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明智光秀が毛利攻めへ向かうために本能寺を出ると、謁見の間には織田信長と龍之介が残された。
信長は光秀が去っていった方へしばらく視線を向けていたが、やがて龍之介へ向き直った。
「さて、中納言殿。儂は以前から、一度そなたと腹を割って話してみたいと思っておりました」
「それは奇遇ですな。それがしも、安土様とは一度、ゆっくりお話をしてみたいと思っておりました」
「では、茶室へ場所を移しましょう。蘭丸、茶室の支度はできておるか?」
信長が声をかけると、襖の外で控えていた森蘭丸が、間を置かずに返事をした。
「はっ。すでに整っております」
蘭丸は、信長が龍之介と二人で話すために茶室へ移ることを予想し、謁見が始まる前から準備を進めていたらしい。
信長が細かな指示を出すより先に、その意図を読み取って動く。蘭丸が小姓として寵愛されているのは、容姿が美しいからだけではなく、主人の考えを先回りできる有能さを備えているからなのだろう。
「中納言様、こちらでございます。茶室までご案内いたします」
龍之介は信長に続いて立ち上がると、蘭丸の案内で本能寺の庭へ出た。
庭園の一角に、周囲の景色へ溶け込むように小さな茶室が設けられていた。
建物そのものは質素で、華美な彫刻や金銀の飾りは見当たらない。しかし、庭の石や木々との釣り合いが見事に整えられ、窓からは季節の草花を借景として楽しめるよう工夫されている。限られた空間の中へ自然の美しさを取り込む造りには、武将としてだけでなく、文化人としても優れた感性を持つ信長の才能が表れていた。
龍之介と信長は、身体をかがめなければ通れない狭い躙り口から茶室へ入った。
室内に入ったのは二人だけであり、森蘭丸は外で待機している。わずかな物音にも対応できる位置にはいるが、二人の会話を邪魔することはなかった。
茶室の中には畳と土壁の落ち着いた香りが漂い、庭から聞こえる鳥の声と、時折風に揺れる葉の音だけが、静かな空間へ届いていた。
信長は龍之介の前へ座ると、自ら茶を点て始めた。
茶道具へ手を伸ばす所作には、一切の迷いも無駄もない。武将として兵へ命令を下していたときの鋭さとは異なり、静かで流れるような動きだった。
湯を注ぎ、茶筅を動かすかすかな音が、狭い茶室の中へ心地よく響く。
やがて信長は、細かな泡が立った一服の茶を、龍之介の前へ差し出した。
「どうぞ、中納言殿」
「ありがたく頂戴いたします」
龍之介は茶碗を受け取り、作法に従って向きを変えると、ゆっくりと茶を口へ含んだ。
ほどよい渋みの奥から、抹茶本来の柔らかな甘みが広がった。表面に立てられた繊細な泡が口当たりを滑らかにし、濃い味わいでありながら、喉を通るときには驚くほど軽やかだった。
点てる者が違うだけで、茶の味はここまで変わるものなのだろうか。それとも、使われている抹茶そのものが、現代では簡単に手に入らないほどの極上品なのだろうか。
おそらく、そのどちらも正しい。
しかし、この茶を格別なものに感じさせた最大の理由は、龍之介が歴史上で最も好きだった織田信長が、自ら点ててくれた一服であるという事実だった。
龍之介は感無量となり、すぐに飲み干すことが惜しく感じられた。
手にしている茶碗も、尋常な品ではない。暗い器の内側に、宇宙の星々を思わせる青や紫の光が浮かぶ曜変天目茶碗だった。平成の世では国宝として大切に守られていた茶碗を、実際に手に取り、そこへ信長が点てた茶を入れて飲んでいるのである。
龍之介は、この時代へ転生して本当によかったと、心の底から感じていた。
その一服には、光秀の謀反を防いだことに対する信長の感謝も込められているように思えた。
