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かんな
あかね ♛❤️♛
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ズキリ、と頭を割るような痛みが、重い瞼を押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、無機質でモダンな、けれどどこか生活感のない高い天井。
(……え? ここ、どこ……?)
昨夜の記憶を必死に手繰り寄せる。
雨、裏切り、泥だらけのケーキ、紫色の派手な傘――。
そして、差し出された琥珀色のグラス。
『カルーアよ。甘くて美味しいから飲んでみなさい。嫌なことや辛いことは、飲んで忘れちゃうのが一番よ』
ぱちんとウィンクされ、差し出された悪魔の誘惑。
(そうだ。お酒なんて滅多に飲まないのに……ヤケになって、一気に飲んじゃって……。それで……)
断片的な記憶が、濁流のように脳内に流れ込んでくる。
ナオミや湊に、支離滅裂な愚痴をこぼした気がする。けれど、それ以上に「最悪」な記憶が、胃のあたりをキュッと締め上げた。
ナオミの店の、あの塵一つない清潔なカウンター。
「……っ、う、お、えっ……」
止まらなかった。絶望と一緒に、胃の中のものを、何もかも――よりによって、あの綺麗なナオミの目の前でぶちまけた、生々しい感触。
「……うそ、でしょ……」
穂乃果は思わず顔を覆って頭を抱えた。死にたい。今すぐこのベッドの下に潜り込んで、そのまま消えてしまいたい。
けれど、絶望に身を捩った拍子に、決定的な異変に気づいた。
自分の身体が、あまりに軽いのだ。
昨日の汚れたブラウスでも、一日中働いたナース服でもない。
自分の身体が泳ぐほど大きな、男物の真っ黒なTシャツ一枚。あろうことか、下着すら、昨日身につけていた感覚がない。
(これ、は……一体……っ!?)
まさか、あの後に自暴自棄になって、誰かと――。
混乱が極点に達したその時、静寂を破る足音が響いた。
「あら、起きたの」
低く、けれど聞き覚えのある落ち着いた声。 穂乃果が恐る恐る指の隙間から視線を向けると、そこには首からタオルをぶら下げ、濡れた髪を拭きながら歩いてくる「男」が立っていた。
濡れた黒髪は柔らかく額へ張り付き、そこから滴る雫が頬をなぞってゆっくりと落ちていく。中性的なほど整った顔立ちとは裏腹に、伏せ気味に向けられた視線には絡みつくような熱が宿っていた。
目が合った瞬間、息が詰まる。それは逃げ場を奪うような、静かな支配の気配。わずかに緩んだ口元は、笑っているのか、それとも誘っているのか。その曖昧さが、かえって距離を狂わせる。
細いと思った首筋から肩へと視線を落とした途端、その印象は鮮やかに裏切られた。しなやかに締まった筋肉が滑るように連なり、肌の上を流れる水滴がその輪郭をなぞっていく。華奢さと隣り合わせにある確かな厚みが、否応なく「男」を意識させた。
朝の光を浴びて輝く滴が、引き締まった胸板から鋭く割れた腹筋の溝へと滑り落ちていく。大理石の彫刻を思わせる無駄のない肉体。Tシャツの袖から覗く二の腕は、穂乃果の首ほどもありそうな太さで、浮き出た血管が「雄」としての強さを無言で主張していた。
――綺麗なのに、危ない。
そう思った瞬間にはもう、目が逸らせなかった。
一体誰だろうか? いや、そんな事より!
(嘘……私、本当に……?)
