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そんな衝動を止めたのは、藤原雪斗が私の顔を覗き込んだからだ。
「おい……お前、大丈夫か?」
「……」
湊の事で頭がいっぱいで、彼の存在を完璧に忘れ去っていた。
無言の私に、藤原雪斗は眉をひそめる。
「本当に大丈夫かよ?」
大丈夫な訳が無い。湊に振られたことはもちろんだけど、一部始終をよりによって彼に見られていたなんて。
本当に最悪だ。どうして私は後先考えずに感情的になってしまったのだろう。
今後も一緒に働いていかなくちゃいけない相手に、こんなに惨めな姿を知られてしまうなんて。
なんとか取り繕いたいけど、もう何を言ってもごまかしようがないのは分かってる。
それに今は頭が働かない。ただこの場から逃げ出したいとしか考えられない。
「変なところ見せちゃってすみませんでした。私、これで失礼します」
なんとかそう言って立ち去ろうとしたけれど、藤原雪斗が私の腕を掴み止めようとする。
「待て」
「……何ですか?」
こんな状況の私に何を言うつもりなんだろう。
悲しくて苦しくて惨めで消えてしまいたいのに……藤原雪斗と冷静に話す気力なんて無いのに。
全て見ていたんだから、察してそっとしておいて欲しいのに。
「お前どこに行くつもりだ?」
「どこって……家に帰ります」
「あの男と住んでる家に?」
「そうですけど」
「平気なのか?」
平気な訳は無い。こんな精神状態じゃ湊に会えない。
彼女と過ごしてからかえってくる湊なんて見たくない。
でも他に帰る所なんて無い。
愛情が無いと分かっている恋人の居る家に帰るしかないなんて……。
「どうしたい?」
長い沈黙の後、藤原雪斗が静かに口を開いた。
その声は珍しく優しくて、弱った心に響いて来る。
だから本音を漏らしてしまった。
「一人になりたい……湊にも誰にも会いたくない。誰もいない所で思い切り泣きたい」
言い終えたと同時に涙が溢れて止められなくなった。
ああ……藤原雪斗の前で泣いてしまうなんて。これ以上ない失態。
でも呼び止めた彼が悪いんだ……そんなことを頭の隅で思いながら顔を隠した。
藤原雪斗に引っ張られるままに、少し歩いた。
よく分からないけど、多分スーパーの隅のあまり人目につかない物陰に移動したのだと思う。
こんな場所で泣いてる場合じゃないって思いながらも、涙は止まらなかった。
もうどうでもいいって言う投げやりな気持ちも有った。
そうして気の済むまで泣いて、なんとか涙が止まった時には身体が怠くて疲れきっていて頭がしっかり働かない。
でも湊とはもう別れるしかない。
まだ気持ちは湊に有るけど、こんなことになってしまったのに続けるのは無理に決まってる。
湊も彼女のことを知った私とやって行く気は無いだろうし。
どうしてこんな事に……ああ、また気分が塞いで来る。
胸が痛い。せっかく止まった涙が溢れそう。
「おい、また泣く気かよ?」
頭上から焦った声がかからなかったら、絶対泣いていたと思う。
「……まだ居たんですか?」
顔を上げて藤原雪斗の姿を見た瞬間、驚いてつい正直に言ってしまった。
「お前……本当に失礼だよな」
藤原雪斗が顔をしかめる。
「すみません……もう帰ったとだと思ってたから」
もの凄く居たたまれない。
だって泣いてる所を、ずっと見られていたということだもの。
「こんな状態のお前を放置して帰れる訳無いだろ?」
「それは……すみませんでした」
「少しは落ち着いたみたいだな」
気を遣ってくれてるのは分かるけど、かなり辛い。何も言えないでいると、二の腕を掴まれた。
「えっ? あの……」
強い力で振り払えない。何をする気?
慌てる私を藤原雪斗は目を細めて見下ろした。
「今日はもう帰るな」
「え?」
「話も有るし、一緒に来い」
こんな状態で何の話が?
