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人身売買組織の一員でその罪を償う為に命を落としたゾフィーが、息苦しさに霞む視界の向こうで哀しそうに顔を伏せて肩を震わせていた。
そんな顔をする必要はない、罪を犯したのならば償えばいいとリオンが手を伸ばして呼びかけようとするが、そのリオンの前に得体の知れない黒い人影が現れたかと思うと、耳を塞ぎたくなるようなゾフィーの悲鳴が響き渡る。
助けてリオンと叫んで人影の向こうから手を伸ばすゾフィーに駆け寄ろうとしたが、一歩足を踏み出す度に胸を踏みつけられた時のような痛みを感じ、その場から動けなくなってしまう。
胸が痛くて蹲り、それでもゾフィーを、姉を助けたい一心で顔を上げたリオンの前では、先日見せられた動画の内容が繰り返されていて、気がつけばゾフィーの顔が腫れ上がり白い素肌には無残な痣が浮かび、人影の身体を挟むように痣に彩られた白い足が力なく上下に揺れていて何をしているのかを否が応でも想像させていた。
見たくないと叫ぶ心と見届けろと喚く心が、お前の姉は罪を犯したのだから身体で償うのが当然だと冷たい叫びに覆われ混ざり合い、くすんだ金髪に両手を突っ込んで声を挙げようと口を開くが、出てくるものは音でも声でもなくただの呼気の固まりで、それを吐き出した時、今まで経験した事がないような胸の痛みに襲われる。
目の前で姉をレイプされながら自分はどうすることも出来ず、その後悔と胸の痛みで死んでしまう、そうぼんやりと考えた瞬間、自然と心の裡に入り込む不思議な声が聞こえてくる。
息を吸え、今は何も考えず見ることなくただ息を吸えと声に促され、上手くできないどうすれば息を吸えるのかが分からないと悲鳴じみた声を発したリオンだったが、大丈夫だお前ならば出来る、大丈夫と優しく促され、その言葉に従う様に小さく息を吸うと胸の痛みが少しだけ和らぐ。
その声に従えば救われると本能が察知したのか何度も息を吸い込もうとするが、慌てる必要はない、小さくゆっくり息を吸えばいいと宥められ、すべてを委ねるように浅い呼吸を繰り返したリオンは、目の前にいた人影もゾフィーもいつの間にか姿を消していることに気付き、汗がびっしりと浮く顔を上げてゾフィーを探す。
何処にいる、何処に行ったんだと目を凝らしても何も見えず、いついかなる時でも傍にいた筈のゾフィーがいない不安に身体を震わせたリオンは、幼い頃から本能的に感じ取っていた孤独への恐怖が突如沸き起こってきたことに気付いてしまい、身体の震えを抑えられなくなってしまう。
独りはいやだった。いつも必ずマザー・カタリーナやゾフィーがいてくれたのに、何故自分はこんな所で一人きりなのか。
独りはいやだった。
喉がかれるほどの声でゾフィーを呼んでも返事はなく、マザー・カタリーナを苛立ち紛れに呼んでも誰も答えてくれず、苛立ちから大声を上げて身体を折り曲げたリオンは、背中を暖かな何かが覆った事に気付き、藁をも掴む思いで振り返って暖かな何かに腕を伸ばす。
嫌だ、独りにしないでくれ。独りは嫌だと無意識に叫び、縋った温もりが背中だけではなく全身を覆うようになったと気付いた瞬間、馴染みのある匂いを感じ取ってぼんやりとその匂いの正体を探る。
その匂いは爽やかさを感じさせるものだったが、その中に揺るぎない凛としたものも感じさせてくれるもので、そうと気付いたリオンの脳裏に、穏やかな力強さと限りない温かさで己を包んでくれる人の顔が思い浮かび、先程聞こえてきた声と今全身で感じ取っている温もりがその人がもたらしてくれたものだと知ったリオンは、喉を振り絞るようにその名を呼び、ゾフィーを助けてくれと、たった今己を助けてくれたようにゾフィーを助けてくれと叫ぶ。
