テラーノベル
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あの後、二人は一言足りとも話すことなく、ベッドに潜り込んだ。重く、息が詰まるような空気が流れている。いつもならお互いの体温を感じる距離にいるのに、その夜のベッドは広すぎて、反対を向いた背中がひどく遠く感じられた。若井は目を閉じるたびに、ホームの端に立つ元貴の姿が脳裏に焼き付いて離れず、結局一睡もできないまま朝を迎えた。
翌朝、若井の瞳は充血し、表情は疲れ切っていた。外出の準備を終えた彼は、寝室の重い空気を切り裂くように元貴の肩を叩く。書き置きでもいいと思ったが、直接釘を刺しておかなければならないという焦燥感があったからだ。
まあまあ強めに叩いたせいで、元貴はすぐに反応した。眠そうに細く目を開け、焦点の合わない目線を泳がせた後、ようやく目の前に立つ若井の存在を捉えた。眠りから無理やり引きずり出されたのが嫌だったのか、その眉間には皺が寄っている。
なに、と尋ねるために元貴が布団から手を出そうとすると、それを遮るように若井が手短に、そして淡々とした手話で告げた。
「…大学行ってくる。帰ってくるまで、家から出るなよ。分かった?」
突き放すような冷たい声色を含んだ視線で、じっと見つめた。元貴は何のことかよく飲み込めていない様子だったが、その威圧感に押されるように、ゆっくりと頷いた。
「約束、だからな。いい?」
「ん、わかった。行ってらっしゃい」
若井は小さく頷くと、そのまま勢いよく振り返り、逃げるように部屋を出て行った。その動きをぼんやりと目で追いながら、元貴は眠気に抗えず、布団の中にズルズルと体を沈めた。寝返りを打ち、二度寝を決め込もうとしたが、どうしても眠れない。まだ上手く回らない頭は、勝手に昨日の出来事を思い出してしまう。自分を拒絶したあの冷たい言葉が、心に再び重くのしかかる。
自分のことしか考えてないって言われたけれど、そんなことないのに。若井は最近疲れていたみたいだし、余裕がなくて誤解しちゃうのも仕方ないのかな。でも、このまま誤解されたままでいるのは嫌だ。
どうすれば誤解がとけ、若井の疲れが取れるのか。 目をつぶり、必死に考える。
…そうだ。 若井が喜んでくれるものをあげれば、きっと笑顔になるはず。そうすれば、若井の疲労も少しは癒えるに違いない。
元貴は、自分の心配は自己中心的なものではないと証明する決意を固めた。布団を勢いよく跳ね除け、ベッドから這い出る。急に立ったせいで少しふらつくが、今の元貴にはそんなことはどうでも良かった。
部屋を出てリビングに向かい、昨日どこに投げ出したか分からないリュックを探し、ようやく財布を見つけ出した。中にある最低限のお金を確認し、ショルダーバッグに入れ、斜め掛けにする。自分の帽子が見当たらなかったので、その辺に置いてあった若井の帽子を借りて深く被った。玄関に置かれた箱から鍵を取り出し、スニーカーを履く。今日は、この前のような裸足ではない。
玄関の扉を開ける直前、元貴の手が止まった。足元に目線が落ちる。心のどこかで行きたくない、一人が怖いと思っている自分に気づいてしまった。それでも、まだ朝だから大丈夫、俺一人でも行けると言い聞かせ、ついに一歩を踏み出した。
マンションの廊下を歩き、エレベーターを降りる。幸い、他の住人とはすれ違わなかった。しかし、一歩マンションから出ると、久しぶりに感じる人の多さと騒音に、すぐに息苦しさを感じた。いつもは若井が隣にいてくれたから気づかなかったが、一人というだけで世界はこれほどまでに牙を剥くのか。途端に足が止まり、俯いてしまう。しかし、これは自分が決めたことだ。元貴は帽子を深く被り直し、少し早歩きになりながら前に進んだ。
