『またね』
それだけを残し、微動だにできない俺を置いてアイツは颯爽と去っていった
朝ーー
署のいたるところにも赤嶺…いやぶるーくはいなかった。
アイツの痕跡は跡形もなく、ほんの少し前のいつもの風景に戻った
それでも記憶にだけは鮮明に残っていた
触れられた部分から侵食して腐っていくように
シャワ室での一件、もろとも全て
(…吐き気がする)
そしてまたぶるーくは再び”見えない侵入者”として俺を包囲し始めた
今回の事からきりやんは一層全神経を尖らせ始めた
息を潜める音すら聞こえそうになる程
「最近静かですね…」
同僚の一人がそんなことを呟いたのはその日の午後の事
「事件が…か?」
「いや、もっとこう周囲の音がというか……」
「音が減ったんじゃない。人が減ってるんだ」
そう、ぶるーくは狙いをきりやんの周囲に絞ってきた
新しい警官、用務員、調理員
ほとんどが何を言わず姿を消している
なんの解決もされていない
それが理由で止めていく者もいた
証拠だってないそれでもきりやんには確信があった
「アイツがやっている」
そんな静かな怒りがきりやんの胸の奥で巣食っていた
その日の深夜、きりやんは寝室で初めて音を聞いた
玄関のドアが閉まる音
完全に施錠していたはずのドア誰にも合鍵を渡してはいないはず。が、それらが今ここで打ち砕かれた
「…いる」
声に出して呟く
ヤツは既にもう出た行った後だった代わりにリビングの机の上に一枚の手紙
白い便箋に整った文字
『きりやんへ
今朝隣にいた彼、またいなくなったね…知らなかった?次の日には分かるはずだよ。
僕を探して。こっちを向いて。笑ってくれないと誰も幸せになれない』
「っ……こいつ…!」
怒りで握りしめた手紙はしわになる
誰も知らない場所で誰も気付かない形でぶるーくはきりやんの周囲を囲っていた
「最低の狂人が……」
怒りと恐怖が感情の底で混じりあって泡立てていた
数日後
さらに一人署内の古参刑事が消えた
手掛かりにと彼の机周辺等を探していると何気なく見た書類棚の下に、薄紅色の羽があった
それはきりやんの遠い記憶の中
かつて施設でぶるーくがきりやんに「たからもの」として渡した、小鳥の死骸の羽によく似ていた
きりやんが手に取った瞬間、記憶の扉が軋みを立ててわずかに開く
“きみのせいぎ……して、僕の…にしたいな”
(なんだこれ…思い出せない……)
きりやんの記憶にはまだ霞がかかっていた
だが、何かが強引に覚まそうとしている
その夜きりやんは夢を見た
黒い部屋、誰もいないはずなのに息が掛かるほどの距離に誰かが立っている
「きりやん…最近疲れてるみたいだよ」
冷たい手が首筋に触れる
「…っ」
この体温この声
見えなくても感じる。アイツのだと直感的に分かる
どうしても目を開けることができない
「僕の事嫌い?………それでもいいよ」「でも……嫌いになるならせめて、僕だけを見てよ」
その声は優しく、けれど、底なしの独占欲に満ちていた
「僕のために君を囲ってあげる」「その方が…きりやんも幸せだよね」
明るい声に合わせ首に思い切り圧力が掛かる
同時に目を開けることができた
誰もいない寝室
額から流れ落ちる汗
呼吸は荒れ、手が震えている
そしてわずかに首筋に触れられた感触が残っていた
「アイツはもう……俺の中に入ってる」
恐ろしいほどの確信だった
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