誰か、ゾフィーを、大切な俺の家族を助けてくれと叫んだリオンだが、無理だと冷たく笑う誰かの声に身体を震わせ、それを掻き消すように大声を上げ続けるのだった。
「ぁああああ!」
医療室のベッドで苦しそうに肩を上下させ、譫言のようにゾフィーの名を呼んだり意味のない言葉を発していたリオンだったが、ウーヴェが丸められた背中や腕を撫でて身体の緊張だけでも解そうとしていた時、バネ仕掛けの何かのようにリオンの上体が跳ね上がったかと思うと、ベッドから転がり落ちてしまう。
「リオン!」
ウーヴェと一緒にリオンの様子を見守っていたダニエラはその動きに驚いて悲鳴を上げるが、色が変わるほど握りしめた拳を胸の前で震わせ、目を見開いてがちがちと歯を鳴らすリオンを直視できずに後退って壁に背中をぶつける。
「ダニエラ、悪いがリオンと二人にしてくれないか」
「ドク、でも、リオンが……」
「分かっている。だから二人にして欲しい」
出来ればここから聞こえる声もあまり聞かせたくないから離れていてくれと、さすがに冷や汗を浮かべながらダニエラに願いを伝えたウーヴェは、唾を飲み込んで頭を上下に振る彼女に礼を言い、終わればこちらから連絡を入れるからそれまでは絶対に誰もこの部屋に近づけるなと念を押して彼女が出て行くのも確かめずにリオンの傍に膝をつく。
「リオン、リオン!」
己の声に反応したリオンに胸を撫で下ろそうとしたその時、リオンの身体が跳ね上がったかと思うと、驚きに目を瞠るウーヴェを床に押し倒してその身体に跨がる。
「――!」
日頃の診察でもここまで危険を感じさせる相手とはそうそう出会うことはなく、また相手がリオンだった為に危険なことにはならないと思っていたが、押し倒されて顔の傍に手をつきながら狂気が宿ったような目で見下ろされると身体の芯から震えが沸き起こりそうになり、肩の辺りに投げ出している両手を握りしめる。
見下ろすリオンの瞳は何かの強迫観念に取り憑かれているような危険な光を宿していて直視したくは無かったが、その思いと同じだけ目を逸らせてはいけない思いがわき起こり握りしめた拳を開いたウーヴェは、苦しそうに息をするリオンの頬に両手を宛がい、決して目を逸らすことも見放すこともしないと告げる代わりにウーヴェだけが呼べる名を呼んで正気に戻ってくれと強く願う。
「リーオ」
その短い言葉がリオンの耳に入り心の何処かに届いたのか、蒼い瞳に宿った狂気が薄れていき、程なくしてリオンの口から小さな声が流れ出す。
「……オー……ヴェ……」
「ああ」
もう胸は痛まないか、息は出来るかと問いかけようと頭を擡げたウーヴェは、リオンの頭が項垂れるように己の肩に載せられたことに気付き、頬を挟んでいた手を肩と背中に回すと、腕の中で一回り細くなったような背中がひとつ震え、耳元で荒い呼吸が繰り返される。
「オー……ヴェ……、ど、うな……って……?」
「リオン、息を吸うんだ。落ち着け。大丈夫だ」
息が出来ない、苦しい、胸が痛いと訴えるリオンに過呼吸の発作を起こさせないように気を配りつつ落ち着けと何度も繰り返し、少し呼吸が楽になったように感じて安堵するが、俄には信じられない-どちらかと言えば信じたくはない-言葉が耳に入り込んで目を瞠る。
「……ゾフィーが……死んだ……」
その言葉を否定することも肯定することも出来ずにただリオンの背中を抱いていたウーヴェは、ゾフィーが死んだ、死んだんだと繰り返すリオンに危機感を抱き、肩に押し当てている頭を抱き寄せてもう分かったと告げるが、壊れたラジオのようにリオンがただ無機質な声でゾフィーが死んだと繰り返す。
