どこにいてもはっきりと見える、真っ白な塔。高い崖の上に建つあの塔が何なのか、それは小さいうちから教えられる常識だった。
世界を守る、九つの祝福を秘めた『アイの塔』。選ばれしメシアが祝福を賜り、世界という名の楽園の命を繋ぐ。誰もが憧れる、英雄たる《救世主》。神話みたいな話だが、この世界の人間は誰でも知っている事実だった。
____これは、哀しき定めの物語。
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夕暮れ時に集められた七人の生徒たち。彼らはそれぞれの寮服に身を包み、真剣な顔で円卓に座っていた。珍しく全員揃い、まるで会議のようであるのに、誰も一言も発さない。誰の顔も見ていない。みな、真剣な顔で手元の資料を見つめていた。あのレオナでさえ眉根を寄せて資料を睨んでいる。
その時、ノックの音が響いて一人の生徒が入ってきた。
「し、失礼します…。えと、寮長会議の部屋ってここであってますか?」
「あぁ、あっているよ。時間もぴったりだ。」
「お、ユウ!こっちに座ってくれ!」
ペコリとお辞儀をして、カリムの横の空席に座ったのは、オンボロ寮の監督生、ユウだった。彼女はかなり緊張した面持ちで、背筋をピンと立てて座っている。そこへ、クロウリーがやってきた。
「おやおや皆さん、お揃いで。手短に話ができそうですね。」
いつものあの胡散臭い笑顔を貼り付けながら、クロウリーが座る。レオナとイデアは顔をしかめた。
「今回みなさんをお呼びしたのは、他でも無い…メシアが選ばれたからです。」
「なるほどな。で、誰がそのメシアなんだ?」
レオナが退屈そうに言う。リドルは深刻そうな面持ちでユウを見ている。リドルは察していた。
「はい。今回のメシアは、ユウさんです。」
「わ、私がですか!?」
ユウは明らかに驚いて、狼狽た。ユウがやってきたのは異世界だ。そんな魔法も使えない異世界の人間が、この世界のメシアになるなど、にわかに信じがたい。ヴィルやマレウス、アズールも同じように思っていたが、寮長会議に彼女がきた時点ですでにあり得る話だった。
「すごいじゃない、小ジャガ!」
「ふん、草食動物から英雄になるとはな。」
「頑張れよー!何かあったら俺も手伝うぜ!」
「………乙。」
最後のイデアの呟きは誰にも届かなかったが、ユウは照れ臭そうに笑う。
「メシアについては、お手元の資料で確認してください。寮長の皆さんには、ユウさんを無事に塔まで送り届けて欲しいのです。」
クロウリーが咳払いをしてから続けると、レオナは欠伸をしながら、アズールは満面の笑みで頷いた。リドルだけは少し険しい顔をしているが、誰もそれには言及しない。
「わかった。出発は3日後だな。」
マレウスが腕組みをしながら言った。クロウリーは頷いて、一しきりメシアについて軽く説明していった。ユウは緊張しているようだったが、意気込んでいるようだった。
「私、頑張りますね!よろしくお願いします。で、すみません…グリムが…。」
そういうと、戸を叩くグリムを迎えに寮長室を出ていく。クロウリーも、ユウにはもう話はないようで、彼女を外に出す。
「ではすみません、私は用事がありますので。あ、そうそう。みなさんの他に二人ほど、一緒に連れて行ってくださいね。」
「そんなの、あの子の友達だっていう小ジャガ達でいいわよね?」
クロウリーいつになく神妙な面持ちで出ていくと、ヴィルが言って寮長たちも立ち上がり始めた。だがそれを、リドルの鋭い声とレオナの気怠げな声が遮った。
「何よリドルにレオナ、アタシは暇じゃな…」
「メシアについての話がある。ここでしか言えねぇ。」
「さっきの説明にはありませんでしたが、とても重要なことです。聞いてください。」
レオナの目つきが鋭くなる。リドルの表情もいつになく硬く、アズールもカリムもイデアも張り詰めた空気を感じとる。マレウスがスッと腰を下ろした。
「話してくれ。」
マレウスが目を閉じる。それを見て、寮長たちは全員再び椅子に座った。
「そろそろ出てきたらどうだい?エース、デュース。」
「いやぁ、バレてたっすか。まぁいいや。その話、俺達にも聞かせてください。」
エースが隠密魔法を解く。姿を現したエースとデュースに、リドルは頷いた。他の寮長たちは驚いた顔をする。それを見てから、レオナは脚を組んだまま話だした。
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3日後の早朝。約束の場所である学園の大樹の麓に、ユウはやってきた。
これから、この世界の命を繋ぐという大役を務めるのだ。プレッシャーもあるが、ワクワクが優っている。そのため、時間よりもだいぶ早くついてしまった。グリムはきっとまだ夢の中だろう。
(さぁ、頑張ろう!)
