭も身体も熱くてうまく働かない。なんでこんな目に合わなきゃならないんだろう。もう疲れた。
「うっ……ぐすっ……」
「四季くんっ? どっか苦しいの? それとも痛い?」
「はっ……ちが……そうじゃ、なくて……ごめん……」
「え? なんで謝るの? 具合悪い人を診るのは俺の仕事だし……」
「おれ……京夜せんせ、に……甘えて、ばっかだって、思って……」
京都で唾切のフェロモンで無理やり発情した時も、ひとりになりたくないなんて身勝手な理由で京夜に縋った。今もひとりになってアイツらに見つかりたくない、仮に見つかっても対処してくれる第三者がいてほしいなんて理由でまた彼に縋っている。どうしようもない甘ったれだ。
「……ごめんなさい……」
「……一回眠ろうか」
京夜が四季の腕を伸ばし、慣れた手つきでさっと注射器の針を刺した。途端に睡魔が襲ってきて、四季の意識は強制的に暗闇の底へ沈んで行った。
「……っ、うっわ!」
「あ、起きたね」
瞼を開けたら派手な美形が目の前にいて驚いた。慌てて上半身を起こし首を回して辺りを確認すると、練馬の偵察部隊の拠点の処置室だった。そういえば鎮静剤かなにかを打たれて眠ってしまったんだった。
「身体の具合はどう?」
「あ……大丈夫……」
今度は強がりではない。薬が効いて熱はすっかり引いたようだ。しかし身体の怠さというか疲れは残ったままだ。一生これに付き合わなければならないと思うと憂鬱だった。
前髪をくしゃりとかき上げてため息を吐く四季に、京夜は静かに言った。
「……ねえ四季くん」
「なに?」
「良かったら僕たち番になろうか」
「……は?」
あまりに軽く言われたから聞き間違いかと思った。思わず顔を見ると京夜は優しく微笑んで四季を見ている。どういう感情の表情だそれは。
「……今番になるって言った?」
「言ったよ」
「誰と誰が?」
「四季くんと、僕が」
「なんで?」
「んー……、君が好きだから?」
「……」
なにを言っているんだこのチャラ男は。いくら恋愛経験皆無でも、そんな言葉に惑わされるほどウブではないつもりだ。白けた視線を向ける四季に気づいた京夜はわざとらしいくらいの笑顔で尚も告げた。
「まああくまで選択肢のひとつだよ。ダノッチと番になる気がないなら僕でもいいんじゃない? ってだけ」
「……そんな軽さで決めていいのかよ」
「いいんじゃない? 番契約が出来るのはαとΩだけなのに、Ωがかなり希少だから、生涯番を作らないαも多い。俺だって作るつもりなかったしね」
Ωにとって番の有無は、自身の発情の調整に重要な存在だが、αにとっては番なんていてもいなくても大して変わらない。こんなところにも格差があるのだ、αとΩには。
「もちろん、君が俺を受け入れてくれるなら、なによりも大事にするよ? 途中で契約を切ったりも当然しない。こう見えて一途なんだ」
「なんで……」
「四季くんの力になりたい」
「……」
「今すぐ決めろなんて言わないさ。君はまだ若い。後々君の意思で番になりたいって人が現れるかもしれないしね」
こんな風に四季に言ってくれる人が、今後現れるのだろうか?
