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「出てって!」マンションの静寂を罵声が切り裂く。張り詰めた空気が漂う一室で、二人の女が向き合っていた。一人は、飾り気のない部屋着を着て、黒髪を無造作に括っている。もう一人は、白を基調とした気品のある装いを纏い、背中まである茶髪を丁寧に巻いている。今怒鳴り声を上げたのは、黒髪の女だった。負の感情をあからさまに表情に出しながら、目の前の親友を睨みつけている。
幾ばくかの間を置いて、茶髪の女はゆっくりと玄関へ向かい始めた。靴を履いてドアノブに手をかけたと同時に、部屋の主を一瞥する。わずかな逡巡の後、彼女は――
「……ごめん」そう残して、消えた。
卒業間近だっていうのに、内定はひとつもない。お祈りメールとやらも親の顔より見た気がする。同じタイミングで就活を始めたにも拘らず、一か月かそこらで就職先を決められた人間にあたしの気持ちなんて分かるものか。だってあいつは、麗は、あたしと違って何もかも恵まれてる。「多恵子」と名付けられた自分よりも。自身が必要とされていないからこそ、そう感じてしまう。
もう感情がまとまらない。とりあえず夕食を済ませよう。多恵子は棚からインスタント麺を取り出し、煮えたぎる湯の中へと無造作に放りこんだ。自身の劣等感をも煮沸するかのように、麺がほぐれるさまをじっと見つめる。もはや器に移すのも面倒だ。やけに長く感じる三分をどうにかやり過ごし、鍋に入ったままのラーメンを貪るように啜る。食事というより、摂取と言うべきか。淡々と食事を済ませた多恵子は、ゴミも食器もまとめてシンクに置き去った。
手持ち無沙汰になったのも束の間、就活用のアプリを開いて連絡の有無を確認する。目の前に広がるのは、丁寧に、されど無慈悲に綴られた拒絶。やはり状況は好転しないか。分かり切っていたことを再確認して落胆する。ページを切り替えると、まだ受けていない面接や就職試験の日程がずらりと並んでいた。これが自分にチャンスの与えられた数。多いのか少ないのかは分からないが、残された時間は長くはない。
時計を見やると、短針は既に十と十一の間を指していた。瞼も重くなりつつあるし、そろそろ寝る支度を整えたい頃合いだ。学校どころか外に出るのも億劫になっているが、身に染みついた生活習慣だけはどうにもならない。さっさとシャワーを浴びて寝てしまおう。半ば投げやりになりながら、多恵子は一日を締めくくる準備を始めた。
睡魔を追い払ったのはスマホの着信音だった。視界が明瞭になっていない頭ではさすがに間に合わず、手に取った瞬間に音が途切れる。画面には大量の「不在着信」の表示。大学の後輩からだった。平日の朝早くから何事かと首を傾げつつかけ直す。2コール目を待たずして、すぐに通じた。
「おはよう。どうしたの? こんな朝から」
「よかった、やっと繋がった! ……多恵子さん、落ち着いて聞いて下さい」
いつになく神妙な声色に思わず身構える。ただ事ではないという察しはつくが、一体何が起きているのか。
「麗さんが……」
「麗さんが、死んじゃいました」
「……え?」
突然の宣告に頭が追い付かない。麗が死んだ? 昨日会ったばかりの人間が?
