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ユカリは歩哨のようにぐるりと四方を見渡す。どこを見ても蟲、蟲、蟲だ。無数の脚で蠢き、脚なき身をくねらせて這い、不気味な色合いで揺らめている。
悲鳴の聞こえた方向に人の姿は見えなかったが、蠢く蟲が寄り集まり、塊になっていることにユカリは気づく。
小枝に飛び乗る栗鼠のように身軽に素早く魔法少女ユカリは杖に跨り、ありったけの空気を噴出して蟲の塊の方へ飛ぶ。もはや声は聞こえず、その蟲の中に誰かがいる確証はない。ユカリは寡兵を率いて大軍に挑む将のように覚悟を決めて邪悪なる蟲の塊に飛び込んだ。
もしかしたら魔法少女の衣を嫌って蟲の方から離れてくれるかもしれない、という淡い希望は消え去った。全身を這い回る蟲を掻き分け、悪臭に嗚咽しながらもそこにいるはずの誰かを探す。
何かをつかむ。温かくて柔らかい。人だ。細くて軽い。
ユカリは再び杖を踏みつけにし、しっかりと両腕で誰かを抱えこみ、一気に空へと飛び上がる。蟲は思いのほか抵抗し、ユカリが抱きかかえる誰かを奪い返そうと引っ張った。蟲の群れが互いにくっつき合い、一つの意志のもとに協力している。巨船を停泊させる錨の鎖のように、あるいは雲をつかまんとする巨人のように蟲の群れがユカリを引き戻そうとする。ユカリは空へと逃げるが、『騙り蟲の奸計』の群体は長く伸びて、切り離せない。そうこうする内にその繋がりをさらに強靭にしようと湖中の蟲が集まってきた。
ユカリが助けを求めて口を開こうとした瞬間、火花煌めき空気をも焦がす数羽の炎の鳥が蟲の繋がりを断ち切り、ユカリは空へと解放される。それでもユカリが助け出した子供に蟲はしつこく纏わりついている。噛みついたり刺したりはしないが、地上の蟲の助力を得ようと下へ下へと垂れ下がるのでユカリはさらに高度を上げた。魔法少女の第四の魔法で蓄えられる空気は有限だ。ずっと飛んではいられない。地上の蟲もユカリたちに纏わりつく蟲も変わらず機を窺っている様子だ。
ユカリは地上に向かって呼びかける。「ベル! もう一回! 浄化を試してみて! これをどうにかしないと! どうにもならない!」
ベルニージュは魔法の琵琶を構えることで返事をした。
次は上手くいく。そんな予感がユカリの中にあった。上空からでもベルニージュの表情に確かな自信が現れ出ている。
ベルニージュの爪弾きが楽の音を生み、楽の音が蟲を岸辺から退けていく。縁から湖面が浄められ、『騙り蟲の奸計』が追い詰められていく。
ユカリの助けた子供にたかっていた蟲も一つまた一つと力を失って零れ落ちる。現れた少女にユカリは見覚えがないが、聞いていた特徴に合致する。今はぐったりとしているが、幼さの割に意志の強そうな面立ちだ。乱れに乱れてはいるが、深い夜の如き染まることのない黒い髪は長くて柔らかくて少し癖がある。強情そうな眉は折れることのない黒鉄の剣の如く、小さくも尖った鼻は気ままでしなやかな猫を思わせ、唇は今にも口達者な妖精のように言い訳を並べそうだ。燃え盛る炎の刺繍が施された黒の僧衣は護女のものだが、少女を縛り付けることは出来ず、纏いつくのが精一杯で振り回されてきたのだろう。それこそが護女エーミだった。
何かに耐えるような表情ながらも気を失っているエーミを抱え、ユカリは地上に降り立つ。
「ベル。ありがとう。助かったよ」
ベルニージュは湖を見つめながら唇の片方を上げる。
「まだ助かってないみたいだよ」
その視線の先、穢れた湖の中心に無数の『騙り蟲の奸計』が集まっていて、狂乱したように湖面を跳ねまわっている。
次の瞬間、蟲と水が爆発し、まるで間欠泉のように空高く噴き出す。再び呪いが溢れ返り、大波となって迫りくる。