「……独りにしねぇって……いつもホームに帰ったらいるって……いつで、も……帰って……来いって言ってたのに……!」
いつでも帰って来い、好きなだけドーナツを食べさせてあげると笑って出迎えてくれた筈のゾフィーが死んだと呟き、ウーヴェの顔の傍の床を殴る手を止めさせる為に制止の声を挙げるが、リオンの口からはその言葉が幾度となく繰り返され、歯を噛み締めたウーヴェが背中を強く抱く。
「オーヴェ……いねぇんだ……」
「……ああ」
「ゾフィーが……いねぇ……!」
いつも名前を呼べばすぐに駆けつけてくれたはずなのに、どうしてこんなにも呼んでいるのにゾフィーはやってこないんだと、すべての怒りを込めてリオンが叫ぶ。
「オーヴェ、ゾフィーが……ゾフィーがいねぇ……!」
繰り返される同じ言葉をただ聞くしかできないウーヴェは、床を殴る手だけでも止めようと全身に力を込めて寝返りを打ち、体中を怒りと悲しみと絶望に震わせながらゾフィーがいないと叫ぶリオンの血塗れの包帯が巻かれた手と新たに傷を負った手を渾身の力で床に押しつけて動けないようにすると、ぎりぎりまで顔を寄せて蒼い瞳に語りかける。
「シスター・ゾフィーが亡くなったのか?」
「……ちが、う……いなくなった……だ、け……」
「彼女が遺体で発見されたんだな?」
「ちが、う……!」
己は死んだことを繰り返すリオンだがウーヴェの言葉はすぐさま否定をし、ゾフィーは出て行っただけだすぐに帰ってくると悲痛な声で返すが、その度にウーヴェが根気強く彼女は亡くなったんだなと繰り返すと、ギリギリとリオンが歯噛みをする。
「死んで……ねぇ……!」
ゾフィーは死んでいない、誰もそんなことは信じないと歯軋りの後に叫んでウーヴェの身体をはね除けようと身を捩ろうとしたリオンだが、ウーヴェが渾身の力で押さえつけたために悔しそうにウーヴェを睨み付ける。
「ゾフィーは死んでねぇ……っ」
自分を一人にするはずがない、そう叫んだリオンにウーヴェが落ち着いた、だが疑う事を許さない声で彼女が発見されたんだなと問いかけてリオンの口を閉ざさせる。
受け入れがたい事実を受け入れさせるには本人がその事実と向かいあい認めなければならないが、このままだとリオンは姉を喪った事実を生涯認めることが出来なくなる可能性に自然と身体が震える。
たとえどれ程辛かろうが苦しかろうがここで事実を認めなければ、現実とのギャップからゾフィーの存在そのものを消して己を護ろうとする可能性もあり、その恐怖に深呼吸を繰り返したウーヴェは、己に落ち着けと言い聞かせながらリオンを見下ろす。
「リーオ……彼女に会いに行こう」
彼女がいないと叫ぶだけではなく自ら行動をしようと告げてリオンを驚かせたウーヴェがゾフィーに会いに行こうともう一度告げると、何処にいるんだとリオンが一瞬嬉しそうに呟くが、何かを思い出したのか唇を噛んできつく目を閉じる。
その様子から己の中でもゾフィーが死んだ事実を認めようとしているのだと気付き、額に手を宛てて髪を撫で付けると、姿を見せた額にキスをする。
「――リーオ」
その言葉にリオンの肩と喉仏も上下に揺れて感情がもたらす身体の変化を伝えるが、ウーヴェが密かに期待し予測していた涙が流れることはなく、代わりに手が握りしめられ歯を噛み締めて必死に溢れ出す感情を堪えてしまう。
辛い時には泣けばいいと誰に対してもウーヴェはその言葉を告げていたが、今もまたリオンの心を少しでも軽くする為に泣けばいいと告げるが、その言葉が届いているはずなのにリオンの目から涙は流れることはなかった。
