テラーノベル
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いよいよ吾郎の引っ越しの日がやって来た。
引っ越し業者におまかせのコースを頼んだが、やはり荷解きや細かい整理整頓など、やることはたくさんある。
その間、安藤がトオルを庭で見ていてくれて助かった。
「都筑さん。そろそろお昼にしませんか?」
引っ越し業者が作業を終えて帰っていくと、時刻は13時を過ぎていた。
「ああ、そうだね。えーっと、何かデリバリーでも頼む?」
「私、お弁当作ってきたんです。よろしけ
ればいかがですか?」
「えっ、いいの?」
「はい、もちろん。トオルちゃんにもおやつあるよー」
「アン!」
安藤はローテーブルの上に、3段のランチボックスを並べた。
卵焼きに唐揚げ、サンドイッチやおにぎり、フルーツにサラダなどが、ぎっしりと詰めてある。
「うわー、すごいね。どれもこれも美味しそう」
「ありきたりですみません。でもピクニックみたいで、楽しく作れました。お口に合うといいのですけど」
「ありきたりだなんて、とんでもない。ありがとう」
いただきます、と手を合わせてから、早速吾郎はパクパクと食べ始めた。
「うん、うまい!」
「ほんとに?良かった。トオルちゃんはこれね。ワンちゃんクッキー」
「アン!」
お弁当をペロリと完食すると、吾郎は食後のコーヒーを淹れてソファに戻る。
するとトオルを胸に抱いた安藤が、うつらうつらと眠そうにしているのに気づいた。
(日当たりいいもんな。そりゃ眠くなるわ)
コーヒーをテーブルに置くと、吾郎は安藤の肩を揺する。
「そんな体勢で寝ると身体が痛くなるよ?」
「んー…」
安藤は身じろぎするものの、一向に目覚める気配がない。
腕に抱いたトオルも、スヤスヤと安心したように眠っている。
やれやれ、またかと、吾郎は安藤を抱き上げてソファに寝かせた。
安藤達を起こさないよう、吾郎は静かに片付けを進める。
キッチンとリビングの作業が終わり、吾郎はダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら、なんとなく部屋を見渡した。
新築の綺麗な部屋は、日当たりも良く、リビングがとても広い。
のどかで平和な休日の午後。
ソファでスヤスヤとお昼寝する安藤とトオル。
ふいに吾郎は、この光景がこの上なく幸せなものに感じられた。
(ずっとこんな毎日が続いたらいいのに…)
18歳で実家を出てから、ずっと一人暮らしをしてきた。
仕事から帰ってくると、いつも部屋は真っ暗で空気も冷たい。
休日もただゴロゴロしながら、なんとなくやり過ごすだけ。
それが今は…
「ただいまー」と玄関を開けると、トオルが、アン!と笑顔で喜んでくれる。
夕飯を食べるのも、トオルとおしゃべりしながら。
寝る時だって、トオルと一緒だ。
休日には、楽しそうに駆け回る安藤とトオルを微笑ましく眺める。
毎日がかけがえのない、大切なものに思えた。
(もう二度と以前の生活には戻れない)
吾郎はそう確信する。
ただ…
こんな毎日を続けるにはどうすればいいのか、その答えが分からなかった。
「恋…って、なんだ?」
オフィスでポツリと呟いた吾郎に、大河と洋平はガタッと椅子を揺らして仰け反る。
「こ、こ、こい?吾郎、それって、池の中を泳いでる魚のことじゃないよな?」
「違う。恋愛の話だ」
「ヒーッ!恋愛?吾郎が、恋愛?!」
思わず大河は洋平と身を寄せ合う。
「どうしたんだ?吾郎」
「何があった?変な物でも食べたとか?」
「ちがわーい!」
そんなやり取りを見守っていた透が、おもむろに口を開く。
