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〝ねぇ⋯⋯お願い〟
か細い声が、聞こえた。
〝お願い⋯私を⋯⋯中に入れて?〟
まるで
霧の向こうから
囁くような声だった。
〝此処は、暗くて⋯⋯とても⋯寒いの〟
時也は、ゆるやかに瞬きをする。
〝お願い⋯⋯〟
ぼんやりとした意識の中で
その声に耳を傾けた。
「⋯⋯雪音、なのか⋯?」
声が、掠れる。
「⋯⋯ほら、おいで」
目を開けずとも、彼にはわかる。
この寒さ。
この寂しさ。
雪音は
いつも暗闇に閉じ込められていた。
だからこそ——
「兄の腕へ⋯⋯
寒いのなら、温めてあげるから」
時也は、両手を広げた。
すると⋯⋯
少女の形をした淡い光が
静かに時也の腕の中へと入っていく。
その瞬間——
眩い閃光が走り
時也の意識が、深く沈んだ。
——目を開けると
其処は⋯⋯見知らぬ世界だった。
小高い丘の上。
青々とした草原が
心地好く風に撫でられる音を
奏でながら広がる。
その中に、時也の身体は横たわっていた。
痛む身体をなんとか起こすと
遠くには
見渡す限りの建物が並んでいた。
だが、それは
彼が知るどの都の建築とも違う。
寺社ではない。
城でもない。
異国の様式の建物が立ち並び
人々が忙しなく行き交っている。
何処か温かみのある
色彩に包まれた街並み。
しかし、それが何処なのか⋯⋯
時也には
まるで見当がつかなかった。
「⋯⋯青龍?」
青龍の気配を探し
時也は手を伸ばした。
すると——
「⋯⋯う、ぅ⋯⋯っ
時也様、ご無事ですか?」
聞き慣れた声では⋯なかった。
時也が視線を下ろすと
其処には⋯⋯
小さな〝子供〟の姿をした
青龍がいた。
長い銀白の髪が短くなり
小さな体には余る着物が
まとわりついている。
だが、その山吹色の瞳は
間違いなく青龍のものだった。
「あぁ⋯青龍⋯⋯」
時也の喉が震えた。
「こんなに⋯⋯
小さくなってしまって⋯⋯」
青龍は
ほんの一瞬目を伏せた。
「⋯⋯貴方様の為ならば⋯⋯
構いませぬ」
時也は
ゆっくりと青龍を抱き上げた。
青龍の小さな体が
時也の腕の中にすっぽりと収まる。
その軽さに、時也の胸が痛んだ。
「見てください⋯⋯青龍。
成功です。
世界を⋯⋯渡れましたよ!」
時也は、少しはしゃぐように言った。
だが、それは空元気なのだろう。
彼の喉は潰れて枯れ
声は痛々しく掠れていた。
それでも、彼は笑おうとした。
時也は立ち上がり
青龍を振り回すように抱えながら
無邪気な笑みを浮かべる。
まるで
それが唯一の救いであるかのように⋯。
青龍は
されるがままに振り回されながら
彼を見つめていた。
「そうだ!青龍。
雪音が⋯⋯僕の中に居るんです!
感じるんです、ほらっ!」
時也は、青龍を抱えたまま
もう片方の手を振り翳す。
その瞬間—
地面から、小さな芽が生えた。
青龍の目が、大きく見開かれる。
その芽は
時也の手の動きに合わせ
瞬く間に成長し
やがて、一つの樹となった。
桜の樹。
淡い花弁が
一気に満開に咲き誇る。
青龍は、その光景に声を失った。
「凄いでしょう!?
雪音なんです!
彼女が僕の中にいるんです!」
時也は、興奮したように笑う。
その目は、かつての時也とは違う。
まるで⋯⋯
何かに取り憑かれたような
強い執着の光を宿していた。
その光の異様さに
青龍の背には、冷たい戦慄が走る。
時也は、知らない。
その魂は、この世界に生きた
ー植物の力を操る、魔女のものー
彼が〝雪音〟だと思っている存在は
彼の知る雪音では無い。
青龍は
満面の笑みで桜を見上げる
時也の横顔をじっと見つめる。
小さくなった彼の体では
もう以前のように
庇う事もできない。
けれども⋯⋯
彼がこの新たな世界で
何者になってしまおうとも
青龍は従うと決めた。
例え
その行く先が⋯⋯
どれほど狂おしくても——。
風が吹く。
新たな世界の風が。
だが、その中に微かに混じる
馴染み深い香りがあった。
——桜。
薄紅色の花弁が
柔らかく舞い落ちる。
この世界の土を
踏みしめたばかりの二人の足元に
まるで祝福のように
ひらひらと降り注いだ。
「桜の上で
お昼寝でもしましょうか!」
時也が
はしゃぐように声を上げる。
「此処ではもう
僕も雪音も、お前も!
誰かに縛られる事など
無いのですからっ!」
その言葉と共に
時也はひらりと
桜の幹へと手を掛けた。
まるで
子供にでも戻ったかのように——
彼は、軽やかに木を登り始める。
風に揺れる枝を器用に掴みながら
時には足を掛け
時には腕の力だけで
身体を持ち上げていく。
「⋯⋯やれやれ」
青龍は、呆れたように息を吐いた。
時也が、こんなにはしゃぐ姿など
かつて一度も見た事がなかった。
幼き頃も
彼はいつも静かで
内に秘めた思慮深さを
持ち続けていた。
それが今——
まるで⋯⋯
幼い子供のように
無邪気にはしゃいでいる。
しかし
その姿が余りにも嬉しそうで
青龍は何も言えなかった。
「⋯⋯仕方ありませんな」
青龍もまた
小さくなった身体で
時也の後を追うように
桜を登り始める。
彼の小さな手足では
思うように登れないが
それでも身軽さを活かし
時也の直ぐ後ろまで
辿り着いた。
桜の枝の上。
其処は
柔らかな花弁の絨毯が広がる
特等席だった。
時也は
幹の分かれ目に
すっぽりと腰を下ろし
頭を枝にもたせかける。
「ああ⋯⋯いいですね」
緩やかに目を細め、風を感じる。
「此処では、誰にも
邪魔されませんね⋯⋯雪音」
桜の枝に落ちた時也の影が
ゆらりと揺れる。
その影は
彼の腕の中に
何かを抱いているようにも見えた。
だが、それは誰にも見えない。
青龍は
時也の隣の枝に腰掛け
桜の花を見つめた。
見知らぬ世界の空気に混じる
桜の香り。
懐かしさと
新しさが入り混じる感覚に
知らぬ間に
身体の力が抜けていく。
この長い旅路の疲れと
温かな陽光が
じわじわと
青龍の意識を沈めていく。
風が吹いた。
桜の花弁が舞い落ちる。
新しい世界の桜の上
二人の姿は
穏やかな風に 包まれていた。