幼い頃からきっと泣きたいと思っても泣いてはいけない、泣けないんだと思い込んで涙を堪えてきたことが容易く想像出来てしまい、その辛さに目を閉じたウーヴェの脳裏に蹲って悲しみに身体を震わせるリオンの姿が浮かび上がり、その小さな背中が哀しくて辛くて、その時その場にいなくて出来なかったことを今しようとリオンの背中を抱きしめる。
悲しい時には悲しいと泣けばいい、無理に堪える必要はないと囁きかけて心と身体の動きを観察するが、握られている拳がゆっくりと持ち上がってウーヴェの背中に回された以外、噛み締められた歯もきつく閉ざされた瞼も開くことは無かった。
「我慢するのならすれば良い」
ここでどうしても感情を出せないと言うのであれば我慢をすればいいが、家に帰って二人きりになったときは絶対に何があっても我慢するなと強く命じたウーヴェにリオンが震える呼気を吐きだして震える声でゾフィーを呼ぶ。
その声に胸を締め付けられて息苦しさを感じながらも背中を抱く手を離すことは出来ず、リオンがひとまず落ち着くまでウーヴェはリオンを抱いたまま床に横たわっているのだった。
放心の体のリオンをベッドに寝かせて一つ溜息をついたウーヴェはリオンの髪を撫でて汗が浮く額をシャツの袖で拭いてキスをし、ダニエラを呼ぶために部屋を出て行こうとするが、立ち上がったウーヴェのシャツをリオンが掴んで引き留める。「どうした?」
「…………ゾフィー……会いて……ぇ……」
か細くて震える声だったがそれでも先程とは違って自らの意思で彼女に会いに行きたいと呟くリオンにウーヴェが己のシャツを掴む手を撫でてそうしようと答え、ベッドに腰を下ろしてリオンを見下ろすと、寝返りを打ったリオンの身体がウーヴェに擦り寄り、腰にしっかりと腕を回して顔を押しつけてくる。
「……会いに行こうか」
その仕草が幼い子どもの頃の想像でしか見たことのないリオンの姿と重なり、肩を撫でて髪を撫で頬にキスをして会いに行こうと囁きかけた時、ドアがノックされて声が掛けられる。
その声がダニエラではなくヒンケルだった為にウーヴェが足下に丸まっていたシーツを手繰り寄せてリオンの上半身に被せようとするが、それよりも早くにリオンが身体を起こして己の頬を両手でひとつ叩くと、胡座を掻いてベッドに座り込む。
甘えるような姿はウーヴェの前でだけであり、己の上司に対してまで先程の子どものような姿を見せることは良しとしないことを態度で示し、驚くウーヴェを意味ありげに見つめた後、どうぞーと暢気な声を挙げる。
「リオン、もう良いのか?」
「心配かけました」
自分自身あまり覚えていないが心配を掛けて悪かったと謝罪をし、苦笑するウーヴェの手をヒンケルに見えないように引き寄せると、シーツの下でぎゅっと握りしめる。
己の弱い姿を人に見せるつもりはないことをリオンのそれから感じ取ったウーヴェは何も言わずに手を握られる痛みを顔に出さずに堪え、ヒンケルに肩を竦めて今はとりあえず大丈夫だと告げると、重い溜息を吐いてヒンケルが腕を組み壁にもたれ掛かる。
「どうしたんですか、ボス」
「……ドクがこの間ロスラーに気をつけろと言っていたが、ヤツが姿を消した」
「!?」
先日、ゾフィーの手帳を皆で調べている時、ただ一人落ち着きを無くしてそわそわしているロスラーにウーヴェが気付いてヒンケルに注意を払うように伝えていたが、その彼が姿を消して連絡がつかなくなったことを告げるとリオンが目を瞠る。
「どういうことですか?」
