テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
🔊🧪/ねぎトロ様より
「いい絵ですね」
挨拶もなしに言われた言葉に、音鳴は肩を揺らして振り返った。空き巣で手に入れた品を売り払っている最中だった。警察が来たのかと思えば、幽霊のように青白い顔の空架がぼうっと立っていた。
空架はメガネのテンプルを触ってカウンターを覗き込む。
「モネですか。素敵な絵だ」
「ビッ、ックリしたー! ぐっさんやん。ビビった〜」
「驚かせてしまいましたか。それは失礼を」
「いや、俺が勝手に驚いただけですやん。謝らんで」
「それはもう。次から勝手に驚かないでくださいね」
「何やこいつ」
「その絵、売ってしまうんですか?」
空架は置かれた絵画を指さした。今回の戦利品で、壁から取り外せそうだからと軽い気持ちで持ってきた絵だった。
「そう。ぐっさんこれ気に入った?」
「はい。言い値で買おうか迷うくらいです。いくらですか?」
両手をカウンターについて、音鳴は改めて絵画を見た。どこかの橋を描いた小さな風景画だ。青い影が印象的で、日光に照らされた朝靄が白く広がっている。
確かにいい絵だった。音鳴はなんでも鑑定団で見栄を張る出品者みたいに、「そりゃもう、100万円すわ」と言った。
空架が神妙な顔で顎に手を当てた。
「100万。本当に100万ですか?」
「おん。いやー、見れば見るほど良い絵! 日々の潤いにピッタリですわー」
「……」
「ぐっさぁん、100万なんていつでも稼げますがな! けどこの絵は今しか買えない! どう? どうですかぐっさん?」
音鳴がこんと額縁を叩く。それは空架の頭の中で、オークションの木槌が振り下ろされる音と重なった。
「買います。請求書をください」
「毎度ォ! 流石お目が高い! 次こういう絵あったら連絡します?」
「ええ、是非。支払いました」
ポチッと電子決済の音が響き、嬉しそうに空架は笑った。
「いい取引でしたね。ありがとうございます」
「お、ほんまに振り込まれてる」
「私の事を犯罪者だと勘違いしていませんか? 医者ですよ」
「ンハハ。ぐっさんそれどこ飾るん?」
「飾る?」
「え、仕舞い込むんすか」
「いいえ、売ります」
「エッ、はっ!?」
空架は額縁を音鳴に持たせ、携帯で撮影した。手馴れたようにオークションサイトを開き、写真をアップロードする。
「この絵、『ウォータールー橋』ですよ。2012年に盗まれた、あの」
「あのとか言われても知らん……」
「モネは? 『睡蓮の池』『日傘をさす女』」
音鳴の眉が限界まで下がる。学校の先生に怒られているような感覚だった。恐る恐る首を振ると、空架が話を続けた。
「フランスの画家で、貧困に喘ぎながらも絵を描き続けた……。あぁ、いえ、そうですね。1億ドルの男ですよ」
「1億ドルの男?」
「はい。『積みわら』という絵がその値段で売れたんです。日本円で122億円。映画『風立ちぬ』の興行収入をたった1枚の絵で超えています」
「めっちゃすごいやん」
「めっちゃすごいですよ」
「えっ、じゃあこの絵いくらになるん?」
「さぁ。ですが、10億は軽いと思いますよ」
「10億!?」
ホンマですか、が喉につっかえて高い吃音になる。音鳴の財布をひっくり返してもこの小さな絵に届かないのだ。
「ぐっさんヤッパリ返してこの絵」
「お断りします。100万と値をつけたのは音鳴さんでしょう」
「知らなかった! 知らなかったから!」
「では勉強不足ですね。次から気をつけてください」
「なんやこいつ! アーッ!」
地団駄を踏んで悔しがる。10億円のチャンスを水に流してしまったのだ。金遣いの荒い男だからこそ、音鳴は目に涙さえ浮かべていた。
「……そんなにこの絵が欲しいんですか?」
「欲しい! どーぉしても欲しい!」
「なら、いいですよ」
「えっホントに」
「はい。しかし、支払った100万で返せというのは……、ねえ?」
「な、ナンボ?」
空架はふっかけた。
「1億円です」
「グギッ」
「いやはや、見れば見るほど素晴らしい絵ですね。印象派らしい鮮やかさです。1900年代に書かれた絵で、ここまでの価値がある作品は他にないでしょうねぇ」
「ぐっさんマッテェ……」
「音鳴さん、1億なんてオークションに出せばすぐ取り返せる額ですよ。お釣りどころか10倍、下手したら100倍の利益です。交渉は今しか受け付けません。どうですか?」
「あ、う、う、値引き! 値引きしてぐっさん!」
「いくら出せます?」
「さ、3000万……」
「はあ。周りから借りればもっと出せるでしょう。8000万円」
「嫌や、またカジノで溶かした言われる。針のムシロなんです今……。なんとか……4000……」
「お気の毒に。7000万でどうです?」
「も、もう一声! お情け! 4500万!」
「……」
「お願いします!」
音鳴がパチンと両手を合わせる。それは空架の頭の中で、オークションの木槌が振り下ろされる音と重なった。
「……仕方ない、いいでしょう」
「ぐっさぁん!」
「これはあなたのものです」
「アザーッス! ありがとォ! ほんまありがとうございます!」
「いえ、私も美味しい思いをしてますから」
「え?」
空架は店内のショーケースを指で辿り、銀の天秤の前で振り返った。
「この国の詐欺罪は定額の罰金刑です。つまり、それ以上の利益を得ればプラスになる」
詐欺。
「えっ」
言葉が理解できず音鳴は一瞬固まった。振り込めとかレターパックとかの言葉が脳みそを通り過ぎていく。
――あれ俺もしかしてぐっさんに貢がされた?
