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「橋本くん、どこに向かっているんだね?」
「朝倉支店に向かっておりますが……」
榊を証券会社へ無事に送り届けた後、お得意様である銀行の頭取を後部座席に乗せて、橋本は通い慣れた道を走っていた。
「今日は木曜だ、朝倉支店じゃない」
小さく笑いながら指摘された頭取の言葉を聞いて、橋本は血の気がザーッと引いてしまった。
「申し訳ございませんっ、越水支店でしたね。Uターンしてすぐに向かいます!」
方向転換すべく安全確認してから右車線に入り、交差点に進入する手前でウインカーを点灯させた。
「仕事に正確な君がミスをするなんて、かなり珍しいことじゃないか」
「いやはや、大変失礼いたしました」
車に遠心力がかからないようにスムーズにUターンさせて、いつもよりアクセルを踏み込んで目的地に急いだ。時間に余裕はあったが失敗した手前、早めに到着したほうがいいと瞬間的に判断しながら、ルームミラーで頭取の顔色を窺った。
「君はまだまだ若いんだから、曜日感覚がズレるくらいに楽しめばいいだろう。私のように歳をとったら、それができなくなるからね。それで相手の女性とは、最近知り合ったのか?」
いきなりなされた下世話な質問に、橋本の営業スマイルがぴきっと引きつる。
「この仕事が忙しくて、女性との出逢いはさっぱりですよ。ハハッ!」
思いっきり動揺していたせいで、自身のプライベートをそのまま口走った様子を嘲笑うかのように、頭取は嫌味な微笑みを口元に湛えた。
「照れながら誤魔化すなんて、らしくないじゃないか。悩ましげに目の下にクマを作っているのが、その証拠だろう? 羨ましい限りだね」
(照れてなんていねぇよ。さりげなく日頃のストレスを、俺にぶつけないでくれ……)
否定したことが裏目に出てしまい、かえって面倒な展開になったので、曖昧な返事をしてやり過ごすことにした。
これ以上のミスはしないようにと、細心の注意を払った傍から、今日に限って普段はしないようなケアレスミスを連発してしまい、最後のお得意様である榊を乗せた頃には、疫病神を背負っているじゃないかと錯覚するくらいに、橋本はぐったりしていた。
寝不足気味なだけで躰には何ら支障はないのに、1年分の失敗を量産するような自分の仕事ぶりに辟易し、ハンドルを握りしめながらため息をついたときだった。
「橋本さん、マンション通り過ぎますよ!」
大きな声を出して注意を促した榊のお蔭で、マンション前を通り過ぎることは回避されたものの、急ブレーキをかけたことにより、ハイヤーのタイヤが悲鳴をあげた。
「恭介、悪いっ! ボーっとしてた」
声をかけながら後ろを振り返ると、何度も目を瞬かせて驚いた顔をしている榊と目が合った。
「いつもならスピードを落とすところを、そのまま走り抜けようとした感じだったので、びっくりしました」
「昨日、恭介の真似して有休をとって遊び倒したんだが、今日になって疲れが出ちまってこのザマさ。本当に済まない……」
橋本の身に着けている白手袋が、じわりと嫌な汗で湿っていく。あまりの気持ち悪さに急いで外した。
「本当にそれだけですか?」
ちょっとだけ眉根を寄せた榊が、猜疑心を含んだ眼差しで橋本の顔を見つめる。咄嗟についた嘘を見破られないように、小さく笑いながら横を向いた。
「それだけだって。それ以上も以下もないさ」
「橋本さん、何だかいつもと様子が違うっていうか……。どことなく思いつめた感じが伝わってきたので」
自分のことを心配して告げられる榊の言葉を聞き、橋本は言い知れぬ苛立ちを覚えた。いつもなら気遣ってくれる榊の気持ちを嬉しく思えるはずなのに、今日にいたっては煩わしさを感じてしまった。そんなマイナスな感情を悟られないように、橋本は必死になって作り笑いを浮かべる。
「恭介、覚えておくといい。30代になると、夜遊びの疲れが次の日になって、こうして祟っちまうんだ。思いつめてるんじゃなくて、躰が重くてしょうがない」
外した白手袋を握りしめながら、できる限り平静を装って喋った橋本を、榊は浮かない表情で見つめてから、後部座席のドアを開けて、颯爽と表に出る。
「……あまり無理しないでくださいね。ありがとうございました」
耳障りのいい榊の声が橋本の心に染みる前に、いつもより手荒な感じでドアが閉められた。
「恭介っ!」