「吾郎。恋ってなんだ?って考えることが、既に恋に落ちてるって証拠だよ」
大河と洋平は、またしてもヒョエー!とおののく。
「透。お前、真顔でそんな名言を…?」
「ゲームのやり過ぎで、恋愛マスターにもなっちゃったのか?」
透は、まあね、と妙に気取ったポーズを取る。
「恋に落ちるってさ、言葉じゃ説明出来ないんだよ。知らず知らずのうちに、頭の中に相手の顔が思い浮かぶ。気がつけば、その子のことばかり考えちゃう。むしろそれこそが純粋で本物の恋なんだ」
はあ…と、3人は気の抜けた返事をする。
「大河や洋平だってそうだったんじゃない?気づいた時には、彼女のいない生活は考えられなくなってた。ただ会いたいって、毎日そればかり考えちゃってた。そうじゃない?」
真剣に問いかけられ、大河と洋平は「いや、あの…」としどろもどろになる。
「洋平はともかく、奥手な大河がよくアリシアと結婚出来たもんだよ。良かったねー、大河」
すると大河は、しみじみと頷く。
「ああ、良かった。本当に良かった」
「でしょ?」
最後に透は、ポンと吾郎の肩を叩いた。
「だからさ、吾郎も絶対に手を離しちゃダメだよ」
「…誰の?」
「今、吾郎が思い浮かべた人!」
その時、吾郎の頭の中には、笑顔の安藤とトオルが思い浮かんでいた。
「わあ、続々とお引っ越しが始まってますね」
また週末が来て、吾郎は安藤と一緒にマンションの敷地にあるドッグランに向かっていた。
整備された綺麗な街並みに、引っ越し業者のトラックが整然と並んでいる。
「だんだん賑やかになってきたな」
「ええ。全戸入居が完了すると、住民の方々向けに色々なイベントも企画しているんです」
「へえ、例えば?」
「それこそ、ペットを飼っているご家族の集まりだったり、お子さんがいるご家庭、趣味が合う方々の集まりとか。とにかく皆様にここでの生活を楽しんでいただけるよう、お手伝いさせてもらえたらと思っています」
「そうなんだ。君は他の部署に異動したのに?」
「そうですけど、このマンションに携わったのは事実ですので。最後まで責任持って、ここでの生活を安心して気持ち良く始められるように、皆様をサポートいたします。あ、もちろん都筑様も」
あはは!と吾郎は思わず笑う。
「ありがとう。キャンセル住戸を紹介してくれただけで、本当に感謝してる。トオルも俺も、ここでの暮らしが楽しくて仕方ないよ」
「本当ですか?良かった!」
安藤は心底嬉しそうに、吾郎を見上げてにっこり笑う。
吾郎は思わずドキッとして、安藤の笑顔から目が離せなくなった。
(いつの間にこんなに俺に気を許してくれるようになったんだろう。出逢った頃は、表情も固くてうつむいてばかりいたのに)
思い返せば、少しずつ少しずつ、二人の距離が近づいてきた気がする。
いや、確実に近づいている。
ファミレスで、ロボットのワンちゃんに一緒にはしゃいだり。
トオルを抱いて、嬉しそうに満面の笑みを見せてくれたり。
部屋で無防備にうたた寝をしたり。
美味しいお弁当を作ってくれたり。
少し振り返っただけでも、たくさんの楽しい思い出が蘇る。
(こんな日々が、これからもずっと続いて欲しい)
吾郎はただ純粋にそう願っていた。
ドッグランでたくさん走ってから、部屋に戻って休憩している時だった。
ピンポーンとインターフォンが鳴る。
「ん?誰だ?」
宅配便かと思いきや、モニターに映っているのは、透と亜由美だった。
「え、まさか!」
吾郎は急いで応答する。
「透!亜由美ちゃん!」
「やっほー!吾郎。俺達も引っ越して来たよーん」
「吾郎さん、お蕎麦食べよ!天ぷら蕎麦!」
二人はカメラを覗き込みながら、テンション高く声を張る。
