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俺に伴われて自宅に帰った瑞稀は「お邪魔します」と大きな声で言い、靴を揃えて中に入った。こんな他愛のないことだが、瑞稀の育ちの良さを覚える。
母ひとり子ひとりで、母親の苦労を垣間見ているから、迷惑をかけずにきちんとしなければと、最低限のマナーをしているのだろう。
「瑞稀、お風呂を沸かしておいた。俺はもう済んでるから、ゆっくり浸かるといい」
「ありがとうございます。あのこのタッパーを、冷蔵庫に入れておいてほしいです」
「タッパー?」
小ぶりだが持ってみると、それなりの重さのあるものだった。なにが入っているのだろうか。
「マサさんとの明日のデート、SAKURAパークに行きたいんです。そこでお昼ご飯として、それを持って行きたいなぁと思いまして、下味をつけた鶏肉を持って来ました。バイト中は、職場の冷蔵庫で保管していたので大丈夫ですよ」
意外な場所の指定に、思わず口を噤んでしまった。しかも明日のデートのことでテンションがあがっているのか、瑞稀の口数が多いことが地味に嬉しい。
「この間はマサさんに、美味しい朝ご飯をご馳走になっているので、今回は俺の得意料理の唐揚げを食べてほしいです!」
「そうか、それは楽しみだな……」
(SAKURAパークを管理している、運営会社課長の俺――サービスを提供しているキャストたちは、瑞稀連れでいる俺をどう見るだろうか)
「マサさん?」
「疲れただろう? お風呂、ゆっくりしてくるといい」
渡されたタッパーをさっさと冷蔵庫に入れ、複雑な心境を悟られないように、浴室に向けて瑞稀の細い背中をぐいぐい押した。
「瑞稀の泊まりがこれからあるだろうと考えて、いろいろ用意してみた。瑞稀の歯ブラシは緑色のこれで、パジャマはそこに置いてある」
あらかじめ準備していた物の説明をし、瑞稀から離れようとしたら、着ているシャツの裾を掴まれた。
「瑞稀、どうしたんだい?」
「あ、なんか用意周到というか、手馴れているみたいな」
「ふふっ、実は手馴れていないよ。長い時間を一緒に過ごしたら、吸血鬼だとバレてしまう恐れがあるせいで、こんなふうにお泊まりセットを買ったことがないんだ」
「……本当に?」
「ああ。瑞稀がはじめてだよ」
上目遣いで疑う瑞稀の顔がかわいくて、思わずこめかみにキスをした。
「マサさん、なにもしないって言ったのに、さっきから俺がドキドキすることばかりしてる」
「俺は瑞稀が傍にいるだけで、ずっとドキドキしてる」
瑞稀の利き手をとって、俺の胸に触れさせた。
「駐車場で瑞稀に逢った瞬間から、ずっとドキドキしてる」
「マサさん俺……」
「どうした?」
胸に触れている瑞稀の手が、戸惑う感じで引っ込み、背中に隠されてしまった。
「俺はこういうのに全然慣れてなくて、どうしていいかわからないんです。なにを言ったら、マサさんを傷つけずにすむのかなぁって」
傷つきやすい俺の心を知ってるみたいな、瑞稀の気遣いに胸が熱くなる。
「簡単だよ、ただひとこと『嬉しい』って言えばいいだけ」
「嬉しい?」
何度も目を瞬かせて、不思議そうな表情を見せる瑞稀。今日はいろんな顔が見ることのできる、貴重な日なのかもしれない。
「瑞稀は俺に触れて、ドキドキが伝わっただろう?」
「はい。てのひらにマサさんの鼓動を感じて、ドキドキがうつっちゃいました」
「イヤな気分になった?」
短い言葉で訊ねた俺に、瑞稀は無言で首を横に振る。
「瑞稀が感じる気持ちはきっと、俺も同じだと思う。以心伝心だね」
「だったら、俺が今してほしいことがわかりますか?」
普段の声よりもちょっとだけ緊張したように、俺の耳に聞こえた。
「瑞稀にそれをしたら、俺は間違いなく約束を破ることになるが、それでもいいのかい?」
さらりと告げたら、目の前にある顔が一瞬で朱に染まった。
「まっマサさんのエッチ! 俺は別に変なことなんて、全然考えてないのに!」
「ここは以心伝心ならずだったのか、残念だな」
「もうお風呂に入りますので、出て行ってくださいっ」
耳まで赤くなった瑞稀は、俺の背中を無理やり押して、脱衣場から追い出した。
「はてさて。瑞稀は、なにをしてほしかったのだろうか」
ひょいと肩を竦めてキッチンに移動。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、喉を潤す。瑞稀がお風呂から出てくるまでに、なにをしてほしかったのかを、じっくりと考えたのだった。