慌ててシートベルトを外してドアを開けながら、橋本が声をかけると、背を向けて歩き出した榊の動きが止まった。振り返らずにそのまま立ち止まる様子だけでは、何を考えているのかわからない。
わからないからこそよく見たら、榊が左手に持っているアタッシェケースが、細かく震えていた。
「恭介?」
「記憶喪失の和臣のことで俺が困ってるときに、要所要所で橋本さんに助けられました。仕事が終わってから橋本さんにかけられる『お疲れ、恭介』っていうたった一言のねぎらいの言葉に、すごく癒されてます。そんな情けない俺だから頼れないのかなと、改めて考えさせられました」
そっと名前を呼んだ橋本に、榊は複雑な感情を押し殺すような声で話しはじめた。
「橋本さんは嘘をつくときに、必ず俺の視線を外すんです。いつも寂しそうに笑いながら……」
(だって、そうするしかなかったんだ。俺の気持ちをおまえが知ったら、絶対に困り果ててしまう。今の俺のように困惑させたくない)
「……確かに嘘をついた。でもそれは、おまえが頼りないからじゃない。違うんだ」
じっと榊の背中を見つめて、切々と思いの丈を訴えた橋本を確認するように、榊は躰ごとゆっくり振り返った。目に映るこわばった榊の顔から緊張感が漂っているせいで、自然と橋本にもそれが伝染し、ひゅっと息を飲む。
大好きな榊が自分をじっと見つめているというのに、ドキドキするどころか、張り詰めた空気をひしひしと感じて、足元から石化しそうな気分に陥る。
「橋本さん?」
固まったまま、何も発しないことを不思議に思って、榊から声をかけたのに、橋本は瞬きを増やして首を傾げながら呟いた。
「――あれ?」
「どれ?」
「おかしいな、どういうことだよ……」
胸元を押さえて狼狽えだした橋本が心配になり、榊は急いで駆け寄った。
「橋本さん、どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
榊の右手が落ち着きのない橋本を宥めるように、力強く左肩を数回叩く。確実に叩いた振動が伝わっているはずなのに、橋本の動揺は収まらないまま、ゆらゆらと瞳が揺らめいた。
「橋本さん、何がおかしいんですか?」
「だって、おっ――」
言いかけて榊の目線から外しそうになった自分の視線に気がつき、さらに躰をこわばらせた。
(この視線を外したらアウトだ。恭介を悲しませてしまうだろ)
「恭介、俺は……俺はっ」
「はい」
取り乱した気持ちを表すように唇を震わせる橋本を、柔らかい笑みを浮かべる榊が見下ろした。オールバックの下にある面持ちは、橋本が恋焦がれるものだったはずなのに、なぜか冷静に見つめることができた。
まるで旧知の友に、久しぶりに逢ったみたいな感覚――平日余程のことがない限り、ほぼ毎日顔を突き合わせているからこそ、以前との違いに気がついた。
仕事始めと終わりに榊を迎えに行くときに感じていた、ドキドキする胸の高揚感や、ハイヤーに乗せてから後部座席の様子をルームミラーで見たときの嬉しさを噛みしめる行動など、ここ最近まったくしていなかった。
(あれだけ気にしていた恭介の存在を綺麗にかき消したのは、他でもないアイツだ――)
「……昨日、友達だと思っていたヤツに告られた」
自分の心の中を見つめ直したら、告げるのを躊躇していた言葉が、橋本の口から飛び出した。
「その友達って以前話題に出た、心を許した友達って人ですか? 橋本さんが悪ふざけをして、喧嘩をしたことのある」
「ああ、ソイツ……」
「橋本さんが気落ちしている理由が、さっぱりわかりません。嬉しくないんですか?」
宮本に告白されて嬉しく思う気持ちは、橋本にまったくなかった。
「嬉しさよりも困った。俺は友達として普通に接していただけだったし、好きになられるところなんか全然ないのにさ」
「そんなことはないと思います。お友達は仲良くしていくうちに、橋本さんの良さに惹かれて、好きになったんじゃないでしょうか」
「俺の良さなんて言われてもな……」
榊が真摯な態度で告げた言葉の意味はわかったが、自分のどこを見て宮本が好きになったのか、橋本の中では未だに謎のままだった。
「誰だって、自分の良さはわかりませんよ。でもわからないそれが、たまたま相手の好みだったり、惹かれるきっかけになるのかもしれませんね」
(前は目の前にいる恭介が好みだったというのに、今現在は違う――雅輝と接していくうちに、いつの間にか惹かれてしまったということなんだろうか? しかも好きまでたどり着いていないこの想いを、何と表現すればいいんだ?)