テラーノベル
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決して広くないタクシーの車内。耳をすり抜けていくラジオの音。夜空を切り取るように並ぶ高層ビルたちのキラキラとした灯りは、どこまでもどこまでも果てしなく続いていて、まるで先のないトンネルを潜っているかのようで。すぐ側で重なった手、その体温から気を逸らしたくて窓の方を見つめていた。
不意に、その親指が手の甲を撫でるから、つい意識がそちらへ向いてしまった。駄目なのに、そんなつもりはひとつもないのに、なんて遠くで思いながらも何も言わない自分。拒否することもできない、自分。……感情がせめぎ合っている、自分。
つい一瞬の気の迷いで隣に視線を移すと、目が合ってしまって。僅かに上がった口角を見て、なんとなく考えていることが読めてしまって。数秒にも満たないこの一瞬で、自分の選択が間違っていたんじゃないかと後悔してしまって。
そして、このタクシーに乗る前に言われた柔太朗の言葉を思い返した。
『どうせ勇ちゃん一人で家に帰したら、インスタライブ始めちゃったり動画撮りだしたり仕事モードが抜けなくなっちゃうでしょ。だから見張り役お願いね、よっしー。タクシー降りる時までで大丈夫だから、もう仕事すんな!早く寝ろ!って口酸っぱく言ってあげて』
珍しく上がり時間が他の三人より早かったというだけで、このワーカーホリック気味の最年長のお守りを任せられるなんて、いくらなんでも重荷すぎる!なんて不満をぶつけたかったが……少し困ったように眉根を下げて言ってくるもんだから、結局何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。
そんな俺(と柔太朗)の思惑なんて知るわけもない男は、未だ俺の手の甲をすりすりと撫で続け、窓の外をぼんやりと眺めている。
ふっと小さく溢れた溜め息はラジオから流れる派手なジングルの音に掻き消され、タクシーはただ真っ直ぐ彼の家を目指して走っていく。俺の気持ちなんて置き去りのままで。
「久しぶりだな、勇斗の家」
「最近あんま掃除できてないからキョロキョロしないで。はい、仁人はこっち座ってて」
本当はお邪魔するつもりなんてなかったのに、いつの間にか握られていた手に引っ張られ、気付けば玄関の扉を潜り、あれよあれよという間にリビングの二人掛けソファに座らされ、ちゃんと休めと心配されていた当の本人はキッチンへ向かい、コーヒーの準備まで始めてしまう。本当にここまで彼は歩みを止めなかった。ただの一度も振り返らず、視線すら合わないほどに。
ソファの前にあるローテーブルには、先日出演が決まったと喜んでいたドラマの台本が置かれており、しっかり読み込まれた跡が残っていた。どこにそんな時間があるのかなんて、思ってももう口にすることはない。
ーーーずっと、彼は止まれないのだ。
今さら柔太朗が俺にその役を託してきたとしても、きっと何も変わらないのに。もう何年も繰り返してきてしまったから。グループのため、ただその理由だけで彼は走り続けてしまうのだ。
ひた向きな彼の努力の痕跡がすぐそこに在って、もうほとんど無意識にその台本へ手が伸びた。
「仁人」
本の表紙に触れる直前、自分の手に重なった大きな手が視界に入った。顔を上げると、少しむすっとした顔の家主がマグカップ片手に俺を低く呼んだ。
「お前なんでじっとしてられねえの」
「……俺にお構いなく?」
「はっ、うぜー。客人は黙って客人らしくしてろ。コーヒー熱いから気ぃ付けてな」
自宅で使ってる物より少し大きめのマグを俺に持たせながら、彼はその台本をテーブルの端に追いやった。
俺の隣にどかっと座り、背凭れに身体を預けながら、天井を見つめ深く長い溜め息を吐いている。ずっと気を張っていたのだろうとすぐに気付けるほど、長い時間をかけて。