「二人とも、顔がどアップ!声もデカいってば」
「あははー!」
透と亜由美は楽しそうに笑うが、またしても声が大きい。
とにかく入って来て、とロックを解除した。
「おっじゃましまーす!わあ、ここも広くて素敵なお部屋だね。芝生のお庭があって…、あ!あの子が噂のトオルちゃんね。可愛いー!って、ええー?!莉沙ちゃん?どうしてここに?」
亜由美は一人芝居のように、うっとりしたり喜んだり驚いたりと忙しい。
「こんにちは、深瀬様」
庭でトオルと遊んでいた安藤が立ち上がってお辞儀をすると、トオルがおねだりするように二本足で立ち、安藤の足にまとわりつく。
安藤は慣れた様子でトオルを抱き上げた。
「ひゃー!なに?そのすっかり出来上がった関係は。莉沙ちゃん、もはやトオルちゃんのママって感じ」
「いえ、そんな。トオルちゃんは人なつこいので、誰にでも嬉しそうにするんですよ」
「莉沙ちゃん。そのセリフが既にトオルちゃんのママだわよ?」
亜由美達のやり取りを聞きながら、透がニヤリと吾郎に笑いかける。
「なーるほど。だから急にオフィスであんなセリフをね?」
「何がだよ?」
吾郎が仏頂面になると、透はますますニヤニヤする。
「べっつにー?ねえ、亜由美。お蕎麦4人分あるよね?」
「うん、あるよー。たーくさん買ったもん。じゃあ、早速作るね。吾郎さん、キッチンお借りしまーす。あと、奥さんもお借りしまーす」
はあー?!と声を上げる吾郎に構わず、亜由美は安藤を振り返る。
「莉沙ちゃん、手伝ってもらえる?お鍋の場所とか分からないから」
「あ、はい!お鍋はシンクの下にあります。菜箸はここで…」
テキパキとキッチンで立ち回る安藤に、またしても透はニヤけて吾郎を肘で小突いた。
「ではでは、いっただっきまーす!」
ダイニングテーブルに4人で座り、亜由美と安藤が作った天ぷら蕎麦を食べ始める。
しばらくすると、トオルがタタッと近づいて来て、ぴょんと安藤の膝の上に飛び乗った。
いつものように安藤が優しくトオルをなでていると、亜由美が感心したように口を開く。
「ねえ、トオルちゃんって吾郎さんより莉沙ちゃんになついてない?莉沙ちゃん、ここに住んでるの?」
ブホッと吾郎が蕎麦を喉に詰まらせる。
「大変!都筑さん、はい、お茶」
「うん、ありがとう」
二人の様子に、亜由美は思わず両手で頬を押さえた。
「やだ!新婚さん、いらっしゃってるー!」
「あはは!亜由美、何だよそれ」
「だってラブラブなんだもん。いやーん、なんだか私が照れちゃう」
「亜由美だって、俺とラブラブだろ?」
「ふふっ、もちろん」
すると今度は安藤が頬を押さえてドギマギする。
「深瀬様。本当にお幸せそうですね」
「うん!莉沙ちゃんにいいお部屋紹介してもらったからね。私と透さんの愛の巣!」
「そ、そうですか。それは良かったです」
「ね。来週は莉沙ちゃんと吾郎さんがうちに来て。あ、もちろんトオルちゃんもね!」
「いえ、あの。私はお邪魔する訳には…」
「どうして?」
「それは、その。深瀬様はお客様ですから」
「そんなの、もう関係ないでしょ?これからは家族ぐるみのおつき合いになるんだから。あ!莉沙ちゃん、連絡先聞いてもいい?」
「え?あ、はい」
亜由美の勢いに呑まれて、安藤は言われるがままに連絡先を交換する。
「やったー!これからもよろしくね!莉沙ちゃん」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
そしてその勢いのまま、翌週、吾郎と安藤は透と亜由美の新居に遊びに行くことになった。
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