「変な気を起こすつもりは無いから警戒すんな」
藤原雪斗はそう言うと、私の腕を強く引いた。
彼は何を考えてるのだろう。そして私も。
もっと強く抵抗すればいいのに、言いなりになって着いて来るなんて。
目の前にそびえ立つホテルを見上げながら、そんなことをボンヤリと考える。
ここで何をする気だろう。さっきは変な事はしないって言ってたけど、まさか……。
現実に返り焦る私に、タクシーの清算を終えた藤原雪斗が近付いて来た。
「おい、行くぞ」
行くぞって、どこに?
「部屋取ってあるから」
いつの間に……何て手馴れているんだろう。
と言うよりその前に有り得ない。藤原雪斗と泊まるなんて!
どうしてこんな状況になっているの? 振られたばかりの女だからガードが甘くなっていると思われた?
分からないけど、いくら湊に裏切られたからって、藤原雪斗とどうこうするなんて考えられない。
「私、帰ります」
そう言って逃げ出そうとしたけれど、藤原雪斗に阻まれてしまう。
「帰る所なんて無いだろ?」
無いけど、でもホテルに泊まるなんて絶対無理。
「何とかするんで気にしないで下さい。離して」
「ここまで来て離せるかよ?」
藤原雪斗はいつに無く必死に言う。
どうしてそんなに……私に構わなくたっていくらでも相手がいるはずなのに。
「いいから来い。今夜は帰さないって言っただろ?」
「か、帰さないって……何言ってるんですか? 確かに私は惨めに振られたばっかりだけどこんなことできません!」
「は?」
藤原雪斗は怪訝そうに眉をひそめる。
自分が拒否されるなんて思ってもいなかったのかもしれない。
「だいたい藤原さんは奥さんがいますよね? こんなことを知られたらどうなるか分かってないんですか?」
強い口調でそう言うと、藤原雪斗は顔色を変えた。
すごく恐い顔。完全に不機嫌にさせてしまった。
でも、これで諦めてくれたかもしれないと少しホッとした私に、
「お前……何考えてんだよ?」
彼はそれは低い声で言った。
「何って……」
「変な勘違いすんなよ。俺がお前なんかに手を出す訳ないだろ?」
お前なんかって……酷い言い方だと思いながらも、それよりも勘違いという言葉が気になった。
「でも部屋を取ってあるって……」
「お前が今日泊まる部屋に決まってんだろ? 明日も仕事なんだからちゃんと寝られる場所が必要だと思って手配したんだよ」
私がひとりで泊まる部屋?
「人がわざわざ気を遣ってやってんのに、さっきから有り得ない失礼さだな」
藤原雪斗は溜息混じりに言う。
「だ、だって……」
藤原雪斗って言えば、奥さんが居るのに他の女の子と遊んでいる様な女好きで。だから私はてっきり……。
「すみませんでした……」
そうだ。良く考えれば藤原雪斗が私なんか相手にする訳が無い。
馬鹿な思い込みの勘違いだったのだ。ああ、もう恥ずかしくて顔を上げられない。
このまま消えてしまいたくなる。
浮気相手の彼女がいる場で湊に振られ、藤原雪斗には嫌って程、恥ずかしいところばかり見られてしまった。
私の何がいけなかったんだろう。
あまりに悲しくて情けなくて涙が出て来る。
もう大人なのに感情のコントロールすらできない。
俯く私の頭上で藤原雪斗の溜息が聞こえて来た。
きっと煩わしいと思ってる。
こんな風にさっきからメソメソ泣いて、私が男だったら絶対に面倒な女だって思う。
でも藤原雪斗は責める様な事は言わなかった。
それどころか、気まずそうな声で言った。
「悪かった……考えてみれば紛らわしい言い方だったな」
「……」
「お前が混乱する気持ちは分かるよ。俺もかなり自棄になったことがあるしな」
「分かるって……失恋したことなんて無いでしょう?」
藤原雪斗みたいな完璧な男が振られるなんて想像出来ない。だから。
「ある。結婚したばかりの女にあっさり逃げられた、だから今俺は自由なんだよ」
思いもしなかった告白に、涙も止まる程驚いた。
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