第六天魔王と呼ばれ、恐れられた織田信長ではあるが、一流の文化人であり、茶人でもある。そのことが、この一杯の茶から十分に伝わってきた。
龍之介は茶を味わうだけで、織田信長という人物を、以前にも増して好きになっていた。
「中納言殿、このたびの一件、誠にありがとうございました」
信長は自分の分の茶碗を置くと、龍之介へ向かって静かに頭を下げた。
「光秀は頭が切れすぎるゆえ、いつか己の迷いに押しつぶされるときが来るのではないかと思っておりました。しかし、まさか儂への謀反を企てようとはな。近ごろは、少し情緒が不安定に見えることもありましたが、儂も深くは問いませんでした」
「安土様は、頭がよすぎるために、ご自分の考えを言葉にして伝えることが苦手なのではありませんか?」
龍之介は遠慮せず、率直に切り込んだ。
「安土様にとっては、少し考えれば分かることでも、すべての者が同じように真意を理解できるわけではございません。言葉が足りないために誤解を招き、味方であるはずの者まで、いらぬ敵にしてしまっているように感じます。天下統一を目前に控えた今だからこそ、これまで以上に慎重になられた方がよろしいでしょう」
信長は一瞬、驚いたように目を見開いた。
天下人となりつつある信長を正面から叱責できる者は、すでにほとんどいない。家臣たちは信長の機嫌を損ねることを恐れ、公家たちは織田家の力を警戒していた。
しかし、龍之介は帝の落胤であり、信長の家臣でもない。さらに、信長を恐れるどころか、真っ直ぐに目を見ながら欠点を指摘している。
やがて信長は、腹の底から楽しそうに笑い始めた。
「今の儂を、そのように正面から叱りつけられるのは、中納言殿くらいのものでしょうな。はっはっはっは!」
「笑い事ではございませんぞ。光秀殿の謀反は、あと一歩で実行されるところだったのですから」
「分かっております。あの光秀が実際に謀反を起こしていたならば、儂の命は本能寺で尽きていたでしょう。中納言殿が止めてくださらなければ、こうして茶を点てることもできなかった。改めて、御礼申し上げます」
織田信長という人物は、傲慢で人の話を聞かない独裁者のように語られることがある。
しかし、本当に必要だと判断したときには、自らの非を認め、相手の身分にかかわらず素直に頭を下げることのできる人物だった。
「明智光秀殿は、おそらく年齢から来る鬱のような状態へ陥り、疑心暗鬼になっていたのでしょう。誰かがそこへつけ込み、安土様の命令を悪い方へ解釈するよう唆した可能性もあります」
「黒幕がおると考えているのですかな?」
「それについては、これから調べる必要がございます。ただし、念のために申し上げておきますが、朝廷は今回の一件へ一切関与しておりません。それがしのことは、帝から遣わされた裏の使者とお考えください」
信長は、龍之介が武道だけでなく陰陽道にも通じ、表向きには見せていない力を持つという噂を知っていた。
敵に回せば、どれほどの脅威になるか分からない。下手に怒らせれば、自分でさえ光秀と同じように、刀を抜く間もなく斬られる可能性がある。
龍之介の真意を完全に見抜けていないとしても、その言葉を軽く扱うことはできなかった。
「朝廷が関与していないという言葉、信じましょう」
「ありがとうございます。では、もう一つ、率直に申し上げます」
「まだ何かございますかな?」
「安土様には、朝廷から太政大臣、関白、征夷大将軍の三役職について打診がありましたな。お請けになられた方がよろしい」
信長の目が細められた。
「儂が朝廷の官職を受ければ、帝の家臣として組み込まれることになる。それを避けるために、すべての官位官職を辞任したのですがな」
「朝廷の家臣になることが嫌だとお考えならば、朝廷へ従うのではなく、朝廷を利用すると考えてはいかがでしょうか」
「朝廷を利用する、と申されるか?」