「ちょっと、悪い冗談はやめてよ愛奈」
「冗談なんかじゃないです。トラックに轢かれて……」
麗がそんな呆気なく消えるなんて考えられない。底抜けに明るくて元気な、あの麗に限って、そんなことありえない。そう思いたいが、そうならなかったのは愛奈のトーンから嫌というほど伝わってくる。
「それ、いつの話」
「昨日の夕方らしいです」
「らしい?」
「私もついさっき知ったんです。ご家族が麗さんのアカウントで呟いてて」
「……嘘だ。嘘だよ。そんなの……」
昨日の夕方――ちょうどあの時だ。あたしと喧嘩別れした、その帰り道に彼女は命を落とした。知り合いが誰もいない場所で。あんな会話が最期のやり取りになるなんて。麗はどんな気分だったんだろう。悲しみ? 怒り? 呆れ? あたしには想像もつかない。考えれば考えるほど、自分の心も辛くなっていく。
「……ぐ、うぅ……」
「た、多恵子さん……無理しないでください」
「……ごめん、後でかけ直す」
強引に通話を切り、インスタの画面を開く。藁にも縋る思いだった。そんな投稿などあってほしくない。存在しないことを確認するなんて馬鹿げている、そう自嘲しつつも、確かめずにはいられなかった。麗の最新の投稿を見る。そこには屈託のない彼女の笑顔と――「永眠しました」の文字。
次の瞬間から、強烈な罪悪感に襲われた。あたしが麗を手にかけたようなものだ。あの時追い出していなければ。あの時引きこもっていなければ。あの時出会っていなければ。あたしと関わったせいで、こんなことになってしまうなんて。やっぱり、深い人付き合いなんて向いていないんだ。自分の面倒もみられないどころか、友人さえ殺してしまうようなクズなんだ。誇れるものなど何もなかったが、それでも人として最低限のラインは守ってきた。なのに、今やそれすらおざなりだ。あたしは、あたしは――もう、何もかも終わりにしたい。
気がつけば、ベランダの柵を乗り越えていた。
眼前には青空。足元には真白の石。まさか目が覚めるなどとは思ってもみなかった。確かに飛び降りたはず。ここが死後の世界なのだろうか。周りを見渡してみるが、景色に大きな変わりはない。
強いて挙げるならば、この足場から伸びている階段だ。空の上へどこまでも伸びている。その質感は大理石に近い。これを登り続けたらどんな場所に辿り着くのだろう。ここに留まっていても、何か変化があるとは思えない。進んでみようか、あの先へ。
純白の階段は見た目以上にしっかりとした踏み心地で、宙に浮いているとはとても思えない安心感だ。空は透き通るように美しく、風も澄んでいる。生きているうちにこんなところへ行ってみたかった。折角なら、麗とも一緒に――そこまで考えて、やめた。あたしにこんなことを思う資格はない。
俯いたまま歩いていると、足元が平坦になっていた。頂上には早すぎないかと顔を上げると、踊り場であった。直線を描く階段になぜこんなものがあるのか。その答えはすぐに見つかった。
踊り場の左手に扉がある。民家の内装に使われるような、ありふれたものだ。しかしその先に空間があるわけではなく、ただ扉だけがそこに立っている。正面に立って観察してみるものの、何の変哲もない。ただの飾りかと踵を返そうとしたその時、それはひとりでに開いた。驚きのあまり体が固まる。あたしを迎え入れようとしているのか。ドアの向こうは強い光に包まれていて、全く視認できない。
ただ進むだけならば、恐らく無視しても構わないだろう。しかし、何故かあたしの足は立ち去ることを拒んでいた。この扉の先に行かねばならないという使命感さえ芽生えている。何処に繋がっているかも、その先で何が起きるかもわかっていないというのに。一歩、また一歩と出入り口に進む。覚悟を決めて、あたしは光の先へと飛び込んだ。