元貴が向かったのは、家から少し離れたところにある小さなカフェだった。若井が以前「あそこのコーヒーが一番美味い」と話していたお店だった。その後、コンビニにも寄り、夜食によく食べるカップラーメンと疲れた体によく効く栄養ドリンクを手に取った。
若井が喜んでくれますように。
その期待だけが、元貴の心を支え、この辛い外出を乗り切る糧になっていた。
早く、早く帰らなきゃ。会計をする元貴の手は自然と早まっていた。
一方、若井はマンションへの帰路を急いでいた。大学の講義中も教授が説明していることなど一切頭に入らず、元貴のことばかり考えていた。出かける時に強く言い聞かせたものの、嫌な予感と不安が消えることはなかった。
玄関を開け、リビングに入った瞬間、若井は一瞬で凍りついた。
空気感で分かる。元貴がいない。
急いで靴を脱ぎ捨て、各部屋を荒々しく見て回る。ソファにも、キッチンにも、寝室にもどこにもいない。若井は、昨日の駅のホームでの光景が脳裏をよぎり、全身の血の気が引いていく。自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
「またかよ、なんで…っ…」
ぐったりと床に座り込み、くぐもった声を漏らした。自分の言葉は何一つ届いていなかったのか。何故そこまでして自分の前からいなくなろうとするのか。どうして。
絶望が若井を支配しそうになったその時、玄関のドアがガチャリと音を立てて開いた。弾かれたように顔を上げ、靴下で滑る床に苛立ちながら玄関に向かう。そこには扉を慎重に閉めようとしている元貴がいた。両手には紙袋とビニール袋を掲げている。
鍵をかけた後、振り返って若井の存在に気づいた元貴は、サプライズ大成功といったような無邪気な表情を浮かべた。そして、すぐさま駆け寄ろうとしたが、若井の顔を見た瞬間、動きを止めた。怒りと焦燥で恐ろしいほどに歪んでいたからだ。
「何してんのお前」
若井は、固まった元貴のそばに大股で詰め寄り、有無を言わさず勢いよく二つの袋を奪い取った。その乱暴な動作に動揺し、元貴は袋と若井を交互に見つめる。中身を見た途端、若井の怒りは冷ややかな呆れへと変わった。
「なにこれ。」
元貴を一瞬射抜くように見たあと、袋から栄養ドリンクを取り出した。元貴は、そのただならぬ様子に怯えながら、震える手で懸命に手話をする。
「若井が、疲れてるから。…きっと、喜ぶ、と、思って」
顔色を伺いながら必死に伝える元貴を見て、若井は冷たく笑った。
「喜ぶ?馬鹿じゃねえのお前」
若井はそう声だけで言い放ち、紙袋を床に投げ捨てた。中身のコーヒーカップが床に叩きつけられ、鈍い音を立てて液体が広がる。元貴は言葉を失い、黙ってその茶色い水溜まりを見つめるしかなかった。
「家から出るなって言ったよな。覚えてない?」
あ。忘れてた。そんな表情が顔に出た元貴を見て、若井はさらに嘲笑を深める。
「まあ約束なんてすぐ忘れるよなあ。そりゃそうだよな。」
途端に寂しそうな、絶望したような顔になった若井を見て、元貴は必死に首を振った。しかしそれでも若井の表情は変わらない。元貴の胸の中に、罪悪感が急激に膨れ上がっていく。若井はコーヒーカップを足で廊下の隅に寄せた。
「コーヒー…?あぁ、俺がよく飲んでるから?これ買ってきたら喜ぶと思ったんだ。へぇー。それで家出たわけ?」
若井は一見笑っているように見えたが、目の奥のどす黒い怒りに元貴は気づいていた。若井は少し元貴の様子を観察したあと薄く笑ったが、すぐに真顔になり、残りの物が入ったビニール袋も床に捨てた。そして少し目を泳がせ、呟いた。
