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『紗良』 朝は、何も変わらない。
目覚ましで起きて、制服に着替えて、
母に「行ってきます」と言って、
いつも通りの時間に家を出る。
優等生の一日は、狂わない。
学校に着く、挨拶する、笑う、ノートを取る。
当てられたら完璧に答える。
全部、できる。
何も問題はない。
――はずなのに。
四限目が終わった瞬間、無意識に窓に外を見ていた。
青い空。
屋上はここから見えない。
見えたところで、どうにもならないのに。
「どうしたの?」
隣の席の子が覗き込む。
「なんでもないよ」
反射的に笑う。
「ちょっと眠くて」
「分かるー」
そのまま会話は流れていく。
誰も疑わない。
優等生は、疲れたりしない。
昼休み。
教室は騒がしい。
お弁当の匂い、笑い声、机を囲む輪。
その全部から、少しだけ距離を取る。
「今日も図書室?」
「うん、ちょっと調べ物」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
逃げるように教室を出る。
向かうのは図書室じゃない。
階段。
上へ、上へ。
自分でも止められない。
ドアの前で、少しだけ躊躇する。
今日もいない。
分かっている。
それでも開ける。
――風。
誰もいない。
当たり前の光景。
なのに、胸の奥が静かに痛む。
フェンスのそばまで歩く。
いつも2人でいた場所。
いや、違う。
最初から1人だった。
途中から、たまたまもう1人いただけ。
それだけ。
それだけなのに。
座る。
昼に屋上は明る過ぎて落ち着かない。
でも立ち去れない。
「……来るわけないか」
自分にだけ聞こえる声。
来てほしい、なんて思ってない。
ただ確認しているだけ。
そういうことにしておく。
放課後。
今日も来てしまった。
もう習慣みたいだ。
扉を開ける。
風、空、無人。
毎日同じ。
「……」
立ち尽くす。
帰ればいいのに、帰れない。
もし今日来たら?
そんな可能性はほぼゼロなのに。
フェンスに寄りかかる。
冷たい。
「……何してるんだろ」
自分でも分からない。
待っているわけじゃない。
会いたいわけでもない。
謝りたいわけでもない。
ただ――
ここにいると、少しだけ息ができる。
いや、違う。
あの人がいたから、息ができたんだ。
その事実を認めた瞬間、胸が締め付けられる。
「……違う」
首を振る。
そんな依存みたいなもの、ありえない。
名前も知らない。
何も知らない。
ただ、同じ場所いただけ。
それだけ。
優等生は、名前のない関係に縛られない。
そんなの、非合理だ。
「……帰ろ」
立ち上がる。
でも、振り返ってしまう。
何もない空間を。
もう誰も立ってない場所を。
『悠真』
カーテンの隙間から、夕陽の光が差し込んでいる。
いつの間にか寝ていたらしい。
時計を見る。
放課後の時間。
屋上にいた頃なら、ちょうどあの場所にいる時間。
考えるな。
そう決めたのに。
勝手に思い出す。
風の音、フェンス、隣にある気配。
「……」
起き上がる。
頭が重い。
部屋は散らかっている。
何日も外に出てない証拠。
机の上には未開封のプリント。
学校からの連絡。
母親が置いたのだろう。
触らない、見ない。
現実になるから。
スマホを見る。
通知は溜まっている。
クラスの連絡、教師からのメッセージ。
全部無視。
その中に、一瞬だけ目が止まる。
クラスのグループ通知。
誰かが写真を送っている。
皇帝の夕焼け。
ただそれだけの写真。
なのに胸がざわつく。
同じ時間、同じ学校、同じ空。
「……」
画面を閉じる。
見なければよかった。
部屋の空気が重い。
息がしにくい。
窓を開ける。
冷たい風が入ってくる。
外の匂い。
遠くの車の音。
生きている世界の音。
「……」
ふと、思う。
今、あそこに行けば――
首を振る。
行かない、行けない。
行ったら、全部壊れる。
あの言葉が離れない。
何も知らないくせに。
知らない。
確かに知らない。
でも――
「……分かるんだよ」
ぽつりと漏れる。
あの無理してる感じ。
空っぽなのに完璧な感じ。
周りに頼られてるのに孤立してる空気。
あいつと似てる。
だから近いた。
だから、毎日いた。
だから――
傷ついた。
拳を握る。
爪が手のひらに食い込む。
痛みが少し楽にする。
「……もういい」
関わらない。
それが一番安全だ。
向こうにとっても。
自分にとっても。
ベッドに倒れ込む。
目を閉じる。
それでも浮かぶのは、屋上の景色。
そして――
何も言わずに隣に座っていた姿。
「……最悪」
小さく吐き出す。
忘れたいのに。
一番静かだった時間が、一番うるさく記憶に残っている。