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夜の帳が落ち
街の喧騒がようやく沈み込んだ頃――
喫茶 桜の居住スペースにも
静かな時間が流れていた。
誰もが深い眠りに落ちるその刻限
ソーレンは僅かな音すら立てぬよう
そっと自室の扉を開いた。
扉の開閉音、足音、衣擦れ――
一切を殺して
音の無い影のように廊下を抜けてゆく。
その夜だけではない。
そんな日が、何度もあった。
その異変に
時也は既に気づいていた。
ベッドの中
アリアの肩を
優しく抱き寄せたままの体勢で
目を閉じていたはずの彼の瞼が
微かに開かれる。
腕の中で眠るアリアは
無垢な寝息を立て
金糸のような髪が月光を淡く揺らしていた。
時也は静かに息を吐く。
(⋯⋯また、ですか)
酒を飲みに行く夜は
ソーレンは堂々と扉を開けて出ていく。
冗談の一つも口にし
きっちり泥酔して帰ってくる。
けれど
このような夜だけは違った。
気配を完全に消して
誰にも知られぬように。
夜の闇に溶けて、跡を残さず出ていく。
そして
朝に酒の気配も無い。
(⋯⋯どこへ行っているのでしょう)
気にはなる。
だが、詮索はしたくない。
けれど――それでも。
わざわざ〝隠して〟出て行く
その姿にだけは
どうしても無視できなかった。
時也はそっと
アリアの髪を撫で
腕を沈めてゆっくりと引き抜くと
身を起こした。
寝間着を脱ぎ
滑るように着物を羽織り
慣れた所作で帯を締める。
静かに、扉を開け
ソーレンの後を追う。
己の気配すら空気に溶かしながら――
辿り着いたのは倉庫街
その下に広がる地下構造。
薄暗い照明。
汗と血の匂い。
耳に痛いほどの怒号と歓声。
(⋯⋯これは⋯格闘技場、でしょうか)
時也は少しだけ目を細めた。
充分に給金は足りている筈。
副業を黙って行う理由も、見当たらない。
金銭目的――
賞金稼ぎという線は、薄い。
(……とりあえず、見てみましょう)
彼は一つのテーブル席に腰を下ろした。
あまりにも場に似つかわしくない
背筋を伸ばした所作と品のある佇まいに
周囲の粗野な男たちが
ちらりと一瞥を投げては
目を逸らしていった。
その時
場内に太鼓の音と共に
次の闘士の名が叫ばれた。
「次の挑戦者ァ!
ソォォォーーーレンッ!!!」
拳を軽く掲げて
ソーレンがリングに登場した。
シャツを脱ぎ
肩を鳴らしながら
ゆっくりと歩くその姿は
確かに〝闘う者〟のそれだった。
だが――
その表情には
張り詰めた気配と
どこかしら疲労の色が混じっている。
時也は
腕を組んでその姿を静かに見つめた。
(⋯⋯なんの為に、こんな場所で)
彼が拳を交える理由を
時也は知りたかった。
そして――
時也は思い切り、肺に空気を取り込む。
「ソーレンさーん!ふぁいとですよー!」
朗らかに
けれど確実に場に響くよう
時也は声を張り上げた。
場内が一瞬、しんと静まり返る。
そして――
リング上の男が
まるで雷に打たれたように動きを止めた。
驚愕、混乱、そして――
鬼に見つかった子供のような
致命的な焦りの色が
ソーレンの顔に一気に広がる。
「⋯⋯っ、は?⋯⋯時也っ!?