マグカップの中。コーヒーの水面に映り込んだ自分の顔色も、決して良くはない。疲労が見え隠れする自分の顔に目を瞑り、そっと一口飲み込んだ。
「……美味しい」
何も考えず、ただ漏れ出た味の感想。そんなたった一言に、この男は嬉しそうに笑った。
「仁ちゃんやけに素直だねえ」
「お前なんでそんなニヤけてんの? 俺が美味しいって言っただけで?」
「うん。なんか妙に響いたわ」
「疲れすぎ」
「そーかもねえ」
「……素直じゃん、きもちわる」
「仁人のがうつったんかな」
「はいはい。そういうことにしときますか」
ニヤけ面を横目に、俺は持っていたマグをテーブルに置いた。
「……仁人」
多分、彼はずっと待っていたのだろう。
タクシーの車内で上がってしまった体温はずっと維持されてしまっていて、玄関で適当に靴を脱いでいる時も、きっとキッチンでコーヒーを淹れているその時も。
彼は、ずっと手放しで甘えたがっていた。
「はあ……いいよ」
おいで、なんて言えず、ぶっきらぼうに言ってしまう自分に何故こんなにも嬉しそうにできるのか。自分より大きい身体を真正面に受け止めながら、今度は自分が天井を眺めていた。
加減もなしに両手両脚を巻き付かせ、またいつものように。
「じんと……」
親と逸れてしまった子どものように。すくすくと育ちきった大きな身体がその体温を全身で感じ取ろうと必死で。甘さを含んだ低い声は、切なく俺を呼ぶ。
そろりと背中に回した手はぎこちなく彼を撫でていく。大きな背中、肩甲骨、肩、後頭部。どこを触っても自分と違っていて、そして、万に一つとして……異性だと間違えるところはない。
目の前の首筋に鼻を近付けると香ってくる、香水の中に潜む彼自身の匂い。どうしてもこれを、自分の意思なんて置き去りにして探ってしまう。顔に触れる髪が邪魔で、でもそんなこと今はどうだって良いんだと、脳が訴えているから。
正常な判断が、できなくなる。
それが、どうしても、おそろしいと感じてしまう。
「勇斗くーん。いつになったら親離れできるんですかねー?」
頭をぽんぽんと優しく叩きながら、思ってもないことを言ってしまう。
それでも蛇のように絡み付いた手脚は少しも動くことはない。俺はまた、それに安堵してしまう。
「……ちゃんとベッドで寝なさいよ」
俺の言葉にぴくりと反応を示した体温が、少しだけ離れていく。
互いの呼吸の音も聞こえてしまうその距離で、額を擦り合わせたこの距離で、目の前の男の瞳に深い情の炎を見つけた。
「仁人と、いっしょがいい」
またせめぎ合う。目の前に居る彼と、自分の中に在る汚い独占欲と、あの柔太朗の言葉と、たった二人だけで生きてはいないこの世界と。
目を瞑る。それが何の合図になるかなんて知らないふりをして。肯定も否定もしない自分を都合良く解釈してもらうために。
ごめん、と。誰のためにも、何のためにもならない、身勝手な言葉を頭の隅に残して。
壁に掛けられた時計の秒針の音。
ぐしゃぐしゃに掻き混ぜられた髪。
火傷しそうなほど熱い体温。
互いの口の僅かな隙間で漏れる吐息。
このベッドの中は檻のようだ。彼の匂いから逃れられる場所などどこにもない。枕も、布団も、そして目の前の彼も。泣きそうになるほど強烈に、俺を縛り付ける。
でもそれが心地良い。
「は、ぁ……っふ」
情けない、欲に溺れた己の声が恥ずかしい。
絡み合っていた熱い舌が遠退き唇と唇を繋ぐ糸を見た瞬間、更に羞恥を覚える。こんな逃げられない場所で逃げたいなんて少し思ってしまって、思わず視線を上げた。
先程よりもっともっと濃くなった情の色を、ゼロ距離で直視してしまって。
「っあ……」
「じんと、かわいい」
もう何度も言われ慣れたはずのその言葉も、今この状況では恥ずかしいと感じてしまう。
「言う、な……っ」
「無理。言わせて」
「……なんで」
「ほんとに仁人が嫌って言うならやめる。けど、恥ずいっていう可愛いだけの理由なら……ごめん、聞けない」
俺の考えていること全てを見通したこの男の言葉が、また逃げ場を失くさせる。