心の中で決意を新たにした時だった。
「おーい、ユウー!」
「え!?エース、デュース…。」
朝に弱い二人が、寮服に身を包み駆け寄ってきた。スートの化粧もバッチリである。
「俺らもついてくぜ。ちゃあんとメシアの役目を果たすの、きっちり見といてやるからさ!」
エースがニカッと笑って言った。実にエースらしい、彼なりの激励だろう。
「僕も行くぞ。マブの晴れ姿、最期まで目に焼きつきてやる!」
デュースの笑顔が眩しい。ユウはそれに応じるように微笑んだ。この二人がいるだけで、とても心強かった。二人の生きる世界を守るため、何としても成功させよう、と改めて誓った。
「エース、デュースも来ていたんだね。」
聞き馴染んだ声がして振り向くと、心なしか強張った表情のリドルが顔を綻ばせた。そんなリドルの後ろから、眠そうな顔をしながら歩いてくるレオナ、いつもとは少し違う笑顔のアズール、珍しくうまくターバンが巻けていないカリムが続く。バサリ、と特徴的な寮服の袖を靡かせて気高く歩くヴィル、その後ろに隠れるように歩いてくるイデア、目を閉じつつも真っ直ぐに歩み寄ってくるマレウスもいる。
「みんな揃ったね。それじゃ、出発しようか。」
リドルが言うと、どこからともなくクロウリーが現れる。突然のことでユウは悲鳴をあげた。エースとデュースも目を丸くして肩をびくりと跳ねさせていた。だが、寮長たちは驚くそぶりも見せず、当たり前だと言わんばかりにクロウリーにアイコンタクトする。
「それでは皆さん、どうぞ世界を救ってください。」
クロウリーが杖で地面を叩く。すると、闇の鏡が現れた。急に緊張で足がすくんでしまうユウに、エースとデュースが歩み寄る。
「さ、行こうぜ?ユウ。」
エースが肩に手を置いて微笑む。ユウはうなずいて、鏡に向かって一歩踏み出した。
「聞いてないでござる!聞いてないでござるよ!」
闇の鏡に導かれたのは、塔の麓だった。それはいい。だが、目の前には断崖絶壁に近しい崖がそびえ立ち、塔はその上にある。入り口に入るのすらかなりの難関だ。クロウリーが寮長たちに手助けするよう言ったのは、このためだったのかとユウは一人理解した。
そして、その崖を前にしてイデアが絶望のあまり喚いている。ヴィルが「シャキッとしなさい!」と言いながら背中を叩くと、イデアは涙目になりながらも静かになった。と言っても、一人で何やら呟いているが。
「ホウキがあれば楽勝だったのになー。」
エースがぼやくと、レオナとリドルが同意した代わりに、今度はアズールが悲鳴をあげた。
「あんなものに頼るより、着実に進んだほうがいいでしょう!」
「それもそうだな!気楽に喋りながら行こうぜ!」
アズールの必死な訴えを見て、カリムが満面の笑みでフォローする。レオナがニヤニヤと笑いながらアズールを見ているのを、デュースは見なかったことにした。
その後、寮長たちとエース、デュースの力を借りて、何とか入り口までたどり着いた。道中アズールとイデアが恐怖のあまり騒ぎ立てるのをヴィルとカリム、マレウスがなだめ、リドルが呆れながらも加減を知らないフォローをし、レオナが煽るというカオスな寮長たちを見せつけられたエースとデュースは、心底ついてきて良かったと思っていた。
「ここが、アイの塔…」
ポツリと呟く声は妙に響いて、さっきまで大騒ぎしていたメンバーも真剣な表情になっていた。標高が高いところにいるからか、風は一段と強く吹いている。ずっと遠くに見えていた塔を目の当たりにして、ユウは息が詰まるような感覚がした。いつも眠そうにしているレオナでさえ、しっかりと前を見つめている。イデアの表情が覚悟を決めたようになるのをデュースは見た。横に立っているエースは手が震えるのを隠すため、ぐっと伸びをした。
