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歴史上、本能寺の変が起きた日の早朝。
もし、この日に本能寺の変が起こらず、織田信長が生き延びて天下統一を成し遂げていたならば、日本の未来はどのように変化していたのだろうか。
後世における世界の中心は、アメリカ合衆国ではなかったかもしれない。産業革命もイギリスではなく、日本から始まっていたかもしれない。
そのように評価されるほど、織田信長という人物には、歴史そのものを変える可能性があった。
本来であれば、その織田信長の命日となるはずだった朝、三上龍之介正圀と明智日向守光秀、そして光秀の配下数人は、本能寺の門前に立っていた。
龍之介たちは夜のうちに愛宕山を下り、まだ都が眠りから覚めきらない時刻に本能寺へ到着していた。周囲の家々は静まり返り、往来を行き交う人影もほとんどない。東の空がようやく白み始め、朝露を含んだ冷たい空気が、薄暗い京の町を満たしていた。
本能寺は一重の水堀と塀に囲まれており、寺というより、小さな砦と表現した方が似つかわしい造りになっている。
織田信長が京都へ滞在する際の宿泊所として使う施設であるため、敵の襲撃へ備えた最低限の防衛設備は整えられていた。しかし、本格的な城郭と比べれば、その守りが十分であるとは言い難い。
二条城という城があるのだから、そこへ宿泊すればよいものを、あえて本能寺を選んだことは、天下統一を目前に控えた信長の油断だったのかもしれない。
もっとも、史実では二条城も明智軍の別働隊によって攻め落とされている。そのため、本能寺の変は、織田信長を殺害するという一点においては、成功した謀反だったと考えてよいだろう。
しかし、今朝の本能寺へ明智光秀の大軍が押し寄せることはなかった。
光秀は信長を討つためではなく、腹の内を明かし、これまで抱えてきた誤解を解くために来ている。
謀反の意思がないことを示すため、光秀は愛宕山で身につけていた甲冑を脱ぎ、平服へ着替えていた。武将としての威厳は損なわず、それでいて主人へ拝謁する際に失礼とならないよう、身なりを丁寧に整えている。
光秀は一度だけ大きく息を吸うと、本能寺の門番へ名乗った。
「日向守光秀である。森蘭丸殿を呼んでいただきたい」
「はっ、かしこまりました。しばらくお待ちください」
門番は光秀の顔を知っていたため、疑うことなく一礼すると、足早に寺の中へ入っていった。
ほどなくして、森蘭丸が門前へ姿を現した。
蘭丸は若く、端正な顔立ちをしており、すらりとした体つきと白い肌も相まって、美男子なのか美少女なのか、一目では迷ってしまうほど中性的な美しさを持っていた。
織田信長が寵愛したのもよく分かると、龍之介は妙なところで納得してしまった。
先ほど愛宕山で影鷹を見たときと同じく、若返った肉体に引っ張られたのか、「衆道というものも悪くないかもしれぬ」という、これまでの人生では抱いたことのない妙な気持ちまで湧き上がってくる。
龍之介は、その考えを追い払うように小さく頭を振った。
「日向守様、このように早い時刻に、いかがなされましたか?」
蘭丸は光秀の前へ進み出ると、丁寧に一礼した。
「御館様へ拝謁したく参った。まだ御就寝中であろうが、火急の用件というわけではない。決して無理に起こしてはならぬ。別室で待たせてもらえれば、それでよい」
「承知いたしました。それでは、少し早い時刻ではございますが、朝餉も用意させましょう。ところで、そちらの御方は、どなたでございましょうか?」
蘭丸が龍之介へ視線を向けると、光秀が紹介するより先に、龍之介自身が答えた。
「それがしは、従三位権中納言藤原朝臣三上龍之介正圀と申す。訳あって、日向守殿とともに安土様への拝謁を願いたい」