光の先には屋敷があった。比喩や誇張ではなく、正真正銘の屋敷だ。富豪が住んでいるような、豪華絢爛そのものと呼ぶべき場所である。まさか再び現世に舞い戻ったのか。突飛な状況に理解が追い付かないが、意識も間隔も明瞭なだけに夢とも言い難い。面食らっていると、鏡に映った自分の姿にまたも驚きを隠せなかった。
考えられないほど高そうな紺碧のドレス、金銀の類がふんだんに使われているであろうアクセサリー。どこからどう見ても令嬢だ。世にいう異世界転生を果たしたのか。仮にそうだとしても何処の国の何という家なんだ。情報量は多いのにヒントになるものはあまりに少ない。とにかく情報を集めよう。ベッド、鏡台、クローゼットなど目についたものを片っ端から物色していると、不意にノック音が響いた。思わず反射的に返事をしてしまう。入ってきたのは、如何にも使用人という出で立ちの女であった。
「お迎えに上がりました」
どこかに出かける予定になっていたらしい。当然心当たりなどないが、聞き返せる雰囲気でもない。促されるまま部屋の外へ連れられた。
通されたのは縦に長い大部屋であった。既に家臣らしき壮年の男女が着席している。一体何が始まるというのか。疑問を呈する間もなくひと際大きな椅子へと腰掛け、事の成り行きを見守る。
「遂に今日という日が来ましたな」
右手に座っている男が口を開く。何か大きなイベントが控えているようだ。「お嬢様の婚約者様と初めての顔合わせですものねぇ」予想とは大きく違う単語が飛び出してきた。婚約者? 顔合わせ? 顔も知らない相手と縁談を組むなど何の冗談だ。誰か止めなかったのか。そもそも、そんな相手は求めていない。
「ご来賓の方がお見えになられました」
使用人からの報せまで飛んできた。仕事が早いのはいいことだが、今に限ってはそれも勘弁してほしい。頭を抱えたい気分だ。数刻経ち、複数の足音が近付いてくる。大部屋のドアが開けられ、遂に婚約者が姿を現す。「失礼致します」
やや細身の男だ。部下らしき人物を複数人連れて、あたしの反対側へと腰掛けた。さほど特徴のある外見ではない。
「本日はご招待いただきありがとうございます」
形式的な挨拶を笑顔で済ませる。それからしばらくは、取り留めのない話を繰り広げていた。互いの家のこと、趣味や余暇の過ごし方など……素性を知られたくないしこちらの情報を開示する気もないので、適当に流して答えている。
そんなあたしの態度から察することもなく男のほうは中々に食いついてくるのだから、なんとも面倒なものだ。心中で毒づいていると、あたしの反応の薄さにしびれを切らしたらしい男が突然立ち上がった。
「そうだ! これから私の別邸に行かないか? あそこには色んなものがある、君も退屈しないはずだ」
人の家に来たそばから自分のテリトリーに帰るのか。なんともフットワークが軽いというか、身勝手というか。この瞬間、あたしは目の前の男が「興味なし」から「嫌い」になった。こういう手合いは一番やりづらい。その自信はどこから湧いてくるんだ。自分を顧みたことはあるのか?
早く解放してほしい。だが断って角を立てるのも面倒だ――思考を巡らせていたその時、部屋の奥に控えていた使用人が口を開いた。
「でしたら、一度お色直し致しましょう。ご来賓の皆様、少々お時間を頂戴してもよろしいですか?」
「ああ、構わないとも」
「ありがとうございます。お嬢様、こちらへ」
端的に会話を切り上げた使用人は、私を案内するような立ち位置で歩いていく。他の従者に扉を開けさせたり、主君の会話に交わることが許可されているあたり特別な立場にいるようだ。後ろ姿しか見えていないが、その佇まいに頼もしさを感じる。私室まで戻ったところで、従者は呟いた。
「それでは行きましょうか」
まだお色直しが始まってもいないが、どこへ行こうというのだろうか。そう聞き返すよりも早く使用人は背を向けたまま言葉を続ける。
「お嬢様はあの方とのご結婚を望まれてはいないものとお見受けします。ならばいっそ、私と逃げ出してしまいませんか」