「よし、パパッと終わらせよーぜ!」
「そうだね。なかに進もうか。」
エースの様子を見たからか、リドルが柔らかい声色で言った。デュースも頷いて、ユウの横に並ぶ。
「うん。行こう!」
ユウが一歩踏み出し中に入っていく。その後ろからついてくる彼らが、ヴィランな顔で不敵に笑ったのを、ユウは知らない。
塔の中は、まるで神殿のようだった。壁や柱には細かな彫刻がほられ、レリーフも何枚も飾られている。レリーフに描かれているのは、この塔にまつわる神話のようだ。螺旋を描く大理石の階段の手前には、同じく大理石で出来た台座にトーチが立っている。ユウは吸い寄せられるように台座の前に歩み寄り、トーチを手にした。その瞬間、眩い光を放ちトーチが台座から抜かれた。
「綺麗…」
金色のトーチは、光を反射するように煌めいている。ユウが見惚れていると、螺旋階段の少し上で、重い何かが引きずられるような音がした。
「あ、あそこの扉が開いたぞ!」
デュースが指を指す。岩の扉が開き、祝福を納めた部屋の内部が露わになっている。一行は階段を上り、部屋の前に立った。
『華やぐ波』と古代文字で書かれた石版を見つめ、ユウは意を決して一歩踏み出した。部屋はかなり小さく、台座の上で光る祝福の水晶のみが置かれている。青い光を放つそれに、手を伸ばす。
____だが。
「…人の子よ、ともに分け合っていこう。」
ユウの白く細い手に、大きな冷たい男の手が重なった。その手の主人が微笑む。そして。
「ーッ!?」
マレウスの手が先に水晶に触れ、ユウは部屋の外へ弾き出された。そして、扉が勢いよく閉まる。中にマレウスを残して。
「…チッ。」
誰かの舌打ちが響く。デュースに支えられつつも、ユウはバッと前を見た。最初の祝福は、横取られてしまったのだ。いばらの谷の次期当主、マレウスによって。
「おい、草食動物。次行くぞ。」
レオナに声をかけられ、ユウはそちらに顔を向けた。エメラルドのような緑の瞳を見上げる、そのハシバミ色の瞳が不安に揺れている。エースは不機嫌そうな顔で目をそらした。リドルの顔が強張る。イデアがフードをかぶり直し、ヴィルが腕を組んで真顔のカリムを見やる。天真爛漫なあの笑顔は消え失せていた。
「だ、大丈夫だ!まだ8つあるだろう?」
デュースがフォローを入れる。ユウはトーチを持ち直し、立ち上がった。いつまでもこうしているわけにはいかない。自分には与えられた使命があるのだ。一つ失敗しただけで挫けてはいられない。
「そうだね、ちゃんと進まなきゃ……」
螺旋階段の先で、新たな扉が開く音がする。今度こそ祝福を受け取らなければ。そう思いながら『炎の宴』の前に立つ。一歩踏み出そうとした、その時。
「宴か!俺にぴったりだよな!」
ユウの横をするりと抜けて、部屋に入って行ったのは熱砂の国大商人の後継、カリム。
「まっ…!」
「ともに分け合っていこうぜ、ユウ!」
ユウの制止も虚しく、見たこともない悪い笑みを浮かべたカリムは、扉の向こうに消えた。まさかカリムにまで奪われるとは思っていなかったユウは、呆然とした。そんなユウの心中などお構いなしに、次の部屋の扉が開く。あのうざったいくらい純粋で輝いていた光は、もうここには無い。
「ユウ、時間も惜しい。先に進もう。」
リドルがユウの手を引いて歩き出す。螺旋階段は長いようであっという間だった。『恵みの陽光』の扉が見えた時には、すでに部屋の前にレオナが立っている。嫌な予感がしたユウは、走り出す。
「レオナ先輩…!!」
「おう、ともに分け合っていこうぜ?」
部屋に入るレオナ。その悦にいったような顔を睨みつけ、イデアがその腕を掴む。だが、レオナは喉を鳴らして低く唸る。