「お前まだそんな嘘通じると思ってんの」
袋から出た栄養ドリンクが、乾いた音を立てて床を転がっていく。元貴は視界が歪んでいくのを感じたが、ここで泣いてはダメだと自分を律した。若井の目には、自分の行動は、気を引くためのものとしか映っていない。そう察した元貴は黙って俯き、服の端を握る。完全にやらかしたという事実が、重く突き刺さる。
「なあ、聞いてんだよ。答えろよ。」
若井はさらに詰め寄る。元貴はジリジリと後ろに下がるが、すぐに玄関の扉に背中がついてしまった。首元を掴まれ、嫌でも合ってしまう目線を必死に迷わせる。
「馬鹿にしてんだろマジで。なあ。」
必死に首を振りながら、元貴は自分の優しさが一蹴されたことに、底知れない悲しみを覚えていた。しかし、今の状況で反論すれば、若井の怒りがさらに爆発し、二人の関係が本当に終わってしまうという恐怖があった。
やはり若井の言う通り、自分の善意は嘘として処理するしかないのか。
いや、それは嫌だ。
元貴は顔を上げた。約束を破ったのは自分が悪い。しかし、若井への思いまで嘘だとは思ってほしくなかった。恐る恐る若井の目を据え、勇気を振り絞って手を動かそうとした。
「若井、違う。俺は、」
その時だった。
元貴の視界に黒い影が差し込む。考えるよりも先に体が動いた。若井のこれまでの行動は予想が外れてしまったが、これだけは分かる。なんたって、子どもの頃からの染み付いた感覚。馬鹿な自分でも分かった。
殴られる。
元貴は反射的に両手を額の前でクロスにし、首を竦めた。ぎゅっと目を瞑り、もうすぐ来るであろう衝撃に備えて歯を食いしばる。勝手に脳が過去の記憶を呼び起こし、全身がガタガタと震え出す。
息が上がる。心臓の音がうるさい。嫌な汗が一気に噴き出る。体が逃げようとして、立っていられなくなり、気づいたら床の冷たさが肌に伝わってきていた。
こわい。怖くないのに。若井だから、絶対怖いなんて、思いたくないのに。
ごめんね若井。俺が馬鹿だったから、約束、忘れちゃってた。忘れたこと謝るから。外に出たことも謝る。買ってきたことも謝るし、口答えしたことも謝るから。俺が悪かったから。だから。
殴らないで。
振り上げられた若井の手は、行き場を失くし空中で止まっていた。
「え…?…元貴?どうし、え、」
若井は、目の前の元貴が急に糸が切れた人形のように崩れ落ち、その場にしゃがみ込んだことに戸惑い、声を上げた。さっきまでの怒気が、一瞬で狼狽へと変わる。若井は反射的に腰を落とし、元貴の様子を確かめようと、その震える肩に手を伸ばした。
だが、指先が元貴の肩に触れた途端、ビクッ、と大袈裟なほどに元貴の身体が跳ねた。
「ひ、ひ……っ、ひ……っ!」
元貴の口から、喉を切り裂くような、ひきつけを起こしたような呼吸音が漏れ出す。若井が触れた場所が、まるで焼けた鉄でも押し当てられたかのように、元貴は狂ったように身を捩って若井の手を拒絶した。
その反応は、ただ嫌がっているものではなかった。生存本能が叫びを上げているような、生理的な拒絶。
「え、ごめ、大丈夫、え、」
もう一度若井の手が触れると、元貴の呼吸はさらに浅く、激しくなり、過呼吸のような音を立てて空気を求めて喘いでいる。
「うぅ……っ、ぅあ、ぁ、ひっ……!」
声にならない叫びが、元貴の全身から伝わってくる。元貴はクロスした両腕で頭を包むように守り、最大限体を縮めている。
それは、あまりに露骨で絶望的な拒絶だった。
若井はふと、かつて元貴の髪についた小さなゴミを取ろうと、頭上に手を伸ばした時のことを思い出した。あの時も、今ほどではないが酷く怯えた表情を見せた。しかし、すぐに「それやめて、嫌い」と、いつもの不機嫌そうな顔で流されてしまったため、若井も深く追求せず、そのまま忘れてしまっていた。