「フランクフルトに連絡を取ってもあちらにも戻っていないそうだ」
何が理由で姿を消したのかが全く分からないこと、フランクフルトの担当刑事とヴェルナーが連絡を取り合っていることを伝えたヒンケルの顔に怒りとやるせなさが浮かび、リオンが身を乗り出そうとした時、それを制するように口を開く。
「……あと、ジルベルトの件だが、あれから調べさせた」
実家や両親、祖父母について調べさせたが、お前の言う通りジルベルトに祖父はいないこと、それどころか両親すらいないことが判明したと教えられてリオンとウーヴェが顔を見合わせる。
「ジルに両親がいない?」
「ああ。お前と同じ孤児だったようだ」
ただ、お前との違いはあいつが生まれ育ったのがフィレンツェだったことだとも告げて腕を組み替えたヒンケルは、ジルベルトについて内部調査が入るが俺とお前にも調査が入るとも告げて肩を竦める。
「ボスまで?俺はゾフィーのことがあるから分かりますけど、どうしてですか?」
リオンの義憤の声にヒンケルがらしからぬ自嘲気味の笑みを浮かべて肩を竦め、お前達の監督責任だろうなと呟くとリオンが口を閉ざす。
「……まあ、俺だけじゃなく部長も署長から叱責を喰らったようだしな」
この警察署全体が叱られ内部調査の目に曝されると憂さ晴らしのように呟いたヒンケルがゾフィーの件があるし調査もあるから自宅待機をしていろと命じ、それにリオンが反論しようとするが、シーツの下でウーヴェが逆に手を握り返して落ち着けと伝えてくれた為、息をひとつ吐いて素直に頷く。
「……これ以上、ボスに迷惑掛けられませんしね」
大人しく家で待っていますと頷くリオンにヒンケルが何かを言い掛けて口を閉ざすが、溜息ひとつを残して部屋から出て行こうとする。
「内部調査の件については詳細が分かれば連絡をする。なるべく自宅にいろ」
腹癒せに出歩いて飲み歩くんじゃないぞと釘を刺したヒンケルは、ウーヴェを肩越しに見てリオンを頼むと目で合図を送り、しっかりと受け取ったことを示す様に小さく頷いたウーヴェがリオンの手を握り直す。
「リオン、彼女に会いに行って来い」
カールの病院に運んだから行ってこいと背中を向けたまま告げたヒンケルは、背後から聞こえる返事が無い事に溜息を吐きそうになるが、かなりの時間の沈黙が流れた後に小さく行って来ますと返されて胸を撫で下ろす。
己の身内があのような無残な姿になったのを見せるのはしのびないが、リオンにしか分からない何かがあるかも知れなかった。
ウーヴェとはまた違った思いからゾフィーに会いに行けと促したヒンケルは、ウーヴェが自分も一緒に病院に行く事、今日はそのままリオンを連れて帰ることを伝えられて無言で頷いて医療室を出て行くのだった。
ゾフィー達が運ばれた病院へとウーヴェが運転するスパイダーで向かったリオンは、病院が近づくにつれ助手席でそわそわし始め、無意識に爪をカリカリと引っ掻いたり噛んだり、窓をノックしたりと心が不安定なことを示す様に落ち着きを無くしていく。
ただ落ち着きを無くすだけならば良いが、走っている車から飛び降りる可能性を考えたウーヴェがそっとドアロックをし、膝を抱えてぼんやりと前を見つめるリオンの髪に手を伸ばして撫でると首を傾げて掌に頭を押しつけてくる。
無言の甘えが普段のリオンの闊達さも喪わせていることを教えてくれ、胸が痛むのを堪えながら病院の駐車場に車を止めて降りるが、リオンはその場から動こうとはしなかった。
「リオン、行くぞ」
「…………やっぱ……」
行きたくない、その呟きはリオンの口の中でのみ響き、ウーヴェが助手席のドアを開けてその場に膝をつくと、リオンの不安に揺れる蒼い瞳が助けを求めるように見つめてくる。