「ベル! カーサ! 乗って!」ユカリはエーミを背負い、カーサに巻き付かれ、ベルニージュと共に魔法少女の杖に乗る。「一旦退くよ」
一直線に街へと戻り、できるだけ手近の高い屋根に降り立つ。平らな屋根に気を失ったままのエーミをそっと寝かせる。
呪いの大波はそれほど速くも高くもなく、獲物を見つけた粘菌のように広がって、再び湖を満たす。より強烈な悪臭が街に到達し、ユカリの鼻の奥を突き刺し、涙を催させる。
しかし全てが元通りという訳ではなかった。湖の中心へと『騙り蟲の奸計』が集まっている。お互いの矮小な体を這い上り、一塊になったと思えば飛び散って崩れ、再び相食むように凝集する。湖の中心の蟲はエーミを襲っていたような団子状では満足せず、混沌的な這いずりの中から秩序を生み出し、六本脚の巨大な昆虫のような形態をとった。湖面に浮いている辺り、まるで飴坊のようだ。そのような形態をとった、とその場にいる者たちが認識した後もなお飽きずに無数の蟲はお互いを、その群体を這い回る。時に細長い脚のようになった蟲の柱が折れ、無様に横倒れになっても再び脚を伸ばし、湖面で群体を支えて持ち上げ、前へと進む。満身創痍の者が体を引きずって這い進むように、ともすれば憐れみを誘うような姿を見せるが、そこに善性が宿っているようには見えなかった。
「一体何ごとですか!?」と怒鳴る神官長ルチェラの声が下から聞こえ、ユカリは屋根の端から見下ろす。
「ルチェラさん。あれが何かご存知ですか?」
ルチェラが驚いた様子で屋根の上のユカリを仰ぎ見る。「ユカリさん!? 何かも何も、蟲に覆われていなければ言い伝えられている土地神にそっくりです! 一体誰が彼女を怒らせたのですか!?」
「分かりません!」とユカリはきっぱりとかまととぶる。自分たちかもしれないがまだ確かではない。ユカリはベルの元に戻って自信なさげに尋ねる。「だって呪いを浄化して怒られる筋合いないよね?」
「うん。むしろ土地神から引きはがされそうになった呪いの方が怒ってるのかもしれない」
ユカリは誰かが聞き咎めるのを恐れるかのように声を潜める。「え? それじゃあ本当にあれは神様なの?」
「捉え方次第だね」とベルニージュは巨大な飴坊を見つめながら言う。「いわゆるグリシアン神話に語られる神々とは別だよ。神として崇められる何者か。土地神とか小さき神々とかって呼ばれる存在。少なくともクヴラフワ諸侯国が呪いに呑み込まれる以前は時折人の前に姿を現して力を振るったそうだよ。クヴラフワが封印されて以後のことは知らないけど」
だとすればマルガ洞の奥の亀裂の向こうにも土地神様がいたのだろうか、とユカリは少し恐ろしいような申し訳ないような気持になった。
ふとユカリが背後の気配に気づいて振り返ると、エーミが目覚め、おっかなびっくり立ち上がっていた。
「大丈夫?」とユカリは声をかける。「自分がどうなってたか覚えてる? エーミだよね?」
エーミは頷く。幼いながら思慮を感じさせる眼差しだが、瞳には不安の色が見て取れる。顔は血の気を失っており、震えを押さえつけるように唇を噛んでいる。
「うん。覚えてる」エーミはまだ心の内に恐怖が巣食っているようで、辺りを警戒しながら一言一言を呟く。「突然、蟲が意思を持ったみたいに襲い掛かってきて、それで……」
「あそこで何をしてたの?」
「それは……」
エーミが言葉を濁す様子を見て、ユカリはそれ以上の追及をやめる。
「まあ、うん、いいや。私たちは君のことを少しだけ知ってるんだよ。ネドマリアさんとソラマリアさん、じゃなくてシャリューレさんは知ってるよね? クヴラフワに来てるって噂を聞いて、君のことを案じてたんだ。とにかく屋根の真ん中辺りにいて。あの蟲は見境なく襲い掛かってくるようだから」
エーミは混乱しながらもこくこくと頷き、ささやかな笑みを浮かべる。
「ありがとう。エーミを助けてくれて」