結んでいた髪を下す使用人。動きやすい服に着替えて振り向いたその顔は――麗だった。
生きている。歩いている。喋っている。もう会いたくなかったけど、もう一度会いたかった。その相手が目の前にいる。それを認識した瞬間目頭が熱くなった。が、彼女を殺したのは自分であることを思い出して無理やり涙を引っ込める。
「……如何なさいました?」
なんでもない、と首を横に振って誤魔化す。あちらは私のことを覚えてくれているわけではなさそうだ。ショックではあるが、安心したのも事実だ。もしあの時の記憶が残っていたら、あたしはきっと目を見て話せない。
「替えの服はそちらに」
いつの間にか自分の服も用意されていた。至れり尽くせりである。生前の麗もそうだった。色んな人の相談を親身に受けて、力になろうとする人。あたしに対しても、同じように気にかけてくれてた。あたしは自分のことは自分でどうにかしてたから、麗の手を借りたことはほとんどないけど、その優しさが嬉しかった。
準備を済ませた旨を伝え、音を立てないようにしながら裏口へと回る。ドアノブに手をかけた使用人が振り向いて笑う。あたしはチャンスを与えられているのだろうか。友人との関係をやり直す転機を。過去を償う機会を。ゆっくりとドアが開く。この向こうにあるのは新たな人生。それがどう転ぶかは別にして、麗のお膳立てを無駄にするわけにはいかない。希望を象徴するかのように、向こうの景色も光り輝いている。ここから、再出発するんだ。そう意気込んで踏み出した足は――
無限の蒼白へと、戻り来ていた。
何が起こっている。確かに屋敷の裏口にいた筈だ。それなのに、どうしてその先がここなのか。眼前には何の飾り気もなく広がる青空。足元には飾り気のない白石。夢から現実へと、希望から絶望へと引き戻された気分である。謝ることも出来ず、ほとんど会話も出来ず、生きている姿をただ見せられただけ。振り返ったが、扉は影も形もなく消えていた。
踊り場の上には、飽きもせず真白の段が伸びている。その終着点は欠片ほども見えはしない。これを歩き切るには途方もない距離を進まねばならないだろう。足取りは一気に重くなったが、それも無理やり動かして前へと進む。
それからしばらくは、ただひたすら歩くだけの時間が過ぎていった。変わる気配のない景色、一向に現れる気配のない踊り場。気が参ったのは言うまでもない。足の痛みも増してきている。しかし皮肉にもこの苦痛が、存在しているという実感を与えていたのもまた事実だった。それに、もう一度麗の姿を見たい。あの時は僅かな時間しか彼女を認識できなかったから。あたしが今燃料にしているものの中には、そんな身勝手な感情も大いに含まれている。
どれだけ歩いたかも忘れた頃、ふと上を見上げた。少しだけ、視界に変化があった。何の淀みもなく伸びていた階段が少し途切れている。まさか、と思い駆け上がった。踊り場はあるのか。扉はあるのか。不安と期待が入り混じる中で段差を登りきる。
望んだ通りの光景が広がっていた。正方形の足場と無機質な扉。肩で息をしつつ、胸を撫で下ろす。会いに行ける。今度こそちゃんと言葉を交わせる。そこまで考えた刹那、自分の思考回路に驚いた。
こんな状況で、あたしはあまりにも根拠のない希望に縋っている。また麗に会える確証はない。全く違う世界に繋がっているかも知れない。そもそもあたしに、そんな資格はない。頭で理解している筈なのに、心は揺れ動くばかりだ。人を殺したあたしの、親友を手にかけたあたしの直感や判断を、どうして信じられようか。もう何も失うものがないからだろうか。面倒なしがらみを全て捨ててきたからだろうか。自分自身の内面に疑いを隠せないあたしを誘うように、扉が解き放たれていく。
次なる行先は、光り輝くビル街であった。夜空を吹き飛ばすほどの明かりが照らす摩天楼は、さながら眠らない街といったところか。SF映画で見たような、近未来的な色合いのネオンに照らされた建造物が隙間なく並んでいる。その煌びやかな光景に目を奪われてあたしはただ立ち尽くしていた。
