第4話 ただの亡霊
「ノア?」
「静かに。」
ひた
首に、誰かの手が触れる。
手というにはあまりにも冷たく、滴る水滴が首を流れ落ちる。
(気分が悪くなるほどの、死臭。)
「走れ、ウィット!」
ウィットの手を握り、道を走り抜ける。ウィットの手は温かく、水死体とは似ても似つかない。
「う…」
なにかの手は、ノアの首を、腕を舐めるように撫でる。その感覚が気色悪い。
「ひっ」
「我慢しろ、海から離れれば落ち着く。」
「の、ノア」
今にも泣きそうな声が耳に届く。
「こいつらは無理やり海に引きずり込もうとしてくる。誘う、なんて遠回りな手段は選ばない。」
「っ…」
夜明け前の道は思っていた以上に暗く、ノアは何度も木につまづきそうになりながら走った。
道を整備する者もいないのだから、草が生え荒れ放題の状態だ。
「きゃあ!」
「ウィット!」
(まずい)
ウィットは道で蹲っている。そのすぐ近くまで、死霊は迫ってきていた。
「立てるか?」
「う…」
(血が出てる )
傷付いただけではない。亡霊の手形がいくつも痣となり残っている。随分きつく絞められたようだ。その上石で打ったとなれば、辛さは想像以上のものだろう。ウィットは痛みに苦悶していた。
(そうだ、白海の海水!)
ノアは急いでポケットを探り、小さな瓶を手に取った。
「どうやって使うんだ…?」
「かけてくれれば、いいので…」
蓋を開けた…その時。
亡霊が瓶を奪い取った。
「っ…?!か、返せ!!」
じゅうっ
瓶から零れた海水は、死霊の影を焼き、悲痛な叫びが響いた。
(白海の海水が効くのか…?)
「もう少し、辛抱してくれ。」
死霊が苦しんでいる間に、ノアはウィットを抱えて森の奥へ飛び込んだ。
「傷は…これで大丈夫か。」
「あ、ありがとうございます。…もうよくなりました。」
「この海水は本当によく効くんだな。」
「ええ、どの薬よりも。」
ウィットに水を飲ませながら休んでいると、もう日が昇ってきていた。太陽の光がこれほどまでに自分の心を安心させるとは、夢にも思わなかった。
「夜の移動は諦めた方が良さそうですね…」
「同感だ…すまない、俺が出発を急かしたから……」
「そんな、貴方が謝ることではありませんよ。むしろ見捨てて行かないでくれて、感謝しています。」
「…そんな非道な真似はできない。」
「優しい人ですね。」
ウィットはふらふらと立ち上がり、荷物を背負った。
「大丈夫なのか?無理はしなくていい。」
「問題ありません。出発しましょう。貴方の準備が整ったのなら。」
「…ああ。」
2人は海沿いを進むのを諦め、森をまっすぐ進むことにした。狼や熊よりも、二人の脅威は亡霊だからである。
「ウィット、白海まではどれくらいかかる?」
「…そうですね…近道と、何年もかかる道、どちらがいいですか?」
「近道。」
「じゃあ、黒海に入りましょう。」
「こ、黒海!!?」
「はい。今は死霊が一番の脅威です。手段は選んでいられません。」
ウィットは当然かのように微笑んだ。
「だ、だが……」
「白海には、人が時折現れます。きっと大丈夫ですよ!さあ行きましょう。一番の近道です。」
「待ってくれ……他の方法は、ないのか……?!」
「うーん……でも3年近くかかってしまうし……」
ノアは背中に冷や汗をかいていた。幼い頃から、触れるな見るなを繰り返し聞かされていた黒海である。ノアはどちらとも完全に破ってはいたが、今回は違う。
自ら消えるまで、海に入らなければいけないのだ。
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