「これは中納言様でございましたか。お名前は、かねてより伺っております。御無礼をいたしました」
蘭丸は驚いたように目を見開くと、先ほどよりも深く頭を下げた。
龍之介が口にした「安土様」とは、織田信長のことである。
この時代、一人の人物に対して、身分や立場によってさまざまな呼び方が使われていた。信長の場合も、織田殿、上総介殿、安土殿、右大臣殿など、複数の呼称が存在している。
しかし、この時点で信長はすべての官位官職を辞任していた。そのため、居城である安土城にちなんだ「安土殿」や、敬意を込めた「安土様」という呼び方が最も適当だった。
蘭丸が三上龍之介正圀の名を知っていたことにも、理由がある。
ここで、龍之介が異世界へ転生したことによって、この時代に何が起きたのかを一度整理しておこう。
三上龍之介という人物は、本来ならば、この戦国異世界の愛宕山へ突然現れた存在である。しかし、龍之介が転生した瞬間、世界の歴史そのものが改変され、従三位権中納言藤原朝臣三上龍之介正圀は、以前から当然のように存在していた人物となっていた。
ただし、歴史への影響があまりにも大きくなりすぎないよう、三上龍之介正圀は京の嵐山へ居を構え、朝廷の政治にはほとんど関わらず、武道の修練ばかりを続けている変わり者の公家として設定されている。
鹿島神道流の使い手であり、鹿島神宮において千日修行を行い、鹿島神道流の秘技・一之太刀を修得した。その後も数多くの流派を学び続けたため、周囲からは、剣聖・塚原卜伝が乗り移ったのではないかと噂されるほどの武人だった。
また、わずか二十歳で権中納言という高い地位にあるのは、帝の落胤であるためだった。
帝位を継承する権利こそ持っていないが、常に帝への拝謁を許され、ときには話し相手として呼び出される。悪く言えば、帝の暇つぶしの相手まで務めている公家として、京では広く名を知られていたのである。
これらの設定に基づく記憶は、龍之介の頭の中にも、少しずつ書き加えられていた。
嵐山にある三上家の屋敷、すでに亡くなった義父と母、二人の妹、帝との会話、鹿島神宮での千日修行。龍之介自身が実際に経験した覚えのない出来事であるにもかかわらず、その記憶は、幼いころから積み重ねてきた思い出のような形で存在している。
ただし、前世で百年を生きた三上龍之介としての記憶と、この世界の三上龍之介正圀へ与えられた記憶は、混ざり合ってはいなかった。どちらが前世の記憶で、どちらが転生後に書き加えられた記憶なのか、龍之介には鮮明に区別できるようになっていた。
あまりにも都合のよい仕組みではあるが、それを可能にしたのは天界に住む者たちの力である。
異世界転生とは、そういうものなのだろう。
話を本能寺へ戻そう。
森蘭丸は龍之介と光秀を客間へ案内すると、二人の前へ茶を出した。
「ただいま朝餉の準備をいたしますので、しばらくこちらでお待ちください」
「蘭丸殿、くれぐれも御館様を無理に起こさぬよう頼む。こちらから約束もなく訪ねてきたのだ。目を覚まされるまで待たせてもらう」
光秀が念を押すと、蘭丸は困ったように龍之介を見た。
「しかし、中納言様までお越しになっていることを御館様の耳へ入れず、お待たせしたと知られれば、私が叱られてしまいます」
「いや、約束もせず、夜が明ける前に突然訪ねてきたそれがしが悪いのだ。待たされた理由については、安土様へお会いした際、それがしから説明しよう。蘭丸殿が責任を感じる必要はない」
「左様でございますか。それでは、御館様がお目覚めになるまで、無理にお声がけすることは控えます」
蘭丸は二人へ一礼し、静かに客間から下がっていった。
それから半時ほど経ったころ、再び襖が開き、蘭丸と小姓たちが朝餉の膳を運んできた。
「何もございませんが、どうぞお召し上がりください」