一方で、思考はある程度冴えている。少なくとも前に訪れた世界とは違うようだ。あの扉の行先は一定ではないらしい。つくづく分からない存在だと首を傾げつつ、現状把握の為に周囲を見渡す。
薄汚れた壁、明かりの届いていない通り道、ゴミ箱らしき設備。恐らく裏路地だろう。その先は大通りに通じているのか通行人の姿が見え隠れしている。それとは対照的に、反対側の方向に広がっているのは更に暗い迷路であった。どちらに向かうのが適切かは言うまでも無いだろう。大通りへと進もうとしたその時、突然怒号が飛び込んでくる。
「いたぞ! あいつだ!」
数名の男がこちらへ向かって走ってくる。いかにもガラの悪そうな出で立ちで、その表情には怒りがみてとれる。おまけに「あいつ」と口にした男は明らかにあたしを指さしていた。逃げよう。直感的に判断して体を翻す。土地勘のない人間が路地に逃げ込むなど袋小路になっても文句は言えないが、今はとにかく走るしかない。
「待て!」
男たちはゴミ箱や転がってる缶を蹴飛ばして猛追してくる。なぜ追われているのかは分からないが、捕まったらきっと碌な事にならない。飲食店らしき看板が連なる通りを抜けて、さらに奥へと進んでいく。堂々巡りにならないように左、右、左、右と交互に曲がる。あの連中はまだそのことに気づいていないだろう。なんとか振り切れることを祈るばかりだ。
そろそろ看板も少なくなってきたところで、遂に大通りに出られた。しかし男達の声と足音は未だ遠くはなく、予断を許さない状況だ。開けた場所ならばかえって見つかる危険性も跳ね上がる。どこにどう動けばいいのか。その迷いが判断を遅らせた。
「もう逃がさんぞ!」
こちらの姿が捕捉された。咄嗟に再び走り出したが体の限界も近い。息切れを隠す余裕もない。夢中で路地を駆けていたのが遠い昔のように思える。せめてこうなった訳を先方に聞きたいところだが、あの怒りようではまともに取り合ってはくれまい。もはや万事休すか……そう諦めかけた刹那、突如左手を掴まれた。
「こっち」
その手はあたしを建物の外壁へと引き寄せた。直後、覆い被さる人影。訳も分からず怯えていると、野太い声が通り過ぎていく。
「どこに消えた」
「近くにいるはずだ、くまなく探せ!」
連中が去ったのを確認したのか、人影はそっと離れていく。つばの深い帽子を被り、シックな格好で身を包んだ女だった。顔はよく見えないが、もしあたしの予想通りなら──。「大丈夫? ひどく追い回されてたけど」
帽子をとって露になったその顔は、やはり麗であった。服の好みこそ多少変わっているが、背格好も声もそのままである。喜びよりも安心が勝っている。だけどやっぱり、罪悪感だけは拭えない。目を逸らしつつ首を縦に振って誤魔化す。あの時と同じように麗は私のことを覚えていないようだ。
「このあたりじゃ有名なチンピラの集まりでさ。ちょっとしたことでもすぐ因縁つけてくるんだよね。その癖記憶力がよくないから人違いしてることもざらにあるし」
屋敷にいた時とは打って変わって、軽い口調で語る麗。そんな街に恐らく住んでいるであろう彼女の身も些か心配になる発言だ。尤も、今は自分の心配をするのが先ではある。かなり走ったせいか中々息が整わず、足にも力が入らない。そんなあたしの様子を見かねたのか、麗が思わぬ提案をしてきた。
「……顔色が良くないね。しばらく私の家で休んでいきなよ」
ありがたいが、そこまでしてもらうのは気が引ける。ただでさえ助けられてばかりであるのに加えて、あたしの立場でこれ以上の助けを受けるのは厚顔無恥というものではないか。心のどこかで彼女をアテにしている自分にも嫌気が差している。これ以上考え込む前に、自責と遠慮を込めて首を横に振る。しかし、麗も譲らない。