「今回私の利益は差し引き3400万でしょうか。5分ちょっとの問答でこれだ、音鳴さんも一度やってみるべきです」
「ぐっさん? ちょっと待って?」
「その絵、本物だといいですね」
「ぐっさん!? えっ嘘やろ!?」
「訴えても構いません」
「詐欺師っ、詐欺師ーっ!」
「医者です。それでは」
「待てや、おい、このっ、なんやこの医者ーっ!」
ドアベルの涼やかな音を残し、空架は立ち去った。残されたのは真偽不明の絵画と音鳴、心無きの店主のみである。
音鳴はマジマジ1億の絵を見てため息を吐く。
「アジト飾ろ」
売るのは悔しかったのだ。
抜けるような晴天にバイクを走らせる。いつも通りの仕事だった。細い路地を曲がった先に派手な髪色が見えて、空架はブレーキを握り混んだ。
「あ、ぐっさん。助けて〜」
「どうも。事故ですか?」
「や、脱水。やってもうたわ」
「ではここで治療しても?」
「頼んます」
空架は音鳴の下瞼と口内を手早く確認し、医療バックから経口補水液を取り出した。
「点滴は必要なさそうです。ゆっくり、沢山水分を補給しましょう」
「はぁーい」
「吸う力は残っていますか?」
「ん、あんまり」
「わかりました」
プラスチックの吸い飲みにOS1を移す。ジョウロのような容器だ。細長い飲み口を音鳴の唇に添え、「少しずつ注ぎますから、啜ってくださいね」と言った。
「……ぷはぁ。ぐっさんすごいなぁ。なんでも持ち歩いとる」
「そうですね、何でも持っていますよ」
「えっホント?」
おかわりが差し出される。先程よりもしっかりと飲み下せば口内に注がれる量が増えた。
「……、飲みきった。そしたら俺アタリの宝くじが欲しい」
「この間あげたじゃないですか。『ウォータールー橋』」
「あ、そうそれ!」
音鳴は体を起こして空架を指さした。その手にペットボトルが渡される。もう自分で飲めると判断したのだろう。
「あの絵、どうかしたんですか」
「10億円になった。ケインが気に入って売ってくれって」
「へえ。良かったですね」
「アハハハ。ぐっさん、あの時教えてくれてありがとな」
「どういたしまして」
「お礼したいんやけど今日何番?」
「……いえ、なら、お金ではなく時間をいただいても?」
「ええですよ。何すれば?」
「美術館に付き添いを。1人では勇気がでないものですから」
勇気という言葉があまりにも空架に不似合いで、音鳴は目を丸くして黙り込んだ。説明を求められていると思った空架は、目を泳がせてたどたどしく話す。自分でも整理が出来ていないのだろう。
「……記憶を失う前の『空架』は、その、美術に造形が深かったのだろうな、と」
「ぐっさん、そういえば記憶喪失やったね」
「ええ」
「思い出すのが怖いから、俺と一緒に美術館行きたいってこと?」
「……思い出すのも、思い出さないのも、同じくらい怖いので」
小さく、静かな声だった。
音鳴は思わず息を飲んだ。「いえ、大したことではないんですよ」と空架は手をパタパタ動かす。
「寝る前に『空架』に責められている気がするんです。『空架はそんなことしない』『間違っている』『もう取り返しがつかないぞ』と。私の脳みそが作り出した、自縄自縛の恐怖です」
「……」
「だから、その、ええと。『空架』の手がかりを知りたいけれど、私が間違えたことを知りたくないというか。怖いというほどではないので、興味がなければ断っていただいても構いません」
「……ぐっさん、もしかしてさぁ」
「はい」
「最近寝不足?」
「……仕事に支障の出ない範囲では眠れていますよ」
「何時間?」
「3……」
「ぐっさん。それは苦しいわ」
「30分は寝てます」
「ぐっさん!? 3時間じゃなくて30分!?」
「冗談ですよ」
「びっくりしたァ」
「3分です」
「病院行きましょ」
「嘘ですよ」
「モォー」
空架はくすくす笑った。だが顔色は相も変わらず青白くて、目の下にはっきりと隈がある。
音鳴はペットボトルに残った液体を一気に飲み干した。からの容器で空架の胸をぽんと叩く。
「美術館でもなんでも付き合いますから、ぐっさん。先ずは寝ましょ!」
「はぁ」
「ぐっさん今日もう仕事おやすみ! アジト来てください。や、もう俺のクルマ乗って!」
「でも、対暴法が」
「医者休みますからプライベートやん。それに、なんか言われても俺が守ったります」
真剣に話す音鳴の声は随分甘く聞こえた。派手な頭髪に見合わない、一重の瞳がまっすぐ空架を貫く。
モネだ、と思った。赤と白と黄色を点描で置いた、鮮やかな陽だまり。身内にどこまでも優しい男。
隙間の空いた胸が満たされて、どこか暖かい。
「寝ましょ、ぐっさん。ほんでいくらでも遊ぼ」
「……映画みたいなこと言いますね」
「かっこいい?」
「はい、とても」
「せやろぉー」
音鳴は砂を払って立ち上がった。空架に手のひらを差し出してニッと笑う。
記憶にないが、空架は知っていた。
「ありがとうございます。行きましょう」
「ん。行こか!」
これは恋の始まりだ。
コメント
2件
もう本当に好きです。機知に富んだ会話から流れるように情景が思い浮かんで、それが温かい恋に繋がるのが良すぎて言葉が出ません…。解釈に裏打ちされた描写が本当に好きです、素敵な話をありがとうございます…!