なんで⋯⋯っ!」
ソーレンの顔から、血の気が引いていく。
時也は微笑を浮かべたまま
席でお茶を啜っている。
(⋯やはり、何か事情があるのですね)
目と目が合った瞬間
ソーレンの全身から冷や汗が吹き出した。
なんでいる。
なんでここに
よりにもよって、アイツが――。
口が動かない。
息が詰まる。
拳を握る感覚すら曖昧になる。
隠していたのに。
気配まで殺して
誰にも知られぬように出てきたのに。
この場所だけは、知られたくなかった。
知って欲しくなかった。
見られたくなかった。
拳を握りしめ
下唇を噛みしめながら
ソーレンは怒りにも似た苛立ちを覚える。
なぜ、時也にだけはこうも見抜かれるのか。
全てを察したように
微笑を浮かべて席に座るその姿が
今は――
何よりも腹立たしい。
ただひとつ確かなのは
今夜、この地下の熱気の中に
絶対に持ち込むつもりのなかった
誰かの気配がすぐ背後にいるということ。
リングの中心に立つソーレンは
深く一度だけ息を吸った。
目を閉じる。
耳に届くのは
まだ鳴り止まぬ歓声と
観客の怒号。
だがそれらは彼にとって
既に無音だった。
意識を研ぎ澄ませば
鼓動と呼吸だけが世界を支配する。
指先から足裏まで
全身の力を均等に巡らせる。
肩の力を抜き、重心を僅かに落とす。
構えは、鋭くも自然――
まさに闘い慣れた者のそれだった。
目を開けると
先程までの動揺はすっかり消えていた。
その眼には
ただ目の前の〝敵〟しか映っていない。
「始めッ!」
場内に響く乾いた号令と同時に
相手の男――
身の丈も横幅も倍はあろうかという
屈強な巨漢が
咆哮と共に突進してきた。
だがソーレンは、動かない。
拳も、脚も、ただ静かに構えを保ったまま
巨漢の突進を真正面から見据えていた。
「ぬゥゥぉらッ!!」
振り下ろされる拳――
重量と勢いを伴ったその一撃は
並の人間なら
それだけで戦意を喪失するような迫力。
だが。
瞬間、ソーレンの身体が消えた。
いや、実際には動いている。
膝を僅かに沈め
ステップで半歩斜めに身を滑らせただけ。
だがその動きは
目で追えないほど鋭く
流れるような〝しなり〟を帯びていた。
拳が空を切った。
巨漢の背後に、ソーレンの姿。
「⋯⋯!」
振り向くより先に、肘が背中にめり込む。
肺の中の空気が一気に押し出され
男が呻いた。
すかさず回し蹴り。
今度は腰を砕くように
低く抉るような一撃。
巨漢の重心が崩れ――
膝が落ちる。
「ちぃッ⋯⋯!」
痛みを堪え
巨漢が振り向きざまに拳を放つ。
だが、その拳は再び空を切る。
ソーレンの姿はもう、そこには無かった。
接近戦に持ち込んだと思えば
刹那で離れ
一転して真横から飛び込んでくる。
足の裏が鳩尾に突き刺さるようにめり込み
男の巨躯が宙に浮いた。
観客席がざわめき、歓声が爆ぜる。
だが
ソーレンの表情は一切変わらない。
鋭く、冷たく、そして静かに。
まるで何かを〝罰する〟ような――
儀式の執行人のような眼差しで
相手を見据え続けていた。
巨漢が体勢を立て直す間もなく
肘、膝、踵、拳――
全てを殺すためではなく
崩すために使い分ける。
合理的な連打。
無駄のない連携。
一瞬たりとも
相手に考える暇を与えない。
「がっ⋯⋯あっ、あが⋯⋯!」
ぐらついた巨漢の顎に、最後の一撃。
拳が滑らかに
そして正確に突き上げられ――
ゴンッ、と鈍い音を残し
巨体が崩れ落ちた。
審判の確認を待たずに
ソーレンは構えを解き
静かに背を向けた。
静まり返った会場に
ようやく、どよめきと歓声が戻ってくる。
それでも彼は
誰の声にも応えなかった。
勝っても、吠えず、拳を掲げず、笑わず。
ただ一度
リングの外に座る
品の良い着物の男にだけ――
一瞬だけ視線を向けて
「⋯⋯⋯⋯⋯来るなよ」
そんな声が聞こえた気がした。
怒りと焦りと
ほんの僅かな
照れ臭さが混ざった――
そんな
ソーレンらしい目だった。
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静寂の中、拳で語られる本音と誇り。 誰にも見せたくなかった夜の闘いに、想いを抱えた二人が向き合う。 怒りも焦りもすべて飲み込み、ただ隣に在るために、拳を交わす月下の対話──