用意されたのは一汁二菜の膳だった。早朝に突然訪れた客へ出すものとして考えれば、十分に整った朝餉である。
龍之介は、温かな食事を口へ運びながら、異世界へ転生してから初めて感じる味わいを静かに確かめていた。天界では空腹を覚えなかったが、再び人間の肉体を得た今は、食事の温かさと香りが素直に腹へ染み渡る。
一方の光秀は、ほとんど味を感じていないようだった。
朝餉を終え、膳を下げてもらったあと、龍之介は白湯を飲みながら気持ちを落ち着かせていた。その隣では、光秀が背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばし、正面を見つめたまま硬直している。
これから、自分が謀反を起こそうとしていた相手へ会い、その胸の内を明かさなければならない。戦場で幾度も死線を越えてきた武将であっても、緊張しないはずがなかった。
やがて、東の空から差し込む朝日が、本能寺の庭を淡く照らし始めた。
1582年6月21日。
本能寺の変が起きるはずだった朝は、静かに明けた。
庭では雀たちが何事もなかったように飛び回り、枝から枝へ移りながら、チュンチュンとにぎやかに鳴いている。境内へ軍勢が押し寄せる気配も、鉄砲の音も、鬨の声も聞こえない。
明智軍は京へ向かわず、斎藤利三に率いられて中国方面へ進んでいる。
織田信長を取り囲む兵も、本能寺へ火を放つ者もいない。
この時点で、史実における本能寺の変は、すでに防がれたことになる。
朝日が庭を明るく照らし始めたころ、客間の外で衣擦れの音が聞こえ、森蘭丸が姿を現した。
「失礼いたします。御館様がお二人へお会いになるそうです。謁見の間へご案内いたします」
「承知した」
光秀は短く答えて立ち上がった。その声は平静を装っていたが、両手にはわずかに力が入っている。
龍之介も立ち上がり、蘭丸の案内に従って謁見の間へ向かった。
二人が通された部屋の奥には、一段高くなった上段の間が設けられていた。
光秀は主君を待つ家臣として、畳へ両手をつき、深々と頭を下げた。一方、龍之介は信長の家臣ではなく、従三位権中納言という朝廷の高官である。そのため平伏する必要はなく、光秀のすぐ左後ろで胡座をかき、背筋を伸ばして上段の間を見つめていた。
「御館様の御成り――」
小姓の声が響き、上段の間にある襖が静かに開いた。
羽織袴姿の織田信長が、ゆっくりと部屋へ入ってきた。
華美な甲冑も、権威を誇示するような装飾も身につけてはいない。しかし、信長が上段へ姿を現しただけで、部屋の空気が一瞬にして張り詰めた。
光秀は額が畳へ触れそうなほど、さらに深く頭を下げた。
信長は上段へ腰を下ろすと、平伏している光秀を鋭い目で見つめた。
「どうした、光秀。そちには中国へ向かい、毛利攻めへ加わるよう命じたはずだが?」
「はっ。軍勢は斎藤利三へ任せ、予定どおり中国へ向かわせております。本日は、御館様へお詫び申し上げたきことがあり、こちらへ参った次第にございます」
光秀の声は、わずかに震えていた。
信長はすぐに返事をせず、光秀の左後ろへ座っている龍之介へ視線を向けた。
鋭い目が、龍之介の目を真っ直ぐに射抜く。
龍之介も視線をそらさなかった。
二人は一言も交わしていない。それでも信長は、龍之介が光秀を伴ってここへ来た理由も、光秀が何を詫びようとしているのかも、すべてを察したようだった。
信長は小さく一度うなずくと、再び光秀へ視線を戻した。
「光秀、そこから先は何も申すな」
「御館様……」
「申せば、儂はそちを斬らねばならなくなる。言葉にせぬならば、まだ何も起きておらぬ。儂には分かっておる。人間、時には道を見失うこともある。そちほどの切れ者であっても、魔が差すことくらいはあろう」
光秀の肩が、小さく震えた。
「このたびのことは、何もなかったこととする。早う毛利を平らげ、明智の領地を増やしてこい。毛利領は切り取り次第、そちの好きなだけ領地とするがよい」