「ダメ。そんなフラフラなのにどこ行くの。まだあいつらもうろついてるし、今街を歩いてたらすぐ捕まっちゃう」
怒るのではなく諭すように語る麗。本気で相手のことを考えての発言だということが伝わってくる。内容も正論なので反論のしようがない。あたしが答えに窮しているのを察したのか、再び彼女は手を掴んで言った。
「それじゃ、行こっか」
その勢いのまま二人で歩き出す。人通りの少ない小道を抜けて、あっという間に麗の家に辿り着いた。小さな一軒家だった。カードキーを使ってするりと開けられたドアの向こうには、麗の営みが広がっている。家の主に促されるまま、あたしは玄関へと進入した。ごめんね、麗。また厄介になるけど。微かな温かさが身を包む。
――扉を超えたと同時に、それらは全て消え去った。
また、戻ってきた。虚無感しか与えてくれないこの地に。光と闇を交互に与えて、天はあたしに何を望んでいるのだろう。これが罰なのだろうか。それとも、「あれ程の善人をお前は手にかけたのだ」と改めて突き付けたいのか。より光に近づいたからこそ、その後に生じる闇は一層深くなる。
これが何度も繰り返されるようなら、いわゆる学習性無気力になるのも時間の問題だろう。どんな選択をとろうとも無に帰すのであれば、扉を開けることも歩くことに意義など感じない。
ここまでどれほどの距離を来たのだろうと踊り場の下を覗く。なんと、今まで歩んできた階段すら跡形もなく消えていた。苦しみの先にあるのはさらなる苦しみだけだと示しただけでなく、後戻りをも許さないとは。だが人殺しの女に用意された末路などこんなものだろう。そんなことは自分が一番よく分かっている筈だ。いずれにせよ、やることは一つしかない。考えることをやめ、あたしはひたすらに歩き始めた。
登って、登って、また登って。少し休んで、また登る。思えばあたしはずっと何かに追われていた気がする。さっきは警察、その前は婚約者。そして現世にいた頃は、周囲への劣等感。こっちに来てからは麗が助けてくれた。でもあたしの中の劣等感だけはどうにもならなかった。
思えば、どこかで期待しているのだろう。麗があたしのヒーローになってくれることを。誰でも救ってきた彼女なら、あたしの心もすくい上げてくれるかもしれないと。
そんなあたしの独白に呼応するように、三枚目の扉が現れた。ここで自分の気持ちを、自分の感情を確かめて来いというのだろうか。正直、怖い。程々の人付き合いを心掛けていた自分が、誰か一人にここまで入れ込んでいた確証を得るのが。本当の自分が分からなくなる、そんな予感がしてならないのだ。だがここまで思考を巡らせたからには、はっきりと結論を出せるような何かが欲しい。
独りでに空いたドアをじっと見つめる。ここで確かめるんだ。そう意気込んで、あたしは光の先へ飛び込んだ。
そこは、よく見知った空間であった。壁、床、天井。どこをとっても実家のそれだ。何故今になってこんな所に? と戸惑ったのも束の間、右手にある冷たい感触に気がつく。銃だ。拳銃だ。おおよそ見知った景色には似つかわしくない凶器。まさかこれで誰かを手にかけたのか。その予感は、最悪の形で的中した。――母親が、畳を赤く染めて倒れていた。
パニックのあまり拳銃を取り落とす。撃ったのは私なのか? 何も記憶にないというのに? こんな惨いことあたしには出来ない。考えたこともない。震える手で母を抱き上げるが、既に事切れていた。
血の臭いが消えない。落ち着け。これはいつか醒める夢だ。きっと麗が助けに来てくれる。だから大丈夫だ。何も、何も心配しなくていい。銃声を聞きつけたのか、或いは不気味なまでの静けさに違和感を抱いたのか、誰かの足音が駆け寄ってくる。姿を現したのは、あたしの無二の親友だった。
「……なに、やってんの……」
