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☕第3話「母の願い」
朝の光はまだ弱く、キッチンの窓から入る白い光が湯気の向こうでゆらいでいた。
真綾はいつものように早起きして、トーストを焼きながらコーヒーを淹れる。
パンの焼ける匂いと、静かな湯気の立つ音。
家の中で一番好きな時間のはずなのに、胸の奥は少し重い。
昨夜のまま、リビングのテーブルにはお土産の焼き菓子の箱が残っている。
箱の端が少しだけ開いているけど、中身は減っていなかった。
孝宏が手をつけなかった証拠。
「……まただね」
小さく独りごちて、真綾はカップを両手で包む。
苦い香りと一緒に、静けさが胸の奥まで沁みていく。
そのとき、階段を降りる足音。
制服のシャツの袖を片手で通しながら、孝宏が無言でリビングに入ってきた。
寝ぐせが少し残っている。
母親の前でだけ見せる、油断した顔。
真綾「おはよう。パン焼く?」
孝宏「いらない。コンビニ寄る」
冷たく聞こえるけれど、それが彼なりの“普通”だと分かっている。
それでも、母親としては少し寂しい。
真綾「昨日、遅くまで起きてたでしょ?目、赤いよ」
孝宏「サッカー見てただけ」
真綾「ふふ。あのチーム、最近強いもんね」
孝宏「……まあ、ね」
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
真綾はその変化を見逃さない。
息子が笑う瞬間は、何よりも嬉しい。
けれど次の瞬間、ふと昨日の夜のことを思い出し、言葉を選びながら話を切り出す。
真綾「ねえ、昨日のあれ……お父さん、買ってきてくれたお土産、見た?」
孝宏「見たけど。別に、いい」
真綾「一応、あなたにって言ってたのよ」
孝宏「仕事のついででしょ」
声が少し低くなった。
空気がピンと張る。
彼の中で、父という話題はいつも“地雷”みたいに扱われる。
真綾「……そう思っても、ありがとうって言ってみたら?お父さん、きっと嬉しいよ」
孝宏「母さんはさ、いつも父さんの味方だよね」
真綾「味方とか、そういうことじゃなくて……」
孝宏「じゃあ何? 仕事ばっかで家にいない人のこと、庇って何になるの?」
その言葉に、真綾は一瞬、返す言葉を失う。
声を荒げる孝宏を責める気持ちはない。
ただ、胸が痛かった。
真綾「孝宏……」
孝宏「もういい。行ってくる」
カバンを肩にかけ、玄関へと歩く。
その背中を見送るしかできない自分が、もどかしい。
それでも、最後にどうしても伝えたくて、真綾は静かに言葉を投げた。
真綾「ねえ、孝宏。あの人……この前、あなたの試合、見に行こうとしてたのよ」
足が止まった。
けれど、振り返らない。
孝宏「どうせ来なかったでしょ」
真綾「うん……来れなかった。仕事入っちゃって」
孝宏「だから言ったじゃん。そういう人なんだよ」
ドアノブを握る手が、かすかに震えていた。
真綾には見えなかったけれど、孝宏の表情の奥には、怒りと悲しみが混じっていた。
孝宏「……もう期待しないほうが楽だし」
そのままドアを開け、外へ出る。
冷たい風と一緒に、静寂だけが残る。
真綾はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
ゆっくりとリビングへ戻ると、テーブルの上のお土産の箱を手に取る。
何気なく箱を開けると、中には小さく折られた紙が入っていた。
「孝宏へ
仕事先の人に勧められて買った。
甘すぎるかもしれないけど、疲れた時に食べろ。
父より」
ペン跡が深く、少し滲んでいる。
書き慣れない文字。
真綾はその紙をそっと指でなぞりながら、静かに微笑んだ。
真綾(心の声)
「ほんとに、あなたたち……よく似てる。
素直じゃなくて、優しいくせに、不器用で」
ふと窓の外を見ると、小雨が降り始めていた。
コーヒーはすっかり冷めている。
それでも、真綾は温かいものを感じていた。
この家には、まだ“繋がり”がある。
言葉にはできないけれど、確かに存在している。
そして、いつかその繋がりが“声”になる日を、真綾は静かに信じていた。