「このままここにいれば……きっと後悔することになる」
だからたとえ辛くても彼女に会いに行き見届けようと促し、永遠にも感じる時間逡巡したリオンは、ふいにウーヴェの手を取ると胸に宛がって握りしめ、小刻みに震える身体を宥めるように肩で息をする。
「リーオ」
彼女の最後の言葉も思いも最早知る術はないが、きっと彼女はお前に会いたがっているはずだ、お前に会って謝りたいと思っていた筈だとリオンの背中を優しい言葉で押したウーヴェは、シートベルトを外して車から降りるリオンの肩を撫でて俯く耳に口を寄せる。
「行こう、リオン」
限りなく優しい声に頷いて一歩を踏み出したリオンは、本当ならば自らがしなければならない手続きなどをウーヴェにすべて任せてしまい、前方からカールがやってきた事にも気付かなかった。
ただ、耳に流れ込んできたウーヴェの苦笑気味の声とカールの驚愕の声にのろのろと顔を上げれば、二人がじっと見つめてきていて、居心地の悪さに後退りしそうになる。
「……これから彼女を調べる。一緒に来るか?」
リオンがここに来た理由をヒンケルから聞かされていたカールだが身内の解剖など見たくはないだろうとの思いから問いかけて返事を待つが、先程と同じように葛藤している様を見せたリオンが無言で頷きながら無意識にウーヴェの手を握る。
縋るものがそれしかない、そんなリオンの思いをはね除けることはせず、カールの視線を受けながらもその手を握り返したウーヴェは、自分も一緒にいることの許可を貰い、作業をする部屋をガラス越しに一望できるロビーに向かうと、ステンレスの作業台に安置されたゾフィーの遺体が見え、作業着に着替えたカールが二人を振り返って頷いた為、ウーヴェが頷き返してリオンをソファに連れて行く。
そのソファに並んで腰を下ろし、作業を始める前にカールが黙祷を捧げる姿をぼんやりと見守っていたリオンは、ガラスに阻まれて音が聞こえない静かな世界で痣が浮かんでいる蝋人形のようなゾフィーを見て顔を強張らせる。
今まで仕事柄、目を覆いたくなるような無惨な死体や居たたまれなくなる死体を何度も見てきたが、そのどれもが路傍の石のようなものならば、ゾフィーの死体は到底乗り越えることが出来ない壁のように思え、座っていたソファから立ち上がって背もたれを乗り越えようとする。
リオンの慌てふためく様にウーヴェが冷静に立ち上がり、背もたれの向こうに回り込んでしゃがみ込むリオンの背中に腕を回して口を開こうとするが、それよりも先にリオンが歯の根の噛み合わない口で思いを吐き出す。
「オーヴェ……オー……ヴェ」
「ああ。ここにいる」
頼むから手を離さないでくれ一人にしないでくれと懇願されて頷き、背中を撫でて顔を上げる力を分け与えたウーヴェは、蹌踉けながらもソファに座って目の前の光景を見届けようとするリオンの手を握ると、リオンがウーヴェの膝をその手で握る。
カールがヒンケルに告げた様に針の穴や先ほどの傷口であっても見逃さずに徹底的に調べていく作業を静かな世界で見守っていると、ゾフィーの身体から取り出された臓器が丁寧に容器に収められるが、リオンがぽつりと呟きウーヴェが目を細めて青白い横顔を見つめる。
「……ゾフィーさ、心臓に毛が生えてるとか血も涙もないって書かれてた」
「……そうだったな」
ゴシップ誌にすっぱ抜かれた記事は日を追うごとに掲載する新聞が増え、ついには大手新聞の紙面を飾るようになっていた。
