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テーブルの上で振動音がした。
真衣香はお風呂上がり、まだ十分に拭けていない水滴が落ちる髪をそのままに、音の方へ急いだ。
残業になると言っていた坪井が『仕事が終わったら連絡する』と。
昼休み明け、2階に立ち寄った時に伝えていてくれたからだ。
「も、もしもし!」
『……はは、そんな慌てて出なくていいよ』
電話が切れてしまったら、困るとばかりに飛びついた姿が見えていたのだろうか。
坪井はククッと小さく笑い声を上げた。
(だって……まだ、掛け直すのって勇気いるんだよね)
電話をもらえるのは嬉しいけれど、自分からは勇気がいる。男の人とプライベートで電話をするなんてほとんど経験がなかったからだ。
そのうえ彼氏だなんて……まだ実感も湧かないままの、そんな日々。
『あのさ……』
甘い緊張感に心と身体が支配されているなか、真衣香の耳に聴こえてきた声。
どうしたのだろうか。
どことなく、元気がない。
「坪井くん、何かあった? 体調悪い?」
夜の9時過ぎ。真衣香ならば、滅多にそんな時間まで会社には残らない。
けれど営業部は日常茶飯事で。
ならば、よっぽど仕事で……もしかしたらそれ以外でも。
大変なことがあったのかな。と、何の根拠もないのに突然心臓がドクドクと激しく主張を始めた。
電話の向こうの坪井は『いや……』と、珍しく歯切れが悪く、次の言葉が続かない。
そして、数秒遅れて聞こえてきた言葉に思わず目を見開くほど、驚かされた。
『ごめん、今から会いに行ってもいい?』
「……え? え、今から?」
『今から』
それだけは、やけにハッキリと答えた。
かなり急ぎの用事なのだろうか?
「だ、大丈夫? 明日も普通に仕事だけど……その、坪井くん疲れてるんじゃ」
『うん、俺は平気。お前の家、行っていい? 会って話したい、どうしても』
「……会って、話したい……?」
『うん、顔見て……お前の顔見て話したい』
坪井の態度や言葉に、珍しい……と驚くには、まだ経験が浅いけれど。
”きちんと”付き合い始めて、ようやく一ヶ月が経ったくらいではないだろうか。
その間、平日に限って言えば一緒に帰ることはあっても、こんなふうに”会いに行ってもいい?” と、突然の言葉は初めてのことだった。
(……いつもと違う。私が知ってる限りの坪井くんと比べて、だけど)
「うちに来てもらっていいの? 何かあったなら私が行く……」
『なーに言ってんの、お前もう風呂入ったでしょ』
自分がそっちに向かうから、と。提案をしようとしたが。
最後まで声にはさせてもらえなかった。
「……どうしてわかるの?」
『仕事そんなに遅くならなかったらいつもこの時間には風呂上がってるじゃん』
よく知ってるね、と。照れ隠しでモゴモゴ返した真衣香に『お前のことは何だって知ってたいからね』なんて。
まるで当たり前のことみたいに、言った。
(今の坪井くんの雰囲気……私のこと喜ばせてる場合じゃなさそうだよ)
しかし、それを顔の見えない電話で言ったところで真衣香の真意はうまく伝わらないかもしれない。
だから。
「うん、わかった。じゃあ、待ってるから。早く来てね、坪井くん」
おとなしく坪井を待つことにした。
『……ありがとな』
返ってきたその声が、あんまりにも頼りなくて。
昼間に聞いた甘く優しい声とはまるで違う。全く別のものだったから。
漠然とした不安が募る。
けれど突き放されたあの頃に比べればどれほどに幸せだろうか。
だって彼の身に起きているかもしれない何らかの変化を、共有させてもらえるのかもしれないのだから。
不安と幸せ。相反する感情を抱えながら。
真衣香は、通話を終えたスマホを手のひらでギュッと包み込んだ。