正直かなり揺らいでいた。まだ出会ってそんなに経っていないが、この人は信用できるという気持ちは確かに芽生えつつある。けれど本当にそれでいいのかと自分に問う気持ちがあるのも否定出来ない。けれど選択肢にいれるくらいならーー。
「……わかった、考えとく」
「え、本当?」
「まだ受けるかどうかは迷ってるけど……選択肢には入れとく……。いいんだよな?」
「もちろんだよ。だから――自分は孤独だなんて思わないでね。君が困った時、助けてほしい時に手を伸ばしてくれる相手がいることを忘れないで」
「うん……」
頭を撫でてくれる大きな手のひらに強い安心感を覚えた。この人はこの手で、血で多くの患者を救ってきたんだ。
優しい人だ。このまま身を委ねてしまいそうになる。自分はそれだけ追い詰められていたのだろうか。
抱えた膝に頭を埋める四季に、京夜は優しく問いかけた。
「もう少し眠る?」
「……そんな時間あんの?」
「少しだけならね。時間になったら起こすよ」
「ん……」
まだ怠さが残っていたから正直有難い。その言葉に素直に甘えることにして、四季は再び横になった。
「なぁ……手、握っててくんね?」
「ん? ふふ、いいよ」
四季の手を包みこむ骨ばった大きな手。温かくて、気持ちが良い。繋いだ場所から熱が身体中に浸透するようだ。
その温かさに抗うことなく、四季は眠りの世界に落ちていった。
それから京夜が羅刹の保健医に就任したことで共に過ごす時間が格段に増えた。大体が無陀野や他の生徒たちも一緒だったが、偶然でもたまにふたりきりになったりするとなんだか嬉しかった。今日は放課後が空き時間だったため遊びに来たら快く歓迎してくれた。
「そうだ、そろそろ話しておかないとね」
「ん、なに?」
「発情期について」
「ぶっ、は、発情期っ!?」
思わず飲んでいたお茶を噴き出しかけた。まったくそんな雰囲気ではなかったのに。驚いたけれど、しかし大事な話なのはわかっている。Ωである四季にとっては一生付き合わなければならない問題だ。
「大丈夫? まあ嫌な話題だよね……でもさ、もういつ来てもおかしくないんだよね。発情期はΩの遺伝子情報に組み込まれてるもので、回避する方法は無い。Ωとしての能力が弱かったりする人の中には症状がほとんど無いって人もいるみたいだけど、そういうのは稀だし、四季くんの場合はあまり期待できないかな」
「……そっかぁ」
「……俺としては、発情期中の四季くんの相手をすることも吝かじゃないんだけど?」
「なっ、なに言ってんだよっ!」
やたらと色気のある流し目でそんなことを言われて、四季の顔が真っ赤に染まった。発情期中の相手、ということはセックスの相手だ。番でもない相手にそんなことを任せられるわけがない。それになにより教師と生徒、大人と子供。色々アウトなことが多すぎる。
「はは、なに想像してるの? 身の回りのお世話のことだよ~」
「はあ!?」
「あはは、まあそっちの相手でもいいっちゃいいけどね」
「あんた教師だろ!」
「愛があれば歳の差なんてって言うよね。あれって曲のタイトルだっけ?」
「知らねぇよ!」
京夜はこうやってよく四季を揶揄ってくる。一緒にいるのは楽しいがこういう揶揄いは慣れなくて戸惑ってしまう。こういう時やはり自分が子供であると自覚するのだ。
「本当ウブだよね~。そういうところも可愛いんだけどね。――はいこれ。発情期に飲む用の強めの薬。副作用の可能性もあるから、通常時は飲まないようにね」
「ん……サンキュ」
「発情期中は校長先生の私室を貸してもらえるそうだから安心してね」
「私室? そんなのいいのかよ」
「あの人、学園中に隠し部屋的なものがあるんだよ。その中のひとつを提供してくれるんだって。周りにフェロモンを撒かないようにしてくれるんだろうし、甘えちゃいなよ」
「まあ助かるし……本人が貸してくれるってんならいいか」
「そうそう。僕も時々様子見に行くし、君に不自由な思いはさせないからね」
礼を言って薬の入った袋を受け取り、保健室を出る。発情期そのものは憂鬱だが、周りが四季のために色々心を砕いてくれていることがわかるから、なんとか心穏やかでいられる。自分は恵まれていると感じられるのだ。
(変な連中のやっかみとかもあったりすっけど……あれくらい全然なんともないし)
そもそも四季に嫌がらせなんてしてくる連中は、もう機関に所属して外で働いている者たちなのだ。学園内にいるうちは危険はないので別にどうということもない。
「……四季?」
「うん? あ、ムダ先じゃん」
寮に戻るために校舎と繋がっている渡り廊下を歩いていると、向かいから無陀野が歩いていた。どうやら彼は四季とは逆に寮から学校に戻るところらしい。教師として色々やることもあるのだろう。大変だ。
「これからまた仕事か? お疲れ!」
