テラーノベル
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キッチンのテーブルいっぱいに広げられた材料たちは、まるで戦場に並ぶ新兵のようにぎこちなく整列していた。
板チョコの山、生クリーム、なぜか勢いで買ったカラースプレー。甘い匂いはまだしない。ただ、決意だけがむくむくと膨らんでいる。
「夕方まで帰ってくんなって言ったけどさ、あいつら絶対なんか察してるよな」
いるまはエプロンをぎゅっと結び直す。いつもは喧嘩上等の男が、今日はチョコと向き合う覚悟を決めている。
「…でも、ちゃんと作りたいね」
みことはレシピサイトをスマホで開きながら、真剣な目でスクロールする。指先が少し震えているのは寒さのせいではない。
「らんくん、びっくりするかな! 手作りって言ったら、絶対目まんまるになるよ!」
こさめはすでにテンションが高い。鍋を取り出しながら、鼻歌まで歌っている。
「とりあえずチョコ溶かせば形になるだろ。レンジで一気にいくぞ」
いるまが板チョコを豪快に割る。ぱきん、ぱきん、と軽快な音が響く。耐熱ボウルに放り込み、迷いなく電子レンジの扉を開ける。
「ちょ、ちょっと待って、いるまくん。レンジは様子見ながらじゃないと焦げちゃうかも……湯煎の方がいいかも…」
みことが慌てて言う。
「湯煎? それってあれだろ、下からあっためるやつ」
「うん、お湯を張った鍋にボウルを乗せて、ゆっくり溶かすの」
「お湯入れたらいいってこと!?」
こさめが元気よくコンロをひねる。勢いよく水を鍋に注ぎ、火をつける。
「ちょ、沸騰させすぎない方がいいって書いてある……六十度くらい……」
みことは画面を必死に読む。
「六十度ってどんくらいだよ」
「わかんない……」
三人でしばし沈黙。
ぐらぐら、と鍋が元気に沸騰を始める。
「これ、たぶん六十度超えてるよね」
みことが遠い目をする。
「まあいいだろ」
いるまはコンロを切り、ボウルを鍋に乗せる。蒸気がもわっと立ち上り、チョコの表面がじわじわと艶を帯び始める。
「溶けてきた! 溶けてきたよ!」
こさめが身を乗り出す。
「混ぜるのはゆっくり……ゆっくり……って書いてある」
みことが木べらを手に取る。慎重に円を描くようにかき混ぜると、硬かった欠片が少しずつ柔らかくほどけていく。
「なんかさ、これ、ちゃんとチョコの匂いしてきたな」
いるまが鼻をくんとさせる。甘くて、少しビターな香りがキッチンに広がる。さっきまでただの材料だったものが、形を変え始めている。
「ねえ、これ成功じゃない?」
こさめが目を輝かせる。
ボウルの中で、チョコレートはなめらかな川のようにとろりと流れている。さっきまで不安でいっぱいだった空気が、少しずつ甘く溶けていた。
「……完成できるかな」
みことがまた呟く。
「させるんだよ」
いるまが真剣な顔で言う。
「だって感謝って、ちゃんと形にしないと伝わんないもんね!」
こさめの言葉に、二人は静かに頷く。
キッチンには、湯気と甘い匂いと、ぎこちないけれど想いが満ちていた。
何を作るか決めないまま、とろとろに溶けたチョコレートは、ボウルの中でつややかな湖のように揺れていた。
「……で、これ何になるんだ?」
いるまが木べらを握ったまま聞く。
みことはスマホを見つめながら、小さく呟く。
「えっと……丸めて冷やせば、トリュフになるって……」
「トリュフ? なんかむずそうじゃね?」
「簡単って書いてある……たぶん……」
その“たぶん”に三人とも一瞬黙るが、もう引き返せない。生クリームを混ぜ、冷蔵庫で少し冷やし、スプーンですくえる固さになったチョコを前に、即席の工作大会が始まった。
「丸くするだけじゃつまんねーだろ」
いるまは掌でころころ転がしながら、ぐいっと耳のような突起をつける。
「見ろ、熊」
「熊…? ちょっと溶けかけてるよ?」
「そこが味だ」
一方こさめは、指で細長く伸ばし、先端をぴんと尖らせている。
「イカ! 見て、イカ!」
「なんで海の生き物なんだよ!」
「だって可愛いじゃん!」
可愛いの基準が独特だ。触るたびに形が崩れ、また伸ばし、また崩れ、最終的にやや平たいスルメのようなフォルムになっていた。
みことはその横で、そっと両手で丸を作る。少し押しつぶして、指で上をへこませる。
「……ハート?」
「お前、意外と攻めてんな」
いるまがにやりと笑う。
「ち、違うよ、べつに……その、バレンタインだし……」