「はっ……。ありがたきお言葉。さっそく仰せのままにいたします」
光秀は畳へ額をつけたまま、押し殺した声で答えた。
信長は再び龍之介へ顔を向け、その目を真っ直ぐに見つめた。
「これでよろしいかな、中納言殿」
「安土様は、何もかも承知なされたのですね。実に寛大なお言葉であると思います。今回の一件は、安土様の真意が日向守殿へ正しく伝わらず、誤解が重なったために起こり得たものでしょう」
龍之介と信長は、これまで直接言葉を交わしたことはなかった。しかし、この異世界では、宮中で二度か三度ほど顔を合わせていたことになっている。
それもまた、龍之介が転生した瞬間に改変された歴史と記憶だった。
龍之介の記憶にも、宮中の廊下や儀式の場で、遠くから信長の姿を見たという記憶が書き加えられている。信長の側にも、帝の落胤でありながら政治へ深入りせず、武術ばかりを修めている変わり者の公家、三上龍之介正圀と顔を合わせた記憶が存在していた。
信長は龍之介の剣術や家柄についての噂も耳にしており、以前から一目置く存在として認識していたのである。
「光秀!」
信長が突然、部屋を震わせるような声を上げた。
「はっ!」
光秀は反射的に顔を上げた。
「何をいつまでもそこへ座っておる。早う行かぬか。儂も京での仕事が終わり次第、毛利攻めへ加わる。猿への加勢は一時のことにすぎぬ。分かっておるな?」
「はっ、承知しております」
「そちは秀吉の下へつくのではない。儂の名代として先陣を務め、儂が進む道の露払いをするのだ」
「はっ、よく分かりましてございます。それでは、御館様がお進みになる道を整えられるよう、先に中国へ向かっております」
「うむ、そのようにせい」
光秀はもう一度、深々と頭を下げた。
先ほどまで全身を固くしていた姿からは、わずかではあるが緊張が抜けていた。自分の企てを信長が察していながら、それでも赦されたことへの安堵と、これからの働きで恩へ報いなければならないという決意が、その表情に浮かんでいる。
「御館様、中納言様、それでは失礼いたします」
光秀は立ち上がると、すぐに本能寺をあとにした。
斎藤利三が率いる軍勢へ追いつき、毛利攻めへ加わるためである。
こうして、1582年6月21日の朝、織田信長は本能寺で命を落とすことなく、明智光秀もまた、謀反人として三日天下の末に滅びる道を回避した。
歴史は、龍之介が望んだ方向へ、確かに動き始めていた。
だが、それによって生まれる未来が、龍之介の知る歴史より幸福なものになるのか、それとも、まったく異なる苦難を生み出すのかは、まだ誰にも分からなかった。
閻魔ちゃんの囁き♥
本能寺の変。
明智光秀の謀反については、いろいろな黒幕説が語られているわよね。
でも、難しい陰謀なんて存在せず、光秀ちゃんが更年期障害による鬱状態になり、自棄を起こして謀反へ走っただけだという説もあるのよ。
私が閻魔ちゃんになる前の出来事だから、本人に直接聞くことができなかったのよね。残念だわ!
もし光秀ちゃんが私の担当だったなら、真相を聞き出して、みんなへ教えてあげたのにね♥
コメント
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てか、龍之介おじいちゃんが二十歳の若返りボディで童子切安綱ブン回してるの、もう最初から最高なんだけど!? しかも光秀に「敵は毛利、中国にあり」って言わせちゃう展開、震えた…。史実をちゃんと踏まえつつ、剣の腕前とか陰陽道とかで説得する流れがめっちゃ自然で、ご都合感ゼロだったよ。そして影鷹くん、性別不明の美形すぎてちょっと気になる(笑)。続きどうなるのかマジで気になるから、早く次が読みたい…! 今回も素敵な話をありがとうございました🥀