その記事のひとつひとつに目を通した訳ではないが、リオンが呟いたように血も涙もないシスターだ、きっと彼女は地獄に落ちるとまで書いている新聞もあり、その話だと察したウーヴェが短く返すと、今カールの助手を務めている青年が運んでいったのは何だと静かに問い返されて心臓だと答えると意味の分からない小さな笑い声が聞こえてくる。
「……毛なんて生えてねぇじゃん」
「ああ」
もちろん臓器である心臓に毛が生えているはずなどなく、口にすることで記事を否定し彼女の傷付けられた尊厳を己の中でだけでも回復させようとしているように臓器が運ばれる度にウーヴェ問いかけて答えを得ていたリオンだったが、ウーヴェの膝を握りしめる手の強さだけは変わらず、膝が痛みを訴え始めた頃にはカールの身体の陰になっているゾフィーの身体から臓器がすべて取り外されて詳しく調べる為に別のステンレスの台に並べられていく。
その時、カールがゾフィーの手を持ち上げてじっくりと見つめた後、ピンセットを使って丁寧に何かを取りだし、カールの手元を撮影していた助手がカメラを置いて用意したシャーレにそれを置いていく。
二つか三つ、小さな何かをシャーレに置き、一息ついた様に天井を見上げたカールは、その勢いで振り返ってリオンとウーヴェを見つめ、一つ頷いて再びゾフィーに向き直る。
その背中から感じ取るのはゾフィーを犯罪者という目で見る態度ではなく命を落とした原因を究明することに真摯な監察医の強い意志で、ウーヴェも専門は違っていても医者という肩書きを持つカールを見習わなければと思った時、リオンがふいに立ち上がってガラスに掌を叩き付ける。
その音にカールと助手達が驚いて振り返り、ウーヴェが少しだけ慌ててリオンの腕を引くと、そのままきつく抱きしめられて背中がガラスに押しつけられる。
「リオン……っ!」
「…………ゾ、フィー……ッ……」
調べる為に彼女が寝かされている台の周りをカール達が動き回るが、その度に蝋人形のようなゾフィーの横顔が見え隠れしていて、ウーヴェの膝を握って何とか感情を堪えていたリオンに限界が来たのか、ウーヴェにしがみつきながらギリギリと歯軋りをする。
リオンの腕の力は強くて苦しさをウーヴェに与えていたが、しがみつきながらも決してゾフィーから目を逸らそうとしない、この場から逃げだそうとしないリオンを護りたい一心で腰に腕を回したウーヴェは、己の肩に顎を載せてカチカチと歯を鳴らしながらその合間で彼女の名を呼び続けるリオンを抱きしめているのだった。
ゾフィーの解剖が終わって半透明のボディバッグに納められた彼女がストレッチャーに載せられ二人の前にやってきたかと思うと、何らかの事情を察した助手達がカールを残して静かに出て行く。
ドラマなどでよく見る白いタイル張りの部屋の壁一面にステンレス製の棚があり、一つの扉が開けられていることからゾフィーが安置される場所を示していた。
遺体を保管する棚に入れる前に会わせてくれる配慮に感謝したウーヴェは、ぼんやりとしているリオンの手を引いて意識を向けさせると、カールがリオンの肩を叩いた後に肩を抱き寄せて悔やみの言葉を告げてくれる。
「……ダンケ、カール」
いつも顔を合わせれば人をからかってばかりのカールだが、時と場合をしっかりと弁えている為に必要な時に必要な言葉を正面から伝えると、気が済めば呼んでくれと言い残して部屋を出て行く。
肌寒い白い壁の部屋にウーヴェとリオンの二人と、可能な限り丁寧に傷口を縫い合わされて微かに笑みすら浮かべているゾフィーが残され、ウーヴェが黙祷を捧げた後に一歩下がって壁に背中を預けると、リオンがウーヴェの動きに押し出されたようにゾフィーに近づく。
「……痛かったよな」