小さなハートは、少し歪だけれど、丁寧に整えられている。その隣には、こっそり丸くきれいに仕上げたものも置いてあった。
「すちには……ちゃんとしたの、あげたいし……」
みことは小声で呟く。熊とイカが並ぶトレーの中で、その丸いトリュフだけが妙に品行方正だ。
仕上げの工程に入ると、いるまはココアパウダーを豪快に振る。
「粉かけとけば、それっぽくなるだろ」
ざばっ、と想像以上にかかる。
「いるまくん、かけすぎ…」
「見えねえくらいでちょうどいい」
こさめはカラーチョコスプレーを手に取り、惜しみなく振りかける。ぱらぱらどころか、ざらざら。イカが虹色に染まっていく。
「派手派手! らんくん絶対笑う!」
「笑うだろうな……」
みことは自分のハートにだけ、そっと粉砂糖を薄くかける。真っ白な雪をまとったみたいに、やわらかく整った。
数時間後。キッチンは戦場の跡のようだが、トレーの上には確かに“完成品”が並んでいる。
ラッピングも三者三様だった。
こさめは透明袋にリボンをこれでもかと結び、
いるまは無骨な箱に詰めて無理やり蓋を閉じ、
みことは丁寧にクッションペーパーを敷いて、形が崩れないよう慎重に包んだ。
玄関のドアが開く。
「……なんか、甘い匂いしね?」
ひまなつの声がする。
「すごいな。菓子屋みたい」
すちが穏やかに笑う。
「お前ら、何したんだ」
らんの声は半分呆れ、半分期待。
リビングの扉が開くと、三人は並んで立っていた。
「おかえり」
控えめな声が重なる。
いるまとみことは、どう渡すか何も考えていなかったことに今さら気づき、固まる。手の中の箱がやけに重い。
けれど、こさめは迷わない。
「らんくん!」
ぱっと駆け寄り、そのまま勢いよく抱きつく。
「バレンタインだから、みんなで作った! らんくん食べて??」
満面の笑み。期待がきらきらとこぼれている。
「え、……まじで?」
らんは目を瞬かせ、少し頬を赤くする。
「嬉しい。ありがとう」
その場でリボンを解き、袋を開ける。
出てきたのは、カラーチョコスプレーをこれでもかと浴びた、大きめのイカ型トリュフ。
「……イカ?」
思わず声が漏れる。
こさめは胸を張る。
「力作!」
らんは一瞬びっくりした顔をしたあと、ふっと笑う。
「こさめらしいな」
指でつまみ、ひと口かじる。外側のスプレーがぱらぱらと落ち、口の中いっぱいに甘さが広がる。少し形は崩れているし、粉も偏っている。でも、不思議と温かい。
「……美味いよ。ありがとう」
らんが笑うと、 こさめはぱあっと花が咲いたみたいに明るくなる。
「うん! らんくん大好きだよ!」
ぎゅっとまた抱きつく。
甘い匂いと笑い声が、部屋いっぱいに広がった。
らんとこさめのやり取りを、みことは少し離れた場所から見ていた。
こさめの屈託のない笑顔と、照れながらも嬉しそうに笑うらん。その空気があまりにもあたたかくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……」
手の中の箱を、ぎゅっと握る。
すちはそんなみことの様子に気づいているのかいないのか、穏やかな目でこちらを見ていた。
みことは小さく息を吸い込む。
「……すち」
声が思ったよりも細い。けれど逃げなかった。
「ん?」
柔らかい返事に背中を押されるように、一歩、近づく。
「あんまり、上手じゃないけど……その……すちに、食べてほしくて」
恐る恐る、両手で箱を差し出す。
きちんと包んだはずのリボンが、やけに頼りなく見える。
すちは一瞬きょとんとして、それからゆっくりと微笑んだ。
「嬉しいよ。ありがとう、みこと」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
箱を受け取ると同時に、すちは自然な動きでみことの腰へ腕を回した。
「こっち、行こっか」
そのまま別室へと導かれる。
驚きながらも、みことは抵抗しない。むしろ、その腕の温もりにほっとした。
並んでソファに腰をかけると、部屋は少しだけ静かになる。
外からはまだ笑い声が聞こえてくるけれど、ここは二人だけの空間みたいだ。
すちは丁寧にリボンをほどき、紙を開く。
中に並んでいるのは、丸く整えられたトリュフと、少し歪なハート。
「……可愛い」
すちが小さく笑う。
みことは眉を下げたまま、じっとその反応を待つ。
良かったのか、変じゃないか、甘すぎないか。頭の中で不安がぐるぐる回る。