「この世は弱肉強食だ。早いもん勝ちってのがわかんねぇか?」
「…言われなくとも!」
イデアが掴んでいた手を振り払い、息巻いて螺旋階段を進んでいく。ユウは、第二王子の獅子レオナが消えていった扉を見た後、慌ててイデアを追いかけた。いつも自室に引きこもっている彼だが、この時ばかりは足取りが軽いようだ。螺旋を描く大理石を焦ったく思いながら、ユウは駆け上がる。リドルやエース、デュース、アズールに続いてヴィルが文句を言いながらも、綺麗な所作で早足にユウを追いかけていた。重たい音をさせながら開いた『安息の闇』の部屋へ、イデアは迷わず足を踏み入れる。
「……ともに。」
その呟きは、いつになく弱々しく小さかった。それゆえにユウの耳へは届かない。息を切らしたユウが見たのは、暗闇に光る彼の青く燃える髪だった。そして容赦なく扉は閉まる。
「なんで…選ばれたのは、私なのに…」
マレウスも、カリムも、レオナも、イデアも…みんな先輩だったが、信頼していた。ショックもあったが、疑問が大きかったのだ。第一、メシアではない者が祝福を受け取ったら、どうなるのだろうか。ユウは一人で、悶々と考える。
[ヒトリジメハユルサナイ]
まるで彼らがそう言っているような感覚に、ユウはかぶりを振った。
そうこうしているうちに、再び扉が見えた。祝福の名は、『揺蕩う大地』。もう四つの祝福を奪われてしまっている。一向に光らないトーチを持つ手に、力が籠る。
「ふふ、そんなに力まなくて大丈夫ですよ。健やかなる時も、病める時も、ともに分け合っていきましょう?」
アズールが、いつもの笑みでユウの肩に手を置いた。学園で見慣れた光景に、ユウが安堵したのも束の間で。
「海の魔女の慈悲を持って、僕が手伝って差し上げますから!」
アズールに突き飛ばされ、ユウは尻餅をつく。カランッと音を立ててトーチが転がった。
「え、ア……」
深海の商人、アズールの表情がいつぞやの事件のときのように歪むのを、ユウは見ていることしかできなかった。呼びかけた名前は、最後まで紡がれることはなかった。そして例外なく扉が閉まる。
「ユウ。」
名前を呼ばれて振り向けば、エースがトーチを差し出していた。弱々しく笑ってそれを受け取る。まだ、終わっていない。祝福はもう、半分もないけれど。
リドルは唇を噛みしめ、マントを翻して歩き出す。もう彼以外に、二年生の寮長はいなかった。心なしか寂しげに見えるその背中を追い、永遠に思われる螺旋を登る。今まで文句やら説教やらを言っていたヴィルでさえ、黙り込んでしまっている。
「ユウ、そんなに落ち込むなよ?要は一番上にたどりつきゃいいんだ。」
エースが言う。デュースが微笑んで頷いた。この二人が話しかけてくれるだけで、ユウの心は少しだけ晴れた。
「ずいぶん登ったな。」
デュースが言った時、次の扉が見えてくる。『雷鳴の囃子』と書かれた部屋を前にして、先ほどまで黙っていたヴィルが突然口ずさむ。
「鏡よ鏡、鏡さん。この祝福に一番ふさわしいのは誰?ええ、もちろん、このアタシよね。」
「!?ヴィル先輩、待って!」
ユウが駆け出す。だがその瞬間、ヴィルの手が水晶に触れた。
「ともに分け合っていくわよ!」
自身に満ちた声音が、ヴィルの誇りを際立たせるように響き、そして空気に溶けていった。デュースが拳を握りしめる。エースもリドルも、何も言わない。ユウのそばにいるのは、ハーツラビュルのメンバーだけとなった。
「どうして…。みんな人が変わったみたい…敵みたいに…。」
