影の向こう
菜月は休みだった。
朝、
夫はいつも通り仕事に出た。
玄関の扉が閉まる音を聞いて、
それだけで、
家の空気が少し軽くなる。
洗濯物を干し、
簡単に部屋を整えて。
昼前。
子どもは、
リビングの床に座り、
積み木を広げている。
崩しては作り、
また崩す。
時間を気にしない遊び方。
その姿を横目に見ながら、
菜月はソファに腰を下ろす。
この子が、
もう少し大きくなったら。
ランドセルを背負い、
友達の名前を増やして、
自分の世界を広げていく。
そんな近い未来は、
はっきり想像できる。
でも。
その隣にいるはずの存在は、
うまく思い描けなかった。
夫の姿を考えようとすると、
そこだけが、
黒く塗りつぶされた影になる。
いないわけじゃない。
嫌いになったわけでもない。
ただ、
色がない。
それが、
妙に現実的だった。
テーブルの上の
スマートフォンに、
ふと目がいく。
画面をつける。
未読のまま、
昨夜の通知が残っていた。
ーー大和。
夜中に届いていた、
丁寧な返信。
今さら気づいたことに、
少しだけ胸が痛む。
でも、
そこに責める色はなかった。
ちゃんと、
返してくれている。
会話が、
続いている。
胸の奥が、
静かに緩む。
もっと知りたい。
どうして、
この人はここにいるのか。
この投げかけで、
終わってもいいから。
そんな考えが、
一瞬よぎる。
だから、
止まらなかった。
踏み込まなければ
見えない場所がある。
でも、
慎重さは、
まだ手放していない。
入力欄を開く。
指が、
少しだけ迷う。
子どもが、
積み木を完成させて、
こちらを見る。
「できたよ!」
頷いて笑いながら、
菜月は画面に視線を戻す。
――少し聞いてもいいですか。
どうして、このアプリに登録したんですか?
送信。
胸の奥が、
すっと静かになる。
何かが弾けたわけじゃない。
壊れたわけでもない。
ただ、
影の向こうに
手を伸ばした感覚だった。
子どもはまた、
積み木を崩して笑っている。
未来は、
ちゃんとそこにある。
それでも、
黒く塗られた部分は、
まだ残っていた。
菜月は、
スマートフォンを伏せる。
もう、
質問は投げた。
あとは、
返ってくる言葉を
待つだけだった。