怯えた目であたしを見る麗。違う。あたしは、ただ居合わせただけなんだ。本当に何も知らないんだ。どうにか弁解しようとするが、唇が震えるばかりで声にならない。せめて距離を縮めようと踏み出すものの、麗も少しずつ後ずさる。
「来ないで!」
遂に走って逃げ出した麗。待って。お願い。話を聞いて。必死で追いかけるが、敷いていたマットに足をとられてしまう。何とか立ち上がった頃には、麗は寝室に閉じこもっていた。
「麗、話を聞いてほしいの。ここを開けて」「嫌! そんなこと言って私を殺す気なんだ!」「そんな訳ない! あんたを殺そうなんて――」「出てって! 出てってよ!」
声を荒げる麗。誤解を解きたいが、聞く耳は持ってくれなさそうだ。話を聞いてほしい。少しでいいから冷静になってくれたら……と思わずにはいられなかった。だが、傍から見て異常なのはあたしの方だ。この状況であたしを信じろという方が無理というものである。
ああ、そうか。彼女もあの時こんな気持ちだったんだ。どんな言葉も届かない、門前払いされる虚しさ。最後に抱いた感情がこんなやるせないものだなんて、あたしだったら死んでも死にきれない。そう思うと涙が止まらなかった。
悲劇のヒロインぶって、一人で勝手に落ち込んで、自分はこうするしかないと思い込んで……話を聞いてほしかったのは麗も一緒だったのに。あたしは自分の気持ちばかり大事にしていたんだ。漸く気づけた。あの子の前で口にすべきは自嘲でも羨望でもない。今本当にあたしが言わなきゃいけないのは――
「……ごめん」
泣き喚く親友へ扉越しに謝罪を述べる。慰めたいところだが、今の私には行かなきゃいけない所がある。膝の怪我も気に留めず実家の玄関へと走っていく。出入口の戸を勢いよく開け、青空へと帰還した。
やはり建物への出入りが鍵だったか。自分の推測に安心しつつ天を仰ぐ。今まで扉の先には違う世界の麗がいた。ならば、この先で待っている彼女はあたしが知っている麗かもしれない。自分でも不思議な程に、そう直感していた。あたしがどうなろうとも構わない。ただ、彼女に謝りたい。息を切らして、体を痛めて、階段から落ちそうになってもひたすら走った。
もうこれ以上動けないほどに駆けて、あとは牛歩の如き遅さで一段一段を踏みしめていく。先の景色も、それに応じて少しずつ明らかになっていく。あれほど続いていた純白の道は、指先で追えるほどの短さになっていた。その光景に少し気が緩んだのか、足から力が抜けていく。刹那、声が聞こえた。
「多恵子」
階段の先で、彼女は待ってくれていた。
数段挟んで麗と向かい合う。その視線は互いの瞳に注がれている。数秒の沈黙。勇気を出してそれを破った。
「……ごめん。麗の気持ち、これっぽっちも考えられてなかった。あたしがあんなことを言ったせいで」
「死なせてしまった」
堰を切ったように涙が溢れる。されど今は言葉を続ける。
「何でも出来て、人当たりも良くて、誰からも慕われる。そんなあんたが、あたしには眩しかったんだ。だからこそ……誰よりも近くにいてほしかった。他の皆にもそうしているように、あたしの苦悩を消し飛ばしてくれるんじゃないかって」「情けないよね。程々の人付き合いが美学だったのに、結局は麗に依存してたんだ。あんたの気持ちも考えずに」
「……本当に、ごめんなさい」
そこまで言い切って、再び静寂が訪れる。次に口を開いたのは、階段の上に立つ麗。
「……それは、違うよ」
「全部違うよ。多恵子は情けなくなんかない。私がこうなったのも多恵子のせいじゃないし、何よりあたしは慕われるような人間じゃない」
多恵子とは対照的に落ち着いた態度のまま、麗は言葉を紡ぐ。
「私が色んな人の手伝いをしたり相談を引き受けたりするのは、頼み事を断れないだけ。周りの期待を裏切るのが怖い臆病者なんだ」
「だからごめんね、多恵子。私は多恵子の英雄にはなれない」
「だけど……あの時助けたかったのは本当なの」
顔を上げるあたしを見つめて、麗はくぐもった声で言う。