何も言えずわなわなと唇を振るわせるだけの俺を見て、口の端を上げた男。あぁまた流される、と覚悟して目を閉じると、彼の大きな手は強い力で俺をぎゅうっと抱き寄せた。
「えっ?」
「あー……ほんっとにやべえ。マジでこれ以上は止まらなくなる。仁人が俺を狂わせる……全部仁人が可愛すぎるのが悪い……」
何やらぶつぶつと独り言を呟いているが全て聞き取ることができず、状況を理解するのに遅れた自分は何度か瞬きを繰り返した。
もそもそと布団の中で動いた彼は、俺の胸あたりに顔をぐりぐりと押し付ける。その度に揺れる髪が擽ったかったが、彼の頭を撫でると動きは止まって大人しくなった。
「……どーせ柔太朗あたりに言われてんでしょ。俺がちゃんと寝るようにとか、仕事させんなーとか」
その言葉に、彼の頭を撫でていた手がぴたりと止まる。
「っ、聞こえてたのかよ……」
「いや?でもやっぱ当たってたか。あの後自主練したり仕事したりしても良かったんだけど、たまたま仁人も一緒に上がれたし、なんとなく今日はこうしたかったんだよな」
「最初からそのつもりで……?」
「うん。だから、俺の我が儘聞いてくれてありがとね」
自分の腕の中で顔を上げたこの男は、やけにすっきりとした表情で静かに笑った。
彼は、きっと俺の心を見抜いていたのだろう。それがたまたまだったとしても、思慮深い彼は俺より先に俺自身が一人で葛藤していることに気付いて、その気持ちを汲んでくれようとするから。
お前のせいじゃない、全部俺がお前を動かしたから今ここに居るんだと……。
引っ込んでしまいそうな俺の手を引っ張って、俺の心を掬い上げてくれて、でもその行動全てが自分のためであるからと肯定し受け入れてくれた。引け目を感じることなど要らないのだと、ずっと示してくれていた。
「俺が全部守るから、仁人はそのままでいてね」
まるで溶け出した蜂蜜のように甘く美しい笑みを向けたこの男が……どうしたって愛おしい。
「は、やと……」
「んふ。かあいい声で俺を呼ぶんだね、仁ちゃん」
「っ……勇斗」
「ほんとかわいい。もっと呼んで。仁人の声もっと聞かして」
ーーー俺をおかしくさせて、と。
両手で頬を包み込み、たまらなくなってかぶりついた唇。リップ音を響かせながら何度も唇同士を擦り付け合って、それだけで全身が甘く痺れるほど深い快感に繋がって。
頭の中が、勇斗だけでいっぱいになる。
「っは、きもちい……かぁいい、じんと」
違う、それはお前だ。お前の方が、ずっと。
思わずキスを止めて夢中で頭を掻き抱いた。ただ本能のまま、頭頂部に鼻を埋めて、脳に直接俺の好きな匂いを叩き込んで。気持ちいい、気持ちいいって脳が嬉しがっている。もっと深く、もっといっぱい、この男を愛したい。
俺の僅かな呼吸の隙間を縫うように、されるがままになっていた腕の中の男が顔を上げる。途端に、歪んだ表情を見せつけられる。
「っ……えっろい顔。俺以外に見せんなよ、そんなツラ」
いつもの甘やかすような声じゃない、耳の奥まで痺れさせる欲を孕んだ低い雄の声。
あぁ、だめだ。これじゃまるで……。
酸素が全身を巡り霧散した思考が纏まりかけた瞬間、男の熱い掌がするりと腰を撫でて、また意識が持っていかれた。
「ぅあ……っ」
たったそれだけ。前戯にも満たない服の上からの触れ合いだけで、またトびかける。
「おっまえ……なんちゅー声して……っ!」
焦ったような、怒ったような声。
ストッパーが壊れた自分にとって制御できることなど何もないのに。ただされるがままの、本能の赴くままに、この男に身を委ねたい。
荒く短い呼吸の音が耳障りだ。額を擦り付けて、鼻先が触れ合って、黒く長い睫毛の間から必死に理性と戦っている男の瞳を見つめた。両手で彼の頬を固定し、今度は彼の逃げ場を失くす。
戦ってる、戦ってるなぁ、なんて遠くで思いながら瞳の奥を覗き込むと、欲に溺れかけて浮ついた表情の己自身が見つめ返していた。これが、勇斗の言うえっろい顔なのか。元々下がり気味だった目尻はもっと落ちてしまっていて、心なしか瞳も潤んでいる。