すちは丸い方をひとつ摘まみ、口へ運ぶ。
ゆっくりと噛んで、溶けていく甘さを確かめるように目を細めた。
「ふふ、美味しいね」
その一言に、みことの肩から力が抜ける。
「……ほんと?」
「うん。ちゃんとトリュフの味する」
当たり前のことなのに、それがどうしようもなく嬉しい。
みことは小さく息を吐く。
胸の奥の緊張が、ようやくほどける。
すちの手が、みことの頬にそっと触れる。
「みこと」
呼ばれて、顔を上げた瞬間。
唇が、重なった。
驚く間もない、やわらかな接触。
そっと触れて、離れかけて、また重ねる。
みことの瞳が揺れる。
すちはそのまま、緩く唇を開き、そっと舌先を差し入れた。
甘いチョコの名残が、ゆっくりと溶け合う。
絡む舌は強引ではなく、優しく。
チョコの濃い甘さが、二人の間を行き来する。
みことの指が、すちの服をきゅっと掴む。
鼓動が耳の奥で大きく響いていた。
しばらくして、すちは名残惜しそうに唇を離した。
細く伸びた甘い空気が、ふっと途切れる。
「……甘いね」
すちが小さく笑う。
みことは唇を指で押さえながら、頬を赤く染める。
「……甘い……」
自分の声が、どこかふわふわしている。
さっきまでの緊張は消えていた。
代わりに、胸の奥がじんわりとあたたかい。
チョコの甘さと、すちの体温と。
みことはただ、隣にいる人を見つめながら、小さく微笑んだ。
みこととすちが別室へ消えてから、リビングの空気は少しだけ落ち着いた。
こさめはまだらんの隣で楽しそうに笑っている。
その光景を横目に、いるまは手の中の箱をじっと見つめたままだった。
「……」
渡すタイミングを、完全に失っている。
ひまなつはそんな様子を、気だるげな顔のまま観察していた。けれど目だけは、優しく細められている。
「いるま」
名前を呼ばれ、びくりと肩が揺れる。
「部屋、行かね?」
軽い提案。逃げ道を作るような声音。
いるまは一瞬迷い、それから小さく頷いた。
「……ん、」
二人でひまなつの部屋へ向かう。
ドアが閉まると、外の笑い声が少し遠くなる。
床に並んで座るが、 妙に静かで落ち着かない。
いるまは箱を膝の上に置き、視線を逸らしたまま呟く。
「……期待すんなよ」
ぶっきらぼうに差し出す。
ひまなつはくすっと笑った。
「ん。ありがと」
受け取る手つきは丁寧だ。
ゆっくりとラッピングを解き、箱を開く。
中には、少し不格好だが耳のついたくまの形のトリュフ。ココアパウダーをたっぷりまとって、どこか無骨で、それでいて愛嬌がある。
ひまなつは目を細める。
「……いるまみたいでかわいいな」
さらりと言う。
いるまの眉がぴくりと動く。
「ばか」
反射のように出た言葉。けれど声はいつもより少しだけ小さい。
ひまなつは楽しそうに、いるまを見つめる。
「食べさせて?」
軽く口を開く。
いるまは一瞬固まる。
「は? 自分で食えよ」
「せっかくなんだから」
視線が絡む。
断れるはずがない。
「……っ」
くまトリュフを摘み、そっとひまなつの口元へ運ぶ。
唇がそれを迎え、ぱくりと咥える。
「ん……」
ゆっくり味わってから、ひまなつは微笑む。
「美味いじゃん」
優しい、素直な笑顔。
いるまは視線を逸らす。
「お世辞とかいらねぇし」
可愛くない返し。
けれど耳はもう赤い。
ひまなつにとっては、それがたまらなく愛しい。
「いるま」
低く呼んで、腕を掴む。
「な、なんだよ」
そのまま、指先を引き寄せる。
ココアパウダーのついた指を、ひまなつは口に含んだ。
ゆっくりと、舌でなぞるように。
「……っ」
指先に伝わる、あたたかな湿り気。
やわらかい舌の感触が、はっきりと伝わった。
いるまの呼吸が止まる。
粉をきれいに舐め取るように、丁寧に。
ぬるりとした感覚が抜けていくたび、いるまの耳がさらに赤く染まっていく。
やがて、指が口から離れる。
「ごちそうさま」
そう言って、ひまなつは軽く身を乗り出した。
唇に、ちゅ、と短いキスを落とす。
触れるだけのやさしい熱。
「……んっ」
いるまは何も言えず、ただひまなつを睨むように見つめる。
けれどその目は、どこか揺れていた。
ひまなつは満足そうに笑っていた。
甘いチョコの香りと、ほのかな体温が、静かな部屋にゆっくりと溶けていった。
コメント
4件
うわぁ、みんな可愛いね(?) 朝から栄養過多ですね!
うお、今から入試の私には甘すぎたか、今日頑張れそうです