ポツリと呟くユウに、誰も何も返せない。閉じた扉を前に、四人は立ち尽くした。あんなに賑やかだった皆はもういない。マレウスの落ち着いた声も、カリムのハキハキとした声も、レオナの気怠そうな声も、イデアの静かな呟き声も、アズールの意気揚々とした声も、ヴィルの凛とした声も、もう聞こえない。音がよく響く塔の中で、虚しいほどの静寂が四人を包んだ。
「いつまでもこうしているわけにはいかないよ。過ぎたものは…断ち切るんだ。」
少し間が空いてから、リドルが諭すように口を開いた。それを聞いて、デュースがユウの肩を叩く。
「行こう、ユウ。」
優しい響きに、ユウは無言で頷いて立ち上がった。それを見たエースとリドルも、螺旋の先へ視線を向ける。ユウは黙ったまま、階段を登った。
しばらく登ったのち、七番目の扉が姿を現した。その扉に書かれていたのは、『旋風のロンド』だった。エースとデュースは、じっと立ちすくんでいる。文字通り、見届けてくれるのだろう。ユウはそう思い、深呼吸をする。
「…ユウ、君には本当に感謝しているよ。」
突然、リドルが言った。きょとんとするユウの横に並んで、チラリと後ろを振り返る。エースとデュースに微笑みかけ__次の瞬間にはあの高慢な笑みに変わっていた。まるで、「僕は誰よりも正しい」と言うように。トン、と肩を押されたユウは簡単によろめいた。
「ともに、分け合っていこうか。」
リドルが優しく笑った瞬間、その手は水晶に触れる。赤き薔薇の女王リドルは、寮服のマントを靡かせながら扉の奥へと消えた。エースとデュースが拳を握りしめている。ユウは今度こそ顔があげられなかった。ハートの女王の厳格な規律を重んじるリドルですら、祝福への欲に目が眩んだというのか。
「ユウ、」
エースが何か言いかけるのを遮って、ユウは螺旋階段を登り出す。今何か言葉をかけられたら、何かが壊れてしまいそうだったから。
次の扉が見えるまで、三人は一言も話さなかった。少し離れたところに立っていても感じる冷気は、『白銀の園』によるものだろう。
(八つ目……)
ユウは目を伏せる。そんなユウの肩に腕をまわして、エースが笑った。
「よっし、ユウ__」
エースの言葉が言い終わらないうちに、デュースがユウとエースを引き剥がす。憤慨した様子のエースを押し除け、デュースは俯いたまま走り出す。八つ目の祝福に向かって。
「おいっ、デュース…っ!」
エースが手を伸ばす。その手は宙をから回った。潔く振り向いたデュースは大声で叫ぶ。
「ユウ、大好きだ!ともに___!!」
「……っ!!!」
デュースの目から、きらりと光る滴がこぼれ落ちた。しかしそれは流れる前に凍てついて、まるで宝石のように煌めいた。眩しいほどの泣き笑いを浮かべたデュースを閉じ込めるかのように、岩の扉が音をたてて閉じる。
ユウは呆然と、閉じた扉を見つめていた。ついさっきまで隣を歩いていたマブダチの片割れはもういない。この肌寒さは冷気によるものなのか、彼がいなくなったことからなのか、ユウにはわからなかった。
「なんで……デュースまで……?ねぇ、なんで…?」
掠れるようなユウの声に、エースは返す言葉が見つからないようで、気まずそうに目をそらした。ショックに打ちのめされるユウの頭上で、扉が開く重苦しい音がする。
「……行くしかねぇよ。」
エースがそう言い、階段を登っていく。ユウは溢れそうになる涙をこらえて、彼を追うように一歩踏み出した。
だいぶ登ってきたようで、もう天井のほうが近い。そしてそこにあったのは、最後の祝福『眠れるマグマの胎動』だった。
「さ、行けよ。」
エースが扉の横に立って言った。真剣なその目を見て、思わずごくりと唾を飲み込む。一歩一歩進んで、水晶の前に立つ。震える手をその上にかざせば、大量のトランプが舞い散った。
「えっ!?」
驚くユウの視界の端に、誇らしげに笑うエースと水晶が映った。