「ああ。……お前は京夜のところに行っていたのか」
「え、ああ、うん。……発情期になった時の話とか、してた」
「もういつ来てもおかしくないからな」
無陀野は無表情で頷いた。そういえば彼はどこまで知っているのだろう。京夜は自分が四季の番に立候補していることを無陀野に話しているのだろうか。四季がなにか言うのは違う気がするから、四季からはなにも言うつもりはないが――。
「そういうことみたい。先生の手は煩わせないからさ、大丈夫――」
「四季」
「? なに?」
「どうするかはお前次第だが一応言っておこう。俺に気を遣う必要はないぞ」
「え?」
「京夜のことだ」
まさか無陀野のほうから触れてくるとは思わなくて驚いた。というかやはり話をしていたのか。
「京夜はああ見えて誠実な男だ。お前のことも大事にしてくれる」
「……うん……」
「もしも万が一があったら俺が責任を持って制裁する」
「ははっ……ありがとな……ムダ先」
四季の手の中で薬が入った袋が音を立てて揺れる。無陀野に言われなくとも、京夜のことはちゃんと前向きに考えている。答えを出すのは卒業してからでも遅くはないと思っていただけだ。
今思えば、この時の四季はある意味平和ボケしていたのだ。
「はあっ……、はあっ……」
今四季はどこかの林の中をひたすら走り回っていた。目的地があるわけではない。ただ追手を撒くのが目的だ。しかしこの攻防は長くは続かないだろう。αフェロモンにより無理やり発情させられている身体では体力の消耗が激しすぎるし、身体がうまく動かない。現にもう既に足が限界を訴えていた。
(信じらんねぇアイツら……!)
鬼機関の中に、裏切り者がいた。桃太郎と手を結び、四季を嵌めようとしたのだ。αの桃太郎のフェロモンで四季を強制的に発情させ、襲わせようとしてきた。一度はなんとか逃げられたが、どんどん発情が強くなっている今捕まったら今度こそ逃げられない。幸いスマホは無事だが今はかけている余裕が無い。どこかに隠れて隙を見てかけるしかないが――。
「あっあれは――」
木の陰に隠れて小さな小屋が見える。後ろからは誰の気配もしない。今がチャンスだ。四季は不用心にも鍵のかかっていない扉を開け、中に入ると震える手でスマホを取り出し一番上に表示されている番号をタップした。プルルルル、と無機質な機械音が二回鳴ったところで相手が出た。
『もしもしっ? 四季くん?』
「はっ、はあっ……きょ、や、せん……、たすけ……」
『……もしかして発情してる? 待ってて今位置情報共有するから――』
「……みーつけた」
「!!」
最悪だ、四季を追っていた桃太郎に見つかってしまった。扉を強引に開け放し、四季は桃太郎に首根っこを掴まれて持ち上げられた。反動でスマホは手から滑り落ち、大きな音を立てて床に転がった。画面が割れる軽い音がやけに耳に残った。
「はなせよ……っ」
「そんなこと言われて素直に離す馬鹿がいるか? お前にはこれから屈辱を味わってもらう」
「くつじょく……?」
「Ωなら大体想像がつくだろう」
「……っ!」
男は首を掴んだまま四季を床に叩きつけた。頭を打ちつけたせいでくらくらしている間に、男は四季の背中に乗り上げマウントをとった。ぐいっと後ろ襟を下げられたことでこの男の意図が本能でわかってしまい、四季は必死に抵抗した。しかし発情や走り回ったことで体力を奪われている状態ではろくに動けない。
「お前っ、やめろ……っ」
「別に今は殺さない。お前には色々実験したいからな」
冗談じゃない。こんな男に好きにされてたまるか。
けれど頭がぼうっとして集中出来ないせいで血も使えないし、身体も動かない。四季に出来ることはもうなにもなかった。
「やっ、め……っ」
「とりあえず、研究のひとつとして項を噛ませてもらおう。Ωは一度番を解除されたら二度と番契約が出来なくなるんだろ? そのメカニズムも知りたいからな」
「いやだ……っ」
男のαフェロモンが強くなる。胎の底からマグマのような熱がぐつぐつとせりあがってきて意識が混濁する。性欲のこと以外なにも考えられなくなる。
(京夜、先生……っ)
項に感じた痛みに涙を流しながら、四季はこれが夢ならいいのにと願い意識を手放した。
鼻腔を擽る、アロマかなにかの花のような匂い。意識はあるのに身体が怠すぎて瞼が開かない。頭も熱っぽい気がする。身体の感じからして発情は抜けているようではあるが、疲れが出ているのかもしれない。軽く身動ぎすると、上からよく知っている声が降ってきた。
「意識が戻ったのか?」
「四季くん!?」
閉じたがる瞼を重力に逆らって無理やりこじ開けると、そこには心配そうに四季を見下ろす京夜がいた。後ろには無陀野や真澄の姿も見える。あそこから仲間たちの元に帰ってこれたのか? 夢じゃない?