決してモデルのような美人ではないが、透き通るような白い肌は無残にも痣に彩られて生前の暴行の酷さを伝えてきたため、リオンが小刻みに震える手でゾフィーの冷たくなった頬を撫でる。
「お前の悩み、気付いてやれなかった……!」
あの夜、お前を一方的に責めて泣かせてしまって悪かったと謝ったリオンは、そうよと腰に手を宛がって頬を膨らませるゾフィーの姿と声を思い出し、それが永遠に喪われ自らの記憶の中でのみ再現されるのだと気付くと、すっかり役目を放棄している包帯を巻いた手を握りしめて彼女に覆い被さるように手を着く。
「目ぇ開けろよ! 起きろよ、ゾフィー!」
迎えに来たのにいつまでも寝てるんじゃねぇと彼女に向かって叫んだリオンは、握りしめた拳を振るわせて早く起きろと怒鳴るが、無理を言わないでと過去の声が優しく再生され、堪えているものが溢れそうになる。
「無理じゃねぇ……! 俺、を……独りにしな……でくれっ……!」
悲痛な叫びが部屋中に響く中、リオンがゾフィーの顔を抱え込む様に屈んで叫んでいて、ウーヴェでさえも初めて見るリオンの取り乱す様にただただ胸を痛めてしまうが、胸を痛めて手をこまねいているだけでは自分の存在意味がないと顔を上げたウーヴェは、幼い子供が独り取り残されて泣きわめいている姿を彷彿とさせるリオンの背中に腕を回すとその背中がびくりと揺れる。
「……ゾフィーをもう眠らせてあげよう」
もう彼女は痛みを感じる事も無ければ苦痛を感じる事も無い穏やかな眠りが訪れたのだからと告げると腕を払ったリオンが勢いよく顔を上げるが、歯を噛み締めながら睨んでくるリオンの頬を撫で頭を抱き寄せると意外なほどすんなりと引き寄せられ、ジャケットの背中をきつく握りしめられる。
「……もう、痛くねぇのか……?」
「ああ。もう大丈夫だ」
「も、う……苦しくない……の、か?」
「ああ」
もう痛みも苦しみも感じないと囁くが、次に呟かれる言葉に一瞬返事を詰まらせてしまう。
「こ……なとこに……ゾフィーを残してくの、か……?」
俺の大切な家族をこんな場所に一人きりで残していくのかと悲しげに問われ、伝えるべき言葉を選んだウーヴェが優しい声でリオンに囁きかける。
「……今すぐホームに連れて帰ればマザー・カタリーナが驚かれるだろう?」
それに彼女から得られる貴重な証拠をお前の信頼できる仲間達に報告する必要がある、だから彼女が家に帰るのはもう少し先になると説得したウーヴェは、リオンが肩に顔を押しつけてくぐもった声でマザー・カタリーナと呟いた為、彼女にも知らせなければならないことを伝えて背中を撫でる。
「あと少し、もう少しだけ堪えてくれ、リーオ」
お前とお前の姉を慈しみながら育ててくれたマザー・カタリーナにゾフィーが眠りに就いたことを伝えなければならない、それまで堪えてくれと祈るように囁いて頷かれ胸を撫で下ろすと、リオンがウーヴェの肩に手を着いて距離を取る。
「……オーヴェも……来てくれ」
教会に戻ってマザー・カタリーナに報告をするが一緒に来てくれと聞き取りにくい声で懇願されてもちろんと頷いたウーヴェは、一緒に行こう、そしてもう一人の兄弟であるカインにも話をしようと囁くと小さな声で礼を言われ、リオンがボディバッグで眠っているゾフィーの額と頬に生前に交わしたものと変わらないキスをする姿をじっと見守る。
「……お休み、ゾフィー」
どうかこれから見守っていてくれと祈り、最後にもう一度額にキスをしたリオンは、内線電話を使ってカールを呼び出し、慌てて駆け寄ってきた彼に最大級の謝意を示してよろしく頼むと頭を下げ、そんなリオンを安堵の表情でウーヴェが見守っているのだった。