…ああ、そういうことだったのか。
脳内で、バラバラだったパズルのピースが急速に組み合わさっていく。
先ほどまで己を支配していた煮えたぎるような怒りは、潮が引くように消え去った。代わりに、自分がとんでもないことをしてしまったという底なしの自己嫌悪が押し寄せてくる。
「…もとき」
掠れた声で名前を呼ぶ。しかし、元貴にはその声は届かないし、例え聞こえていたとしても、恐怖でそれどころではないだろう。若井は改めて床に蹲り直し、元貴と同じ目線になった。
今すぐ抱きしめて謝りたい衝動に駆られたが、今の自分は彼にとって恐怖の対象でしかない。触れてしまったら、元貴はもっと傷ついてしまうかもしれない。極力自分の存在を小さく見せるように、低い姿勢を保った。
若井は、元貴が再び目を開けてくれるのを待つ間、耐えきれなくなって背後を振り返った。
床に無残に散らばった品々が、視界に嫌でも飛び込んでくる。廊下の隅に追いやられた、蓋の外れたコーヒーカップ。力なく横たわったビニール袋。そこから転がり出た栄養ドリンクとカップラーメン。
若井は、それらをゴミのように床に叩きつけた自分の右手を、忌々しそうに見つめた。
約束は約束、だけど…。
後悔が、どろりとした苦い塊となって若井の喉元までせり上がってくる。
ただえさえ人混みは苦手なのに。 元貴がどんな表情で店に行き、どんな思いで会計を済ませ、どんな気持ちでこの玄関を開けたのか。それを想像するだけで、胸が焼け付くように痛む。
…まずは「ありがとう」と言うべきだったんじゃないか。あんなに怯えさせる前に、せめて「無事でよかった」と抱きしめて、元貴がしてくれたことに対して、一言でも感謝を伝えていれば、こんな取り返しのつかない沈黙にはならなかったはずなのに。
「まだそんな嘘通じると思ってんの」
そう言い放った瞬間、若井の胸の奥は、鋭い刃物でえぐられるような痛みに襲われていた。
嘘だなんて思っていない。思ってるわけがない。
本当は分かっていた。元貴が、どんなに外の世界を怖がっているか。一人で電車に乗ることも、知らない人間と対峙することだって。そんな元貴が、自分のためにわざわざ店に行き、買い物をして戻ってきた。それがどれほど純粋な、不器用なまでの「愛」の形であるか、若井が一番知っていたはずだった。
それなのに、怒りが、そして「またいなくなるかもしれない」という恐怖が、冷静さを奪ってしまった。
「……元貴」
若井は振り返り、もう一度その名前を呼んだ。謝罪の言葉はもう何度も口にした。けれど、それよりも先に、もっと根本的な、元貴の心を掬い上げる言葉を自分は忘れていた。
「…買ってきてくれたの、…嬉しいよ。なにこれじゃなくて、…ありがとう、だよな。ごめん、元貴」
若井は、震える声で呟いた。
……………………………………
明けましておめでとうございます!!
もうお正月ではないですね…笑
今年もどうぞよろしくお願いします!!
コメント
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初コメ失礼します🙇🏻♀️ すごく引き込まれて一気読みしました、 感情表現が繊細で、自分がその場にいるかのような感覚になって泣きそうになっちゃいます😭ほんとにすごすぎて言葉が出ないです…大好きな作品です…!これからも勝手ながら応援させてください💖 次の話も楽しみにしてます✨️
フォロ失!マジ泣けます!すごすぎです!ちょっとlulu.を聴いてよんだらなんか似てた!そこもすごいです!とにかくこんな作品書けるなんてすごいです!
めっちゃ好きです!