「スマホのGPS機能を使って場所を特定したんだよ。一番近い場所にいたのがダノッチで本当に良かった」
「――良くはないだろう。あの桃は殺したが……間に合わなかった」
「――!」
無陀野の瞳に見える痛々しい色を見て思い出す。そうだ。俺はあの桃太郎に――。
思い出したら項がズキズキと痛みを訴えてきた。確実に噛まれたのだ。あの桃太郎に。
「……四季くん、今話せるかな? どこまで憶えてる?」
「……かまれた、のは、おぼえてる……。そこできぃうしなって……」
「聞くのも酷だろうが、お前はその時点であの桃との番契約が成立した。そして今は解除されている。その理由がわかるな?」
「……うん……」
番契約はαがΩの項を噛む事で成立する。そして番相手のαが再度項を噛むと契約が解除される。そうなった場合、αは特別なにもないが、Ωは二度と誰とも番契約が出来なくなってしまう。それだけならばまだ良かった。最悪なのがαフェロモンを完全に受け付けなくなってしまうことだ。少し嗅いだだけで気分が悪くなり、嘔吐したり倒れたりすることもある。番解除のメカニズムもわかっていないのだから、特効薬などもちろんない。
そんな状態に、四季はなってしまったのだ。正直頭がぼうっとして、まだそんな実感がわかない。けれど京夜に対する申し訳なさはずっと感じていた。考えるって言ったのに。
「きょうや……せんせ……ごめん」
「なんで謝るの? 君は被害者なのに」
「だって……かんがえるって……でも、……も、せんたくしにも……」
「……四季くん」
京夜の大きな手のひらが四季の手を包みこむ。温かくて、優しい手、大好きな手。
「関係ないよ、そんなこと」
「え……」
「確かに目に見える形での契約は出来なくなったけど、番は本来心で結ぶものだ。お互いが番だと思っていれば、形に拘る必要なんかないんじゃないかな」
「せんせ……」
「四季くんが好きだよ。君さえ良ければずっと一緒にいよう。『番』として、恋人として」
「……っ」
言葉にならなかった。未だ怠い身体に鞭打って腕を伸ばすと、そっと抱き抱えられた。無陀野と真澄にずっと見られていることも、もう関係ないと思えるくらい、目の前の人のことで胸がいっぱいだった。広くて大きな腕の中でひたすら安心感を感じていた。
それから数か月後。無事に羅刹を卒業した四季は、どこにも所属しないフリーの戦闘員になった。けれど完全に駄目になってしまったαフェロモンの対策のために羅刹を拠点にさせてもらっており、要請が無い時は京夜や無陀野の手伝いをしながら日々の生活を送っている。
「αにも抑制剤なんてあったんだな」
「本来はΩフェロモン対策に使うものなんだけどね」
あの日から京夜と無陀野はαフェロモンを抑えるα用の抑制剤を飲んでいる。無陀野にまで飲ませるのは巻き込んでしまったようで申し訳ない気持ちになったが、本人は別に気にしていないようだったのであれこれ言うのはやめにした。
京夜との関係は順調だ。最初こそ流されたのだとか同情だとか色々悩みはしたが、今ははっきりと言える。この男を愛していると。
「君の隣で生きていくためならこんなのなんでもないから」
四季の項には一生消えない傷痕がある。鬼の回復力でも、京夜の能力を持ってしても治せないそれはまるで呪いのようだ。けれど京夜はこの傷ごと四季を丸ごと包んで愛してくれる。だから四季も自分のすべてで京夜を愛すると決めている。京夜の元に帰ってくることをモチベーションに、今日も四季は要請のあった土地で桃太郎と戦う。首元で光る、チェーンを通したリングを揺らしながら。