見知らぬ男。見知らぬ部屋。そして、下着すら身につけていない自分の身体。
パニックで心臓が喉から飛び出しそうになり、穂乃果はシーツを顎まで引き上げ、ガタガタと震えながら謝罪した。
「あ、あの! すすす、すみませんっ! いつもはこんな事絶対にしないんです!! 初めてなんですっ 本当にごめんなさいっ!」
「……ちょっと。何勘違いしてるか知らないけど、朝っぱらからうるさいわね。アタシよ。アタシ。ほら、よく見て見なさい」
「……へっ?」
顔を上げると、恐ろしいほどの美貌が間近に迫っていた。
至近距離で見ても毛穴の一つも見当たらない、陶器のような肌。くっきりとした二重瞼に、高く通った鼻筋。そして、その唇の端に浮かぶのは、昨夜の雨の中で自分を突き放した、あの傲慢なほど美しい微笑。
「……ナオミ、さん……?」
「そうよ。やっと気づいた? あんた、昨夜あれだけ粗相しておいて、アタシのことも忘れちゃったなんて言わせないわよ」
その男――ナオミは、濡れた髪を無造作にかき上げると、ベッドの縁にどさりと腰を下ろした。その拍子に、彼が纏う熱い熱気と石鹸の香りが鼻腔をくすぐり、穂乃果は思わず身を固くする。
「だ、だってっ! な、……な、な……っ。なんで、そんな姿に……」
「なんでって……そりゃ、アタシの家だもの。自分の家くらい仮面は脱がなきゃ」
「は、はぁ……」
「その様子だと、本当に覚えてないみたいね? 知らなかったのよ。アンタがお酒弱いだなんて……。あそこに置いて帰るわけにもいかないでしょう? 家もない、行くところもないならこうするしかなかったの。アタシ、これでもお人好しなのよ。……まぁ、おかげでアタシの自慢の床と、大事なドレスが犠牲になったわけだけど」
「……えっ」
ナオミはわざとらしく溜息を吐き、壁際にかけられた見覚えのある紫色のドレスを指差した。
そこには、泥水と……おそらく穂乃果がぶちまけた「何か」によって、無残なシミが広がっている。
「……あ、あああああ……っ!」
昨夜の醜態が、カラー映像で脳裏に蘇る。
親友に裏切られ、恋人に嘲笑われ、挙句の果てに初めて会った人の店で、人生最大の粗相。
「す、すみません! 弁償しますっ、クリーニング代も、それから昨日の飲食代も……っ」
「いいわよ、お金なんて。だってあんた、今一銭も持ってないって言ってたじゃない。自分の鞄、雨の中に放り出しちゃってさぁ……。はい、これ。中身は無事だったみたいだけど」
無造作に放り投げられたのは、泥に汚れ、雨の匂いが染みついた自分のバッグだった。
中を確認するまでもない。確かに、帰る家はもうない。厳密に言えば、あのマンションは父に買ってもらった自分の名義だが、直樹と里奈が肌を重ねていたあの場所を思い出しただけで、胃の底からせり上がるような嫌悪感が込み上げる。
財布の中には、わずか数日分の生活費のみ。通帳もカードも、すべてはあの地獄と化した部屋の引き出しの中だ。
「……あ……」
絶望に顔を青ざめさせ、震える指でバッグを抱きしめる穂乃果。そんな彼女を、ナオミは濡れた黒髪の隙間から、凍てつくような瞳で見下ろした。
「戻りたくないんでしょう? だったら、新しい家が決まるまで此処に居てもいいわよ」
「えっ? で、でもっ! それじゃぁナオミさんに迷惑が……」
「迷惑ならもう、昨夜の時点で十分かけられてるわよ。……あ、勘違いしないで頂戴。もちろん、タダじゃないわよ? きっちり『体で』払ってもらうから」
「……え?」
顔を覗き込まれ、穂乃果の思考が、一瞬で真っ白に染まった。
体で、払う。
その言葉が、今のナオミ――筋骨隆々とした逞しい裸体の男――の口から放たれた意味を理解した瞬間、全身の血が逆流するような熱い羞恥と恐怖が襲った。
ナオミはベッドに片手をつき、逃げ場を塞ぐように穂乃果の顔を覗き込む。滴る水滴が彼の胸板を滑り、シーツに吸い込まれる音が、妙に大きく響いた。
「な、……な、何を……」
「何って……アンタこそナニを想像したのかしら?」
至近距離から注がれる、氷のように冷たくも、熱を孕んだ視線。
意地悪な指先が、穂乃果の強張った口元をゆっくりとなぞった。
節くれだった男の指。けれど、その指先は驚くほど滑らかで、震える唇を愛撫するように這い上がる。
「――っ、ひ……」
「そんなに真っ赤になって。可愛い反応するじゃないの。もしかして――アタシに抱いて欲しかったのかしら?」
「ぼ、っ、そんなっ、そんなわけないですっ! 違います、私はただ……っ!」
耳元まで茹で上がった穂乃果が必死に首を振ると、その様子を面白がるように、ナオミの薄い唇が意地悪く弧を描いた。
「ふふ、安心しなさい。アタシ、女には興味ないの。あんたがどれだけ脱ぎ散らかして誘惑してきたとしても、指一本触れる気になんてならないわ。ましてや……」
ナオミはそこで一度言葉を切ると、その指先を穂乃果の顎へと滑らせ、顔を上向かせた。値踏みするように、全身を冷たく一瞥する。
「あんたみたいな覇気も色気もない『マグロ』。誰がわざわざ、調理するもんですか」
「……あ」
心臓の奥が、冷たい氷の針で貫かれたような感覚。
――『アイツは、マグロだからな』。
直樹の嘲笑が、ナオミの無慈悲な宣告と重なり、頭の中で幾度も反響する。
「勘違いしないで。『体で払う』っていうのは、アタシの店の掃除に雑用、それからドレスの仕立て直しを手伝えってことよ。あんた、看護師なら手先は器用なんでしょう? 宿代とドレス代、きっちり働いて返しなさい」
ナオミは興味を失ったように顎を放すと、ベッドから立ち上がった。その逞しい背中を翻し、壁にかけられたガウンを羽織る。
「……分かったらさっさとその不細工なツラ、洗ってきなさい。不快なものを見てると、せっかくのコーヒーが不味くなるわ」