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 ああ、この声は。

 まだ出逢って日が浅いというのに、すっかりとその声を聞き慣れていた自分は浅はかだろうか。

 彼女の思いには気付いていた。ただ不釣り合いな引き合わせ故に、敢えて遠ざけていた。生きる時間も、時代も、命の重さも違う。彼女は歴史を担う人間。一方、我は──

 結果、彼女の思いを突き放した。そうでもしなければ彼女はきっと我から離れないだろうと。その無垢な思いを踏みにじる事になろうと、それが正しい選択だと信じて。

 左手が握られる感覚。

 本当に細い手指だ。この華奢な手のどこからこのような力を入れるのだろう。つくづく人間の脆さに驚かされる。

 しかと握られた手を握り返す余力はない。既に刀身はひび割れ、我の身体から徐々に感覚が消えていく。

 彼女はそれでも声を震わさず思いの外凛としている。瞼を抉じ開けて彼女の声のする方を探る。輪郭がぼやけた視界の中で彼女を見つけ、目を凝らす。

 今度ははっきりと、彼女の声が我の名を呼ぶのが聞こえた。心なしかその面差しも鮮明に映る。

 彼女は意識を取り戻した我の様子に目を見開くと頬に手を添えた。

 彼女の名を呼ぼうにも舌が、唇が動かない。どうやら意識が回復した訳ではなく、ただ薄れゆく感覚の中で彼女を探し当てただけのようだ。最期は近い。

 もう瞼は重い。ゆっくりと視界を閉じる。その刹那、身体が起こされる感覚。

 胸が暖かい。芳香が鼻腔を抜けた。目はもう開きそうにない。それでも、彼女の背に身を預けていることが分かった。次いで脚を担がれ、地面から身が離れる。

 本当に、人とは不思議なものだ。

 あの華奢な身体のどこにそんな力があるのか。どうやら彼女は我を背負い歩きだそうとしている。酷く不安定で覚束ない足取り。それでも一歩一歩確実に前に進んでいる。

 いつ地面に叩きつけられてもおかしくない状況だというのに、ひどく心地よい。

 左胸が僅かに高鳴る。ちらりと手首に掛かる珊瑚の腕輪。彼女が我にと授けてきたお守り。何故かそこから温もりを感じた。

 耳に掛かる吐息は荒く、時折小さく我を呼ぶ声にまたもや胸が熱くなる。

 しかしその感覚すら薄れてゆく。

 嫌だ、と思った。

 もう暫し、彼女を感じていたかった。彼女と共にありたいと願った。彼女の思いを突き放した贖罪に、せめて少しでも側にありたい。

 嗚呼、しかし、もうその時だ。

 叶うなら……すまなかったと……いや、愛している、と、伝えてやりたかった──

 薄闇。木組みに覆われた視界。天井か。なればここは……

 目を凝らす前に痛みで唸る。感覚が戻っている、とするなら……我は……

 再び目を開けようとすると前髪が邪魔で左目がうまく開かない。退けようにもやけに布団が重い。布擦れの音。そっと瞼に触れる冷たい感触。前髪が掻き分けられたらしい。阻むものがなくなり、ようやく瞼を開く。

 息を呑む気配。その輪郭は、やはり彼女だった。

 此度の声は静かに我を呼んだ。未だぼやけた輪郭を探り彼女に目を凝らす。

 よかった、と安堵の声。微笑んでいる、のか。

 あれ程突き放し、疎み、避けた我を、未だに慕っているのか。

 気丈さに呆れすら覚える。

 しかし、それでいて……

 峠は越した、と彼女は言い、次いで、もう大丈夫と囁きながら再び髪を掻き分けられた。

 次第に輪郭が鮮明になり、彼女の微笑みが浮き彫りになる。

 嗚呼、また──

 もう、隠すのも無粋だろう。気付かぬふりなどもっての他。

「……」

 彼女の名を呼ぶ。うまく聞こえたかはともかく、彼女は目を見開いた。

 珊瑚の腕輪が暖かい。左腕だけでも彼女に差し出そうと重い布団を掻き分けた。拍子に痛む傷も今やどうでもいい。

 我自身の腕とは思えぬ程に、老人のような弱々しさで天を向いた。障子の隙間から射す月光に珊瑚の朱が目に痛い程映えた。華美なだけだと思ったものにこれ程自身の生を感じるとは。

 すかさず彼女は我の手を握る。

「貴殿に……救われた、か……」

 その手指は驚くほどに冷たい。冷水に浸ったのだろうか。恐らくは、手当てでもしていたのだろう。彼女の笑みが弱々しいのも、付きっきりで我の側に居たからだろうか。

 本当に、気丈な……

 覚悟を決め、目を閉じる。刹那いずれ来る別れに思いを馳せる。

 それがどれだけ悲痛であろうと構わない……など、柄にもない、か。

 目を開く。

 彼女の眼差しにしかと視線を合わせる。

 自然と頬が緩む。意識せずとも、我は今、彼女に向かい微笑んでいる。

 大きな瞳が見開き、淡く揺らいだ。

「……礼を言う」

 嗚呼、駄目か。やはり、言えない。

 まだ間に合うだろうか。

 いや、遅い。彼女の瞳から既に大粒の涙が零れ落ちている。

 このような味気のない言葉でさえ心が揺さぶられる程に、我は彼女に冷たく振る舞っていたのだろう。恋慕とは恐ろしいものだ。そのような男の背をひたすらに追い続けてしまうのだから。

 やはり、償いはすべきだろう。

 両腕を彼女へと伸ばす。流石に傷が疼いて情けない呻きを漏らす。

 身を案じてか、我に身体を傾けた彼女の肩に触れ、背を倒させる。頭を胸元に抱えた。酷く不格好な抱擁となってしまったな。

 今一度女の名を呼ぶ。肩を震わせ、暖かな涙が次々と胸元に落ちてくる。

 本当に、愛らしい。

 我には縁遠いものと思っていた情が溢れ、支配されていくのを感じた。

 我を突き動かすのは天下への執着だと信じ生きてきた。だからこそ、この情を知らずと恐れていたのだろう。今や、その恐れは微塵も感じなくなっていた。今はただ、この温もりを腕に留めておきたい。

 この欲を知った後、待つものは破滅か、地獄か……果たして……

 再び震えた声音が我を呼び、仄暗い思考をかき消す。

 視界を閉じて身を甘んじる。腕に力が自然と籠る。左胸が恍惚と脈打ち、苦しささえ感じる。

 これが……恋、か……

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