これが、勇斗の好きな顔。勇斗が狂うと言っていた、俺の顔なのか。
「ふっ……かわいい」
もっと俺に夢中になればいいのに。俺だけがお前を抱きしめて、お前が自由になれるそんな場所が俺だけであればいいのに。俺だけが、この世界の何もかもからお前を守れたなら……お前が苦しまず居られるのに。
「可愛い、俺の勇斗……」
この形の良い綺麗な頭を抱き込んで、腕の中に閉じ込めて、ずっとずっとこのまま……。
「あの……仁人さん……?」
「ん……?」
「えっとぉ、俺はどんな顔すればいいんですかね……?仁ちゃん甘やかしモード突入したん?さすがに俺も照れるっつーか……ねえ?いや嬉しくないとは言ってないよ?仁ちゃんデレ期珍しいなーとか思ったり、ね?嫌じゃない。それはマジ。でもまさか仁ちゃんからこんな大サービスあるなんて、そんな明日は空から槍が」
「勇斗」
「はい」
「うるさい」
「……ええ?そんな急に辛辣になることあるぅ?」
「俺の……」
「……俺の?」
恐る恐る顔を上げたでっかい大型犬に向かって、俺は目一杯笑ってやった。
「俺の抱き枕」
そうだ。俺の抱き枕にはキスでもしてやろう。前髪を払った額の真ん中に唇を長めに押し付けて、これは俺のだーって印になるんだって、たとえ抱き枕が一人で外を歩き出したとしても迷ったとしても印を辿ってまた俺のところに帰ってこられるように……。
「んー……おれの……」
目を閉じていても存在を感じる、ここに居るのだと分かる、勇斗の匂い。いっぱいで、うれしい。俺の好きな……勇斗の……。
「仁人……?」
甘やかす声。もっと聞きたい。聞こえない。もっと……なんで、もっと……。
「仁ちゃん」
ぼんやりとした視界の中で、俺の腕の中に居た男がいつの間にか俺の目の前、なんだったらもう少し上の方に居て、今度は俺が抱えられる順番らしい。大きな手が顔を撫でていく。前髪を払って額、眉毛、瞼、目尻、耳、顎下、そして唇を親指でなぞる。うっすらと開いたその隙間から、小さく息が漏れ出た。
俺を見て、俺を感じて、俺で満たされて。なんて強欲な自分がそこに居た。
「は……ゃ、と……」
「俺の仁人。ずっと、そばにいて。何も考えなくていい、不安に思わなくていい。俺の隣で笑ってて……」
まるで呪文だ。絶えず言葉を紡いで、俺を雁字搦めにしていく。
唇の間からずるりと入り込む親指。悪戯に下の歯をなぞって、舌に触れる。ぬちゃ、と品のない音が聞こえて、夢か現実かも段々と分からなくなってくる。
「俺に執着して。俺がいいって言って。俺をもっと夢中にさせて。仁人が居ればそれだけで充分なんだって……」
もっと頭が働いていれば彼の言葉を全部頭の中で反芻して、その言葉たちの意味を考えることができたのに。ただ心地良い声色が歌声のように感じて、どんどんとすり抜けていってしまう。
「……すきだよ、じんと」
抜けていく指の代わりに、勇斗の唇が重なり合う。
俺の記憶はそこで終わった。
最後に聞いた吐息混じりの勇斗の声。その言葉の意味も理解できないまま、俺は夢の中へと落ちていった。
おわり
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うわあああああっっっ😭💕💕💕 めおさん、この一編やばすぎます…!! タクシーの車内で重なる手のひら、ソファで台本に手を伸ばす仁人、ベッドの中での“抱き枕”発言…全部が尊すぎて頭抱えた📚💥 特に、甘やかしモード突入した仁人と、それに照れつつも嬉しそうな勇斗の空気感がエモすぎて、何度も読み返したくなっちゃいました…! “俺の抱き枕”って、あんなに愛おしそうに言われたらもう一生離れられないやつ…😭🫶 連載だったら絶対追いかけます!めおさんの世界観、もっと見たいです…🌸✨
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