「官位官職があれば、安土様による天下統一は、今よりはるかに早く進みます。また、帝も、安土様が行ってきた京の統治をご覧になり、満足しておられます。京だけでなく、日本国全体が同じように安定するのであれば、安土様へ協力したいと仰せです」
龍之介は茶碗を畳の上へ置き、信長の反応を確かめながら言葉を続けた。
「具体的には、安土様へ錦の御旗の使用を許可し、安土様に敵対する者を朝敵と定め、その討伐を命じる勅命を出してもよいとお考えでございます」
「そこまでのことを、帝が……」
信長の声から、先ほどまでの余裕がわずかに消えた。
どれほど強大な軍事力を持つ織田家であっても、朝廷から朝敵と認定されることは避けなければならない。反対に、自らへ敵対する大名を朝敵とし、錦の御旗を掲げて討伐できるならば、天下統一へ向けた大きな大義名分を得られる。
「討伐の勅命まで出していただけるというのであれば、断る理由がなくなってしまいましたな。しかし、その案を帝へ進言したのは、中納言殿ではありませんか?」
「はい。父である帝へ、それがしから進言いたしました」
龍之介は隠すことなく認めた。
「帝は、政治や国の統治は、先見の明を持つ者が行うべきだと仰せです。その役目を安土様へ任せてもよいとお考えになっております。安土城への御下向は、まだ時期尚早であるとのことですが、洛中に新たな城を築くか、二条城を改築し、帝をお迎えするにふさわしい格式を整えるのであれば、御下向なさってもよいとのお考えでございます」
「帝の御下向まで考えておられるとは……。そこまで条件を整えられては、もはや断る理由がございません」
信長は腕を組み、龍之介の顔をじっと見つめた。
「公家の中にも、これほど話の分かる御方がおられたとは思いませんでした。それほどの知恵と武の力を持ちながら、中納言殿はなぜ、これまで嵐山へ引きこもり、世捨て人のように振る舞っていたのですかな?」
「それがしは陰陽道も極めております。すべては、この日、今日という日を待つためでございました」
もちろん、龍之介がこの世界へ転生したのは、つい先ほどのことである。
しかし、三上龍之介正圀という人物には、今日まで政治へ関わらず、武道と陰陽道の修行を続けてきたという経歴が設定されている。龍之介は、その設定を利用して信長の疑問へ答えた。
信長はしばらく龍之介を見つめたが、その言葉を完全には信じていないようだった。
「……なるほど、とだけ答えておきましょう」
「それで結構です。ところで安土様、それがしを客分として雇ってはくださいませんか?」
「客分ですか? 中納言殿ほどの身分にある御方を、織田家の客分として扱うのは、あまりにも失礼ではありませんかな」
「それがしは帝の臣下ですので、安土様の家臣にはなれません。しかし、客分であれば、必要に応じて安土様へ力を貸すことができます」
「なるほど。家臣ではなく、客分として織田家へ加わるということですな」
信長は顎へ手を添え、少し考えるような表情を見せた。
龍之介を客分として迎えれば、帝とのつながりを持つことができる。さらに、陰陽道と武術に通じ、光秀の謀反を事前に見抜いた人物を味方へ引き入れられる。
しかし、信長は単に客分として迎える以上に、龍之介と織田家を強く結びつける方法を思いついた。
「それならば、儂の娘婿になるというのはいかがかな?」
「娘婿、でございますか?」
「歩美と申す娘がおります。今年で十六になりますが、中納言殿の妻として不足のない娘だと、父親ながら思っております」
龍之介は、すぐに返事をしなかった。
信長の娘と婚姻すれば、織田家の客分という曖昧な立場ではなく、信長の義理の息子として堂々と関わることができる。帝の落胤である龍之介と娘を結婚させることは、信長にとっても、朝廷との縁を深める大きな意味を持つ。
政治的には申し分のない提案だった。