「他の人と違って、多恵子は強かだった。自分の問題は自分で解決して、一歩引いた視点で物事を見てる。私にもその強さがあればって思ったこともあった」
「初めて出来た、対等な友達。誰よりも大きい存在なんだよ」
「だからさ」
涙を必死でこらえる麗。その顔に浮かぶのは悲哀か、それとも後悔か。
「もっと早く、貴方の気持ちを知りたかった」「多恵子が抱えてるものを、私も一緒に背負っていきたかった」
胸が締め付けられる。どちらかが素直になっていれば、きっと今でも笑いあえてたんだ。互いへの気遣いが、最悪な結果を生んでしまった。「だけどそれは、私も一緒。多恵子に辛い思いをさせた。ごめん」
あたしも麗も泣きじゃくる。抱き合いたくて一歩踏み出すが、彼女に止められた。
「登りきったら、もう戻れなくなる。私は多恵子に生きていて欲しい」
「せめて、手だけでも」
「……握り返せない。握り返したいけど、触れたいけど、出来ない」
「そんな……」
「でも、話せるだけ良かった。すれ違ったままなんて死に別れるより辛い」
「うん」
「だけどもうこっちに来たら駄目だよ? 自分の命を粗末にしたら許さないから」
「うっ……ごめん……」
そう言った直後、空全体が白い光に包まれていく。何事かと周囲を見渡すあたしに、麗が切なそうに声を上げた。
「……そろそろ、時間みたい。心残りが無くなったからかな」
「折角分かり合えたのに、もういっちゃうの」
「そんな顔しないでよ、私だって辛いんだからさ。……そうだ、あの時は顰めっ面だったし、最期は笑顔で別れようっ」
「ほら、笑って!」
麗が自分の口角を両手の人差し指で引っ張る。思わずつられて笑顔になると、彼女は満足したように満面の笑みを浮かべた。
「うんうん、やっぱり笑顔が良く似合う」
「あんたこそ、笑った顔が一番だって」
「そうかなあ」
涙を拭いてようやく二人で笑い合う。やっぱり底抜けに明るいオーラがあるなと考えていると、麗の体が少しずつ透け始めた。別れまで秒読みなのを悟り、あたしは改まって麗の方を向く。
「今度こそ強かに生きてみせる。麗が好きなあたしでいられるように」
「ふふ、頼もしいなあ……いつかここに来たら、その時は」
「土産話も武勇伝も、いっぱい聞かせてね」
勿論、と返事をする前に視界が光に覆われる。何も見えなくなるその瞬間まで、麗の笑顔は輝いていた。
視界には純白。背中には柔らかい感触。釣られた点滴の雫。ここが病院だと気づくのにそう時間はかからなかった。瞼を開ききった直後から聞き馴染みのある声が耳に入ってくる。
「多恵子さん! 良かった……良かった……」
愛奈だった。体を起こすや否や、あたしの胸に飛び込まんばかりの勢いで手を握ってくる。傷がやや痛むが、調子は概ね良好だ。
「あれからどれくらい経ったの?」
「二ヶ月くらいです」
長いような、短いような。時間の経過がさっぱり分からない世界にいたものだから、どう反応して良いのか分からない。だが二ヶ月も実生活を放っておいたとなれば、色々山積みになっている問題もあるだろう。いくつかすぐに思い浮かんだ。
「あー、部屋の掃除しないと。クリーニングに出してるスーツも取りに行かなきゃいけないし」
「気が早いですよ多恵子さん。まずは怪我を治さないと」
「分かってるって」
「……なんか、雰囲気変わりましたよね」
冷蔵庫を漁りながら愛奈が呟く。そうなの? と聞き返すと、にこやかに答えた。
「なんか、明るくなったっていうか……でも、いい変化だと思います。私は好きですよ」
「そっか。ありがとう」
前は愛奈のストレートな表現が苦手だったが、今は心地良い。なんだか麗のことも褒められているような気がした。
「多恵子さん」
「何?」
「もう、どこにも行かないでくださいね。多恵子さんがいなくなったらみんな寂しがります」
「うん。約束する」
病院の静寂を夕日が包む。穏やかな空気が漂う一室には、確かな愛と、それを示す言葉が有った。