「そういや教えてなかったな。俺の苗字、トラッポラってさ…」
ユウは膝の力が抜けて座り込む。目の前の光景を、認めたくなかった。エースはお構いなしに、初めて会ったときに見せた煽るような笑みで続ける。
「罠って意味なの。じゃーな、ユウ。ともに分け合っていこうぜ!」
ボタンを押すかのようにエースが水晶に触れれば、熱風がユウを部屋の外に吹き飛ばす。慌てて顔上げたユウは、エースが切なそうな笑顔で何か呟くのを見た。__音は、届かない。最後の扉が閉まったとき、先程まで登ってきていた螺旋階段が、一気に崩れ落ちた。
「なん…っ!?」
物凄い音と振動に、思わず目を閉じる。残ったのは、自分のいるこの踊り場と、屋上につながる残りあと少しの階段だった。
「……後戻りは出来ないってこと、か。でも…、でも………!」
たった一人大理石の階段に残され、ユウうずくまった。
「みんな…私を裏切った…。メシアの役目、もう果たせないよ…!」
光の灯らないトーチを抱きしめ、絞り出すような声でユウは涙を零す。ポタリポタリと、大理石に雫が落ちた。
〔頑張って、ユウ〕
「え…?」
塔のなかに響く、誰かの声。ガバッと顔を上げて辺りを見回すも、ここには自分しかいない。囁くような優しい声が、塔のなかをこだまする。ユウは立ち上がった。光の灯らぬトーチをしっかり持って、屋上へ向かう階段を登り始める。まるで、その声に導かれるかのように。
階段を上り切ると、ユウは思わぬ風の強さに目をつぶった。それからゆっくり目を開けると、中央に祭壇があった。そしてその祭壇を囲むように、ぐるりと立っている石像。それらの手には、真っ赤な蝋燭が握られている。ユウが祭壇に近づくと、据え付けられた鏡に文字が浮かんだ。
《塔のなかに封じられし、『祝福』という名の『贖罪』》
《贄とともに乗り越えたメシアよ、今こそ楽園の命を繋ぎたせ》
ユウは大きく目を見開いた。わかりたくない何かが、紐解かれる感覚がする。認めたくない、信じたくない。それでも、真実の説明には十分すぎた。
「そんな……だって、これは……。」
世界を救う、誉高き仕事であったはずだ。メシアだけが賜う栄光、それが祝福。それをみんなは欲に負けて奪った。そういうことでは無いのか。贖罪とは何か。贄とは何か。ユウの脳裏を、これまでの出来事が駆け巡った。
マレウスが、重ねた手を柔らかく撫でたのはなぜか。カリムが一瞬しか振り向かなかったのはなぜか。レオナが早い者勝ちと言った本当の意味は何か。イデアが最期まで背を向けていたのはなぜか。アズールが優しく突き飛ばしたのはなぜか。ヴィルがふさわしいかと尋ねたのは、本当は何のことだったのか。リドルが感謝とともに微笑んだのはなぜか。デュースが俯いたまま走り、泣き笑ったのはなぜだったのか。エースが切なそうに呟いた言葉は何だったか。
我先にと、その贖罪へ足を踏み入れたのは。リドルがエースとデュースに微笑みかけたのは。皆が満足したような顔を浮かべて扉の向こうに消えていったのは。
皆の表情、皆の言葉。それらの点が全て___繋がる。
「ウソ、でしょ……じゃあ、みんなは……!」
ユウは九つの石像を見渡した。ぶわりとその一体が持つ蝋燭に、火が灯る。それを皮切りに、次々と火が灯り真っ赤な蝋を溶かしていく。導き出した答えが、正しいと言うように。ユウは一つ一つ石造に歩み寄った。
『荒波に溺れ沈み』____手を重ねて微笑みながら先陣を切ったディアソムニアの寮長、マレウス・ドラコニア。
『業火の海を舞い』____最期に明るく楽しげに宴に興じて見せたスカラビアの寮長、カリム・アルアジーム。
『無慈悲な干天に頽れて』____不屈の野心で本音を隠しきったサバナクローの寮長、レオナ・キングスカラー。