しかし、龍之介には返事をする前に、どうしても確認しなければならないことがあった。
「安土様、返事をする前に、厠へ行かせてくだされ」
「おお、これは失礼した。随分と長い話になってしまいましたからな。どうぞ気になさらず、行ってまいられよ」
「それでは、少し失礼いたします」
龍之介は茶室を出ると、蘭丸に厠の場所を尋ねた。案内された厠へ入り、周囲に誰もいないことを確かめてから、耳に装着されている小型通信端末へ小声で呼びかけた。
「司録殿、司録殿。聞こえておりますか?」
「はい、聞こえております。龍之介殿、いかがなされましたか?」
すぐに司録の落ち着いた声が返ってきた。
「信長様から、娘を妻に迎えないかという話をいただいたのですが、これはどういうことでしょう。転生前に希望した『料理のできる美少女の妻』は、すでに三上家の屋敷にいるわけではないのですか?」
「ああ、その御息女が、希望書へ記入されていた美少女の妻です」
「では、妻となる女性が、最初から屋敷で待っているわけではなかったのですね」
「はい。閻魔ちゃんが、ロールプレイングゲームのように、物語の中で出会って婚姻した方が進めやすいだろうと考え、そのように設定しました。安心してください。信長の娘であり、美少女で、下働きや料理も好きな設定になっています」
「信長様の娘が下働きを好むというのも、ずいぶん不思議な設定ですな」
「閻魔ちゃんの趣味です。もちろん、婚姻を断ることもできます。ただし、その場合は、龍之介殿がご自分で妻を探さなければなりません」
「分かりました。閻魔ちゃんは、思っていた以上に細かな設定を作るのが好きなのですね」
「閻魔ちゃんは暇があれば、シミュレーションゲームに熱中していますからね。恋愛を扱うギャルゲーも大好きですよ」
「なるほど。今回の縁談も、閻魔ちゃんにとっては、ゲームのイベントのようなものなのですな」
龍之介は司録との通信を終えると、厠を出て茶室へ戻った。
信長は、龍之介がどのような返事を持ち帰るのか確かめるように、茶碗を前にして静かに待っていた。
龍之介は元の場所へ座り、姿勢を正すと、信長へ向かって深く頭を下げた。
「安土様、先ほどの婚姻のお話、喜んでお請けいたします。これからは義父上様とお呼びすればよろしいでしょうか」
「おお、請けてくださるか。それは当家にとっても、実にありがたい話ですぞ。中納言殿を娘婿に迎えることができれば、帝との御縁も、これまで以上に深まります」
「それがしにとっても、織田家と縁を結ぶことは望むところでございます。歩美殿を大切にするとお約束いたしましょう」
「うむ。歩美にも早急に話を伝え、婚姻の支度を進めさせましょう」
こうして三上龍之介正圀は、織田信長の娘・歩美との婚姻が決まり、憧れていた織田信長と義理の父子になることとなった。
信長は、帝の落胤である龍之介を娘婿に迎え、朝廷との結びつきを強めようとしている。
一方の龍之介も、織田家の内側へ入り、信長の天下統一と、その先に生まれる新しい日本を間近で見届けようとしていた。
信長には信長の思惑があり、龍之介には龍之介の思惑がある。
二人の利害が一致したことによって結ばれた、政略結婚だった。
コメント
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いやもう、第十話やばかったわ…!信長が自ら茶を点てて龍之介をもてなすシーン、めっちゃグッときた。武将としての威厳と文化人としての繊細さが同時に描かれてて、信長の魅力が爆発してたよ。しかも龍之介が正面から「言葉が足りない」って指摘するところ、かっこよすぎて鳥肌立った。天下人に遠慮なくモノ言えるポジション、最高すぎる。厠で通信端末使って司録に相談するギャップも、ちょっと笑っちゃったけどな。娘婿ルート突入で、これからどうなるかめっちゃ気になる🔥