『永遠に明けぬ闇に狂い』____恐怖を振り切り迷わずに進んだイグニハイドの寮長、イデア・シュラウド。
『大地に飲まれても』____信念でいつも通りを演じたオクタヴィネルの寮長、アズール・アーシェングロット。
『裁きの雷にうたれ』____最期までその気高さを貫き通したポムフィオーレの寮長、ヴィル・シェーンハイト。
『風刃に裂かれ』____自信に満ちた笑顔で薔薇の花弁を散らせたハーツラビュルの寮長、リドル・ローズハート。
『心ごと凍らされても』____眩しいくらいの信頼と友情でその涙を凍らせた親友、デュース・スペード。
『灼熱を這う』____誇らしげに笑いながら最期まで真実を悟らせなかった親友、エース・トラッポラ。
《__君一人で、逝かせはしない》
「あぁ……あああああ…っ!!」
すべてを悟ったユウは、両目から大粒の涙を溢れさせながら祭壇の前で崩れ落ちた。あの蝋燭の炎こそ、贄となった彼らの命そのものだ。みんな知っていたのだ。『メシア』とは英雄ではなく、世界の罪を背負う『罪人』なのだということを。わかっていた上で、ユウには語らず隠し切ることを選んだ。『ヒロイン』としてのユウに対し、最期の時にまで彼らは『ヴィラン』を演じてみせたのだ。その命を差し出して。
《__ともに分け合っていこう》
今なら、すべてがわかる。七人の寮長が、得意げに逝った理由が。あとは任せたと言わんばかりに己が寮長に微笑まれ、その最期を見送った親友たちの気持ちが。あの時、確かに音は聞こえなかった___エースの口から最後に紡がれた三文字が。それらが痛いほどに、ユウの心に突き刺さる。最後に聞こえたあの声は、きっとみんなの想いだったのだ。
手元のトーチが、眩く輝いた。最後の__エースの火が灯ったのだ。贄となった九人は、その贖罪を終えた。ここから先は、『メシア』の役目だ。ユウはトーチを抱えて立ち上がり、祭壇に向かう。この、歪んだ世界の寿命を繋ぐための、最後の贄になるために。
「みんなありがとう。今、そっちにいくからね…。」
ユウは涙を流したまま微笑みながら、祭壇に手を伸ばした。
世界の寿命が繋がれたその日、人々は喜びに満ち溢れていた。しかしそれは、アイの塔の「神話」しか知らない者たちによるものだった。ねじれた楽園を救った彼らの手紙には、残される者たちへのメッセージと、神話のすべてが記されていた。___メシアからの手紙をのぞいて。
ハーツラビュルのリドルの部屋で、何も言わずに静かに涙を流す二人のトランプ兵。
サバナクローのレオナの部屋で、手紙を握りしめうずくまる一匹のハイエナ。
オクタヴィネルのアズールの部屋で、並んで悔しげに泣く双子のウツボ。
スカラビアのカリムの部屋で、俯いて一人拳を握りしめる従者のヘビ。
ポムフィオーレのヴィルの部屋で、鏡を前に帽子を取って天を仰ぐ愛の狩人。
イグニハイドのイデアの部屋で、物悲しげに窓の外を眺める機械仕掛けの弟。
ディアソムニアのマレウスの部屋で、項垂れる護衛二人と彼らを抱きしめるお目付役。
オンボロ寮の談話室で、脇目もふらず泣きじゃくる姫林檎と、彼に寄り添い声もあげずに涙する真っ白なオオカミ。
オンボロ寮の自室で、何も知らなかったメシアとすべてを知っていたマブダチからの手紙に顔を埋め慟哭する小さな魔獣。
真実を__すべてを知った彼らの悲痛な思いは、誰にも知られることは無かった。
そして世界は無情にも、新たな夜明けを迎える。この、悲しく切ない悲劇は、繰り返されようとしていた。
メシアたちの想いと、残